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 近くのコインパーキングまで、朔と由生子はゆっくりと歩いていた。
 そういえば、と朔は隣の由生子を見る。
「何で今日青桐がいないって知ってたの?」
「ああ、ふふ…それね」
 由生子は思い出したように笑った。
 冬の匂いのする風が柔らかそうな前髪を揺らす。
「パーティーに行く前に、私のところに書類を持って来たのよ、あいつ」
「書類?」
「うん。会社関連のね。今色々と手続きしてて…まあそれで顔見たときに、ああ何かあったなって思ったんだ」
 藤本くんと一緒にいるって知ってたから、と由生子は微笑んだ。
「あの顔見て、藤本くんがまたあいつから離れてどこか行くんじゃないかって気がしたんだ。私の勝手な思い込みだけど…、だから、あいつがいないときに会っておこうって思って。それは多分今日しかないから」
「……」
 ふと朔は立ち止まる。
「青桐…、どんなだった?」
 数歩先に行った由生子が振り返る。
「執着丸出しの顔してた」
「──」
「嘘だよ」
 言葉を詰まらせた朔に、由生子は笑った。
「でも、心配で心配でしょうがないって顔してた」
「…そう」
 うん、と由生子は頷いた。
 ふたりはまた歩き出した。
「離れようって、思ってたんだ」
「──うん」
「好きなのは自分だけだって思ってた。だから、その準備もしてたんだ」
 少し間が空いた後、うん、と由生子が言った。
「でも、もうやめるよ」
 由生子の視線を感じて、朔は足を止め、自分の隣に顔を向けた。
「心配させてごめん。今日は、会いに来てくれてありがとう、高瀬さん」
 自分を見上げる目尻に涙が滲んでいる。苦笑しながら覗き込むと、由生子がじっと朔の顔を見返していた。
「…なに?」
 見合う目が揺れている。なんだろう、と思ったとき、ぽつりと由生子が呟いた。
「私も藤本くんを好きになれればよかったなあ」
「え?」
「いいなあ、由也が羨ましいなあ…」
 由生子は子供が泣き出す一歩手前のような顔をした。
 藤本くん、と呼ばれる。
「私ねえ、好きな人がいるんだよずっと」
「…うん?」
「その人とは友達で、私のたったひとりの友達で…、それでね、高校を卒業するとき、告白したんだ」
 朔は頷いた。
「でもその人はね、やっぱり他の人と同じように男の人が好きなの」
「……」
「ずるいよねえ、あんななんだもん、もしかしたらって、期待しちゃうよねえ」
 その言葉の意味を朔はゆっくりと飲み込んだ。
 ああ、そうか。
 そうだったのか…
 由生子は唇を噛み締めた。
「私は、どうしたって男の人にはなれない」
「……うん」
「私は一生男の人を好きになれないのに、なんで──」
 言葉を詰まらせ、それから小さな声で言った。
「男に、生まれたかったなあ…」
 そうすれば愛してもらえたかもしれない。
 泣き顔で笑う由生子の頬を涙が流れていく。朔はそれを指で掬った。
「俺も、時々考えるよ」
 自分がもしも女性だったなら、話はもっと簡単に済んだだろうか。青桐が言えない気持ちを汲み取って、もっと素直に傍にいることが出来ただろうか。
「でも、それでも、この姿で会えてよかったって最後には思うんだよ」
 何も女性になりたいわけじゃない。
 他の誰かが──同性が好きなわけじゃない。
 好きになったのが、ただそうだっただけ。
 青桐がこのままの自分を想ってくれているのなら、それでいいと思えるのだ。
「連絡、してみたら?」
「出てもらえないよ。もう、忘れられてる」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよお…っ」
「大丈夫だよ」
 朔は嗚咽を堪える由生子の体をそっと引き寄せて、抱き締めた。
 いつか青桐にもしたように、その背中を宥めるように、ゆっくりと擦った。
「案外、ずっと待ってるんじゃないかな」
 腕の中の由生子からは、安西と同じ香水の香りがした。それは前村といるときとは違う、普段の安西の香りだった。

***

「朔…っ」
 マンションを飛び出した青桐は、朔を探して夜道を走っていた。
 月明かりで外はいつもよりも薄明るい。
 濃い水底のようだ。
 どうしよう、どうしよう。
 落ち着け。
 落ち着け。
「…っ」
 部屋の中には朔の荷物がすべてあった。ここに来たときに持っていたスーツケースもクローゼットの中だった。机の上のノートパソコンは仕事にも使っていた気がする。
 そんな大事なものを置いては行かない。
 帰りにどこかに寄っているだけだ。仕事仲間と飲みに行ったのかもしれない。今日は金曜日で、青桐はいないと分かっていたから、それで──それで…
 電話が繋がらないのも、誰かといて出られないから。
 そうだ。きっとそうだ。
 青桐は自分を落ち着かせようと順序立てて考えていった。
 散らばってしまった確信をひとつひとつ拾い上げていく。
 大丈夫。
 大丈夫、帰って来る。
 帰って来る。
「…帰って来る」
 けれど息を継ぐその合間に、するりと嫌な考えが湧いてくる。
 でも、と。
 でも、なにもかもを捨ててどこかに行ったのだとしたら?
 あのときのように。
「──」
 ぎしっ、と心臓が嫌な音を立てた。
 嫌だ。
 嫌だ。
 朔。
 もう一度朔が目の前から消えてしまったら、もう生きていける気がしない。
 住宅街の駅までの道、いつもの帰り道。彼がここに来てから毎日のように歩いていた場所を青桐は辿った。
 けれど朔はどこにもいない。
 もしかしたらどこかですれ違ったのかもしれない。
 もう一度電話を──
 掛けようとして、持たないまま出てきてしまったことに気づく。
 くそ、朔の部屋だ。
 取りに戻らないと。

***

「ここでいいの?」
 駅の近くで車を停めた由生子は、助手席の朔を向いた。
「マンションまで送るのに」
「うん、でもちょっと歩きたい気分だから」
「そう?」
 シートベルトを外しながら、うん、と朔が頷くと、由生子は少し赤くなった目元で微笑んだ。
「また連絡していい?」
「いいよ。いつでも」
「じゃあ、今月中に食事に行かない? あの、よければだけど」
「いいよ」
 きっとそのときは安西も一緒だろうと、朔は頷いた。
 ありがとう、と由生子が言った。
 連絡先はたがいに交換済みだ。
「由也には内緒で会わないとね」
「そんなことしなくても」
 苦笑すると、由生子は顔を顰めてみせた。
「だってあいつ独占欲の塊なんだもん。私に鍵返せって言ったんだから」
「マンションに来てたの?」
「まあ、時々。会社関係であいつの承認も必要なときがあるから、それ持って行くついでに食料運んだりとか、それくらい。もともとあの部屋は会社の持ちものだから」
「そう」
 ふと、朔は気になっていたことを口にした。
「青桐は料理しないよね?」
「料理? しないと思うけど…、あいつレンジ専門だから」
「そっか」
 では冷蔵庫の奥にいつもあるあの鍋は、一体何なのだろう?
「それじゃ、送ってくれてありがとう」
 朔はドアを開けた。
 あ、と振り返る。
「今月末は実家に帰るから、それ以外なら大丈夫だから」
 ああそっか、と由生子は言った。
「もう七回忌なんだね」
「うん」
「分かった。おやすみ、藤本くん」
 おやすみ、と言ってドアを閉めると、窓越しに由生子が片手を上げた。走り出した車を見送りながら、朔ははっとした。
 七回忌?
 なぜ、そのことを──
 六年前の秋に父親が死んだことはまだ青桐にも話せていないことだ、なのに。
 どうして…
 風が朔の髪を揺らした。
「……」
 ふっ、と夜が暗くなる。
 見上げれば月が、雲の中へと消えていた。
 月の消えた夜は、闇のようだ。
 地上は建物の明かりがあるけれど、空は暗闇だ。
 どこかでサイレンが鳴っている。
「明日は雨かな…」
 マンションまでの道を朔は歩く。
 いつもの道、いつもの景色。
 青桐はもう帰っただろうか。
 出版社のパーティーだそうだから、きっとまだだろうな。
 でも一応連絡しといたほうがいいか。
 鞄の中のスマホを手にしたとき、横の路地から人が飛び出してきた。
「あ──」
 どん、と押しのけるように肩をぶつけられ、朔はよろめいた。握っていたスマホが宙に投げ出された。点灯していたバックライトがさっと暗がりを照らし出す。一瞬、飛び出した人影の輪郭が浮かび上がった。
 チッ、ときつい舌打ちがした。男だ。
 男は道路に尻餅をついた朔を見下ろした。見上げた瞬間、男が息を呑んだ気配がした。けれど何も言わず、身を翻すと駅のほうへと走り去った。
 何だ?
 よほど急いでいたのだろうか。
 朔はため息をついて傍に落ちたスマホを拾い上げた。
 ふと手が止まる。
 画面の通知には前村の名前があった。そして青桐からの着信の通知が──
「え…?」
 十一件?
 メッセージはもっと多い。
 朔は目を見開いた。
 どうしてこんなに…
 慌てて開くと、どこにいるの、と何度も繰り返されていた。
 もう、帰ってる?
 ──まさか、と嫌な予感がした。
 朔は立ち上がると、走り始めた。
 マンションが見えてきた。その直後、朔の足下を小さな影が過った。
 朔は避けようとしたが、間に合わなかった。


 荒い息がしんとした家の中に響き渡る。
「朔…?」
 朔、と奥の方へ呼びかける。
 誰もいない。
 誰も。
 帰っていない。
 すれ違っていたのかもしれないという期待が、脆く崩れ落ちていく。
 青桐はふらりと廊下を歩いた。着ているスーツは着乱れて、ネクタイは捩れている。心臓は凍り付いたようなのに、鼓動は嫌な具合に歪んで、汗が止まらない。青桐はジャケットを脱ぎ捨て、足下に放った。
「朔?」
 飛び出したときのまま、朔の部屋の床には、青桐が落とした本が散らばっている。
 しゃがみ込み、その上にある一枚の紙を青桐は手に取った。
 カーテンの隙間から差し込む月明かりで、白い紙の上に走る朔の字が浮かび上がる。
 いつ、こんなことになっていたのだろう。
 様子がおかしいとは思っていた。
 こんなことなら、確かめておくべきだった。
 朔は、このことをいつ言うつもりだったのだろう?
 ふと部屋が暗くなり、手元が見えなくなった。
 月が雲に隠れたのだ。
「……」
 やっと見つけた、俺の大事なもの。
 もう誰の手からも取り上げられないはずだった。
『この家で生きていくのなら、私の言うことは絶対なのよ、いいわね?』
 そう言って見下ろす義母が疎ましかった。
 暗い部屋に閉じ込められ、反省するまで出してもらえなかった。
 小さな窓からは、いつも欠けたような月が見えた。
 まるで自分の心のように何かが足りない。


 青桐の家に引き取られたのは三つの時だ。
 実母のことは覚えていない。
 そこから、まだ始まってもいなかった人生は、大きく変わった。
 望んだわけでもないのに多くのものを与えられ、同じだけ取り上げられた。
 奪われ続けたものはいつしか諦めることで折り合いをつけてきた。心が悲鳴を上げていても、見て見ぬふりをしてやり過ごしてきた。
 そうして気がつけば、声を失った。
 取り戻すことは出来たけれど、その間に大事なものを置いてきてしまった。それでもいいと思っていた。奪われるのなら、はじめから何も好きにならなければいい。何事にも関心を示さなければ、あんな思いを二度とすることはない。だから、表面だけを取り繕って笑っていた。誰にでも優しくした。そうして誰もが容易く好意を寄せてくれた。
 それでいいと、そう思っていた。
 でも、見つけてしまった。
 会ってしまったから。 
 自分のものだと思った。
 誰にも渡したくない。
 同じ性だということは何の問題にもならなかった。朔は男だったけれど、いつものように優しくすればすぐに朔も自分を好きになってくれると思っていた。
 でも朔は、女とは違って優しくすればするほど困った顔をしていた。どうすればいいか分からなくて、もっと優しくすれば、ますます朔は離れていく。
 自分だけを見て欲しくて、そればかりだった。
『青桐はなんで、そんなに俺を構うの?』
 問われても答えられないもどかしさに、はじめて青桐は言いたいと思った。
 言いたくても口に出せない。
 伝えたくても声に出来ない。
 ただそれだけのことがこんなにも苦しい。
 青桐は床に蹲った。
「…朔、さく」
 おまじないも何も効かない。
 言えるようになんてならなかった。
 今もまだ、青桐の月は、冷たいスープの底に沈んだまま──
 込み上げてきた涙が床に落ちた。
 雲が切れ、月明かりが差し込んだ。
 床に落ちた涙がほの白く光る。
「青桐」
 そばで声がした。
 その声に顔を上げると、開け放した部屋の入り口に、朔が立っていた。


「ごめん、遅くなって」
 部屋の中で、青桐は子供のように蹲っていた。
 上がった息を整えながら、朔は青桐のまえに膝をついた。
 さく、と青桐は言った。
「ごめん、ちゃんと連絡しておけばよかった」
「なんで…」
 青桐は朔の目を見た。
 涙の浮かんだ瞳がゆらゆらと揺れている。朔はじっとその目を捉えようと見つめた。
「なんで、出て行くの?」
 幼い声で青桐が言った。
 朔は口を噤み、青桐が握りしめている契約書に目を落とした。
 ああ、やっぱり、見られたんだ。
 今朝部屋に置いてしまったことを、朔は後悔していた。
「なんで勝手に出て行こうとすんだよっ!」
 朔の二の腕を強く掴み、青桐が怒鳴った。
「なんでっ、なんで何にも言わねえの?! なんで消えるの、なんで、いつもそうやっていなくなろうとするんだよ!?」
「ごめん、違う、それは…」
「何が違うんだよ! なんなんだよこれ、契約書…っ、なんで、なんでっ」
「青桐」
「俺はこんなに、こんなにっ、朔のことが──」
 はく、と青桐が息をした。
 ああ、と朔は思った。
 これだ。
 言えない言葉。
 青桐が失くしてしまった言葉。
 胸が詰まった。
 今、言おうとしている。ずっと欲しかった答えを。
「俺は、朔が…っ、さくが」
 青桐の顔がくしゃっと歪んだ。
 ぽろぽろと大粒の涙が落ちてくる。
 綺麗な顔が涙でぐちゃぐちゃになる。
 上から覗き込むようにされて、青桐の涙が朔の頬に落ちた。
 青桐が朔の顔を両手で包み込んだ。
「おれは、俺は、…っ、おれは、朔、朔が」
「…うん」
「朔、俺は…」
 はく、はく、と唇が震えている。
「俺は…っ」
 朔は自分の顔を包む青桐の手を取った。
 そっと体を伸ばし、濡れた頬に顔を寄せ、唇で涙を拭った。
 涙の跡を舌で辿る。
 びくりと、青い月明かりの中で、青桐の肩が跳ねた。
 さく、と青桐が呟いた。
 朔は体を離し、青桐を見上げた。
「もう、いい、いいから、青桐」
 ゆっくりと朔は言った。
 震えそうになる声をどうにか堪える。
「分かってるから、いいんだ」
「…え?」
「俺も同じだから」
 青桐が目を見開いた。
「無理に言わなくてもいい。好きだって、青桐が言えない分まで、俺が言うから」
 もうそれでいいと思った。
 きっとそれでいいんだ。
「さ…」
 好きだよ、と朔は言った。
 視界が揺れた。
「ずっと、好きで…」
 告白は、最後まで言えなかった。言葉ごと奪うように、朔は青桐に唇を塞がれていた。
 息の出来ない口づけの中で、好きだと言う青桐の声が聞こえた気がした。
 



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