吠える犬は噛み付かない

宇土為名

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 店の定休日は自分で勝手に決められた。特に予定もなければ他に仕事をしているわけでもない。休みが足りないと思えば週に二回でも休みは好きに取れた。オーナーに知らせておけば何も憂うことはなかった。
 水曜日の夜、いつもうるさい常連たちが新規の客を伴って奥の席で騒いでいた。他に客はいない。好きにすればと思い勝手にさせていた。おまえらの家じゃねえんだけど、と返りにしっかり深く釘を刺せば気分もスッキリする。
 宴も酣となった頃、よく知った顔が入って来た。
「よう」
 挨拶すれば、そいつは盛大に顔を顰めた。
「…随分騒がしいな」
「陰気よりいいだろ」
「……それ嫌味?」
 はは、と俺は笑った。
「自覚あるのウケる」
 不貞腐れたような顔でカウンター席についた男に、いつもの酒を出してやる。二年程前転勤で大阪に行くことになったと言っていたそいつは、最近になってこちらに戻って来たと、前触れもなくひょっこり現れた。行く前に恋人との関係が拗れ、別れたようだったが、それを今修復しようとしているらしい。関係が良好になったとは全く聞かない。話を聞けば大概子供みたいな悋気で相手を怒らせたりしているようじゃ、それは難しそうだと思った。だってこいつ、執着がすごい。
 俺ならごめんだと、名前も知らない彼氏に深く同情する。
 そう、彼氏だ。この男は俺と同類だった。そしてあのストーカーを押し付けた相手だ。
 さらに名前はアヤトだ。
 散々な目に遭ったと愚痴を言いながら、男はスマホから目を離さなかった。
 相手は彼氏だ。
 俺は男の前を離れた。暇な時間帯だ。明日の補充の確認でもすることにした。在庫表と棚の酒を照らし合わせていると、カウンターの内側に置いていた俺のスマホの画面が明るくなった。
『明日本当に頼んでもいい?』
 由良からだった。

 ***

 こんな仕事をしていると、夜が昼になり昼が夜になる。当たり前のことだが昼夜逆転して、明るいうちに外を出歩くことも殆どない。休みの日は一日寝ているか、起き出した夕方に、買い出しがてらあてもなく車を流すのが常だった。
 夕暮れと夜の狭間が好きだ。
 待ち合わせ時間は十六時。車で回るならちょうどいい時間だ。昼過ぎに向こうを発つ彼を駅近くのカフェで拾ってから行きたいところを案内することになっている。
 いつもより早く起きて身支度をした。伸ばしっぱなしの髪はいい加減切るべきだが、行く時間がない。それを言い訳にもう三ヶ月以上このままだ。
 ちなみに店の客には更に軽薄になったともっぱらの評判だ。
 築年数の古いマンションの駐車場に停めっぱなしの車を出す。普段ほとんど使わない車内には何もない。助手席の足元に紙切れが一枚落ちているだけだ。
 待ち合せ場所までは四十分ほどで着いた。近くのパーキングに停め、カフェに向かった。店内は平日だと言うのに満席に近かった。
「──」
 いた。
 奥の席、周りは女ばかりだからか良く目立つ。こちらに向けている背中は綺麗に伸びていた。店員に待ち合せであることを身振りで伝え、奥に進んだ。彼はスマホの画面をじっと見ていた。少し傾げられた首、その肩に手を伸ばす。
「由良さん」
 あ、と綺麗な顔が振り向いた。
「お待たせ」
 テーブルにはコーヒーの入ったカップがあった。湯気を立てているそれは、来たばかりのようだ。俺は向かいに座り近くの店員を呼んで同じものを注文した。
「ごめん、休みなのに」
「いいよ、言い出したの俺でしょ? どこ行くか決めた?」
「あー…、と、ここと、ここ。長峰くん車なんだよね」
「そう。どこでも連れてくよ」
「じゃあ…持ち帰りもしていいの?」
「いいでしょ」
 遠慮がちに聞いてくるのがかわいいな、と不意に思い内心で苦笑した。年上の相手に思うことじゃない。多分。
 コーヒーが運ばれて来た。行きたい場所をまとめたメモを見ながらルートを頭の中で決める。幸いなことに、というか希望の場所は同じ延線の上に点在していた。ただひとつだけは、それとは大きく離れた場所に位置している。
 今から行くには距離があり、少し遅い時間だった。
 そう告げると、そうなんだ、と由良は言った。
「じゃあそこはやめるよ」
 あっさりと言い切るのに、俺はうーん、と首を傾けた。
「すぐ諦めるね」
「え?」
 驚いた顔をした由良に笑いかける。
「今度にしようってこと。引っ越し終わったらいくらでも連れてくし」
 コーヒーを飲めば煙草が吸いたくなる。確か外に喫煙スペースがあった。車の中では吸わないと自分で決めている。行くなら今だった。
「ちょっとごめん」
 煙草を見せると、由良はいいよと笑った。俺は外に出て火を点ける。吸いながら、以前付き合っていた奴とこの手のことで揉めたのを思い出した。
 いちいち離席するの鬱陶しい。
 もうずいぶん前のことなのになぜ思い出したのか分からない。
 半分ほど吸ってから店内に戻り、入り口にいた店員に言って支払いを済ませる。さて、と由良を呼びに行こうとして、足が止まった。
 座る由良の横に女がふたり立っている。
 腹の底の何かがひたりと冷えた。
「えーそうなんですけどお、でももしよかったら…」
「それは、あの──」
「なあ、何の話?」
 由良と女ふたりが同時に俺を見た。
 俺は女を満面の笑みで見下ろした。
「悪いけどさあ、俺たちこれからデートなんだよね? 邪魔しないでくれる?」
「…へ?」
「え?…」
「行くよ」
 腕を掴み由良を立ち上がらせた。そのまま引きずるようにして店の外に出る。数歩歩いてから腕を放した。
「長峰くん、あの」
「あのさ」
 きょとんとした顔に、はああ、と特大のため息が出た。
「由良さんダメじゃん、何逆ナンされてんの」
「え、逆ナン? なのあれ」
「それしかねえだろ…」
 気づいてなかったのか。
「そう?」
「そうなんだって」
 自分がどんな目で見られてるとか興味ないんだろうな。
 はあ、ともう一度ため息を吐くと、俺は彼の服の袖を軽く引っ張った。
「いいから、ほら行くよ?」

 買い物は順調に済んだ。事前に色々決めていたのだろう、由良は迷うことなく商品を選んでいった。平日だったためそれほど混んでいることもなく、大型のものは配送を頼み、手に持てる物は車に載せた。
 時刻はすでに二十一時を回っていた。さすがに腹が減ったのでどこかで食事をすることにした。買い物を待っている間に適当に調べた何店かを挙げると、由良はそのうちのひとつに興味を示し、そこで遅い(俺にとっては早い)夕食を取った。食事は美味しかった。店以外で誰かと一緒に食べるのは本当に久々だったし、楽しかった。由良とは楽に話が出来る。気負うことのない会話のそれは彼によるものが多い気がしたが、わざわざそれを言うことは出来なかった。
 帰りは行きよりもいつも時間が短く感じる。
 市内に入り、駅の近くになると由良に聞いていた住所をスマホのナビに入れ、車を進めた。彼の新居は確かに茶色い壁のマンションだった。
「今日は本当にありがとう」
「それ何回言うの?」
 今日何度目か分からない礼に苦笑した。買い物が終わったときも食事の途中にも、由良は俺に同じ言葉をくれた。
「俺も楽しかったって言っただろ。久しぶりに外出て飯食って、生き返った気がする」
「そう?」
「そうだよ」
 車から降ろした荷物をふたりで部屋まで運ぶ。カーテン、シーツ、食器と調理器具、由良が玄関を開け俺を中に通した。
「そのへん適当に置いて──、あっ」
「何?」
「荷物、車に忘れて来た。ごめん鍵借りて良い?」
 いいよ、と鍵を渡すと由良は外に出て行った。後部座席にあったものは全部下ろしたと思ったが、そういえば助手席にも荷物があった。
 あれを忘れて来たのか。
 部屋の中は蒸し暑かった。俺はリビングの窓を開け、風を通した。夏の夜の風がカーテンのない窓から入って来る。そうして見回した部屋には、驚くほど何もなかった。
「ほんとに冷蔵庫ないのかよ…」
 初めて会った日に言っていたことは本当だった。レンジもない。この部屋に寝泊まりしてはまた帰って行く由良がどうやって生活をしているのか不思議だった。
 思えば本人も、ふわふわとしてどこか掴みどころがない。
 しっかりしていそうで鈍いところがある。でも、彼の傍は居心地が良かった。ほんの半日にもならないが由良に言ったことは本心だった。
 煙草が吸いたくなって、玄関から出る。オートロックではないことは確認済みだ。ベランダで吸うと苦情が来やすいことは経験済みだ。由良と入れ違いに外で吸おうと彼を待った。
 通路の手すりに寄りかかり、下を見る。マンションの来客用スペースに停めた俺の車は、外灯の下と言うこともあってよく見えた。ちょうど、由良が助手席から紙袋を取り出しているところだった。
 ふと、彼は振り向いた。まるで誰かに呼ばれたように。
 その視線を辿る。誰もいない暗がりだけがある。
 やがて彼は視線を戻し、車のドアを閉めた。ロックの点滅がパッ、パッと瞬く。
 見ているのに気づいたのか、由良がこちらを見上げた。
 あったよ、と唇が動く。
 たったそれだけのことに妙に胸の奥が疼いた。俺は軽く手を上げて由良に応えた。
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