風間くんの何でもない日常

宇土為名

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 ああ、どうしよう。
 どうしよう。
「あーおっそいよもー、やることたくさんあんのにさ、何してんだよ」
 どうしよう。
「風間、予算の割り振りなんだけどさ」
 どうしよう。
 キスした。
 先生にキスした。
「…どうしよう」
「だからあ! 予算、各クラスの実行委員と明日」
「どうしよう」
 先生にキスしてしまった。
「おいこら聞いてるか?」
 そう言われ、ようやく目の焦点が合う。目の前には不思議そうな顔をして俺を見ている平田がいた。平田だけじゃない、薮内も松島も、手を止めて俺を見上げている。相変わらず副会長は姿が見えない。
 ここは生徒会室だった。
 俺はいつの間にか無意識にここに来ていた。
 やらなきゃいけないことはたくさんある。
 放り出して帰ったりなんて出来ない。
「風間?」
 どんなに帰りたくたって。
 ゆっくりと、俺は目の前の平田と目を合わせた。
「俺、どうしよう」
「はあ?」
 怪訝そうに平田が顔を顰めた。
「なに、どうしようって──あ、おいっ」
 いきなりしゃがみ込んだ俺に驚いて、平田が声を上げた。
「え、なにどうしたの」
「おう大丈夫か」
 大丈夫じゃない。
 全然大丈夫じゃないんだよ。
 大丈夫なわけないだろーが。
 何やってんの俺。
 なにしてんの?
 なにしてくれちゃったんだよ。
「あああああああーっ、俺もう駄目かも…」
「ハア?」
 呆れかえったような声が頭の上から降って来た。
「ここまでやっといて自信喪失とかダリいこと言ってんなよ、おまえがやんなきゃ誰がやんの? ぐずぐず言ってないでとっとと立ち直って働けよ」
 おら、と上靴の先で脛を突かれる。
 うわ鬼畜、と松島が呟いた。
「あああああ…」
 こんなはずじゃなかった。
 本当にどうしようもない。
 しゃがんだ脚の間に項垂れた頭を抱え込んで、俺は心の底から泣きたくなった。


 がたん、と立ち上がっていた。
 目を見開いて驚いていた顔。
 ──カシャン
 かけていた先生の眼鏡が音を立てて床に落ちた。
 先生の顔。
 青褪めていた。
 目の奥が怖がってた。
 そして、傷ついていた。
 俺の唾液に濡れた赤い唇。
「っ、ごめ──」
 それだけを言うのが精いっぱいで、保健室を飛び出していた。
 風間くん、と後ろから先生の声が聞こえた気がした。


 日が暮れて暗くなったころ校門を出た。
「大丈夫かー風間」
 横にいる松島が心配そうに俺を見る。
「あー平気、ごめん、悪い」
「ならいいけどさあ…」
 何とも見えないように笑ってみせる。
「もう今日は和田センセーの尻拭いでいっぱいいっぱいだったんだよ」
 はは、と松島が笑う。
「あーそれ分かるわ、あの人テキトー過ぎだし」
「うん」
 俺が頷くと、松島はぽん、と俺の背中を叩いた。
「元気出せって。じゃあまた明日な」
「ああ」
 ちょうど来た分かれ道で松島は手を振って俺に背を向けた。その先には平田と薮内がいて、俺を振り返って片手を上げている。
 俺も手を上げて、自分の帰る方向へと足を向けた。
 とたんに虚しくなる。
 離れてしまった校舎を振り返る。
 一階の奥、ここからは見えない端のほうに保健室はある。
 きっともう誰もいない。校門を入ってすぐの職員棟の明かりだけが煌々と闇の中に浮かんでいる。
 …も、帰ったかな。
 そういえば少し前にこの道を一緒に歩いて帰った。
 次はもうないかも。
「つーかありえねえし…」
 明日謝ろう。
 もっとちゃんと謝らないと。
 初めてじゃない。女の子と付き合ったことだってある。キスも、その先も、がっついたことなんてなかった。
 なのに。強引に引き寄せていた。
 あんな顔させて、俺は最悪だ。
「なあ、あんた」
 道の先から声がして顔を上げると、外灯の下に誰かがいた。
 そこは公園の入り口だった。あのとき先生と寄り道をして飲んだタピオカのキッチンカーが停まっていた場所だ。
 もちろん今日はタピオカ屋はいない。
 そこにいたのはあいつだった。入り口に設置されている腰高の自転車進入禁止の柵に腰を下ろして顔だけをこっちに向け、上目に俺を見ている。
「あんたって、生徒会長?」
「そうだけど?」
 二年の教室で鉢合わせてから3時間は過ぎている。こいつはここでずっと、俺が通りかかるのを待ってたのか?
 そんなわけないか。
 制服の校章の下、ブレザーの胸ポケットからはみ出たネームプレートがちらりと見える。大抵の生徒は学校の外ではそれを外している。
 暗い上に光を変な具合に反射しててよく読めない。
「ふーん、そんな感じだよな。何でも良く出来そう」
 大して興味もなさそうに呟く。
 俺を睨んでいたあの刺々しさは今は見えない。
「…風間だよ、そっちは?」
「佐根井」
 さねい、と口の中で復唱する。
「風間先輩さあ──」
 よいしょ、と佐根井は柵から立ち上がった。
「悪いこと言わんから、あいつはやめときなよ」
「なに?」
「能田」
 意地の悪そうな笑いを、佐根井は薄い唇に乗せた。
「のんちゃん、だっけ。ほんとあんな見た目だけど、性悪だから。やめといたほうがいいよ」
「ア?」
 ブチ、とその言い方で頭のどこかが焼き切れた。
「先生がなんだって?」
「うわー瞳孔開いてる。あっりえねえ」
 佐根井は、ははっと笑った。
「まあ詳しくは本人に聞いてくださいよ。あいつが話すとかあり得ないけど」
 じゃあね、と言って佐根井は公園の中を走っていった。
 暗がりに溶け込んで見えなくなる制服。
 追いかけるつもりなんてない。
 言うだけ言って逃げんのかよ。
「…くそ」
 がしがしと髪を掻きむしる。
 今日は最悪だ。
 明日──どんな顔して会えばいいんだ。
 
 温かい風に乗って、どこからか甘い花の匂いがしていた。
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