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しおりを挟む夜に降った雨は朝が来ても続いていた。
窓の外は小雨が降っている。
さわさわと、細い糸のような雨。
「あれ、はよ。早いね」
早く来たと思ったのに、三年の昇降口にはクラスメイトがいた。濡れた傘をたたんで鍵付きの傘立てに仕舞っている。
「おはよ」
俺も入り口で傘を下ろした。水気を払って傘立てに突っ込み、小さな鍵を抜き取った。
「生徒会?」
「まあ、そんなとこ」
実際は違うけれど、そういうことにしておく。
「あーそうだ」
ふと思いついて俺は言った。
「たまにはあいつに来るように言って?」
クラスメイトは一瞬何のことかと首を傾げたが、すぐに嫌そうに顔を顰めた。
「やだよ」
「つめた」
「自業自得じゃん?」
「皆そう言うよなあ」
クラスメイトは、はあ、と大袈裟にため息をついた。
「ま、言うだけなら」
「ありがと」
「一つ貸しだからな」
「分かってるよ」
ちらりと肩越しに俺を振り返る。教室への階段に向かう背中が小さく肩を竦めた。
職員室で生徒会室の鍵をもらう。先生たちは時間が早いせいかのんびりと授業の準備を始めたり、話をしたり、お茶を飲んだりしていた。そんな光景をぐるりと見渡す。
「ご苦労さん」
労いの言葉をかけられて鍵を受け取り、でも、生徒会室に続く階段の前を通り過ぎる。職員棟を抜け、連絡通路を渡り、一階の廊下をまっすぐに進んだ。
廊下の一番奥。もうちょっと近くにあってもよくないかってくらい奥だなといつも思う。
雨の音。
ひとつ息をして扉をノックした。
返事はない。
明かり、点いてないな。扉についている小さな四角い摺りガラスの向こうは廊下と同じ色だ。
「……先生?」
取っ手に手をかけて力を入れると、あっけないほどに開いた。
誰もいない。
がらんとした保健室。
机の上には先生の鞄が置いてあった。
もう、来てる。
少しだけ空いている窓。
「先生」
一歩足を踏み入れて、俺は声を掛けた。
湿気を含んだ風に揺れるカーテン、昨日と同じ甘い匂い。
ふと、何か違う気がした。
何だろう。
誰もいない部屋。
天井から下がっている間仕切りのカーテン。
半分だけ開いたそれはまっすぐに床に向かっていて。
「……」
そっか。
「…のんちゃん?」
カーテンに触れる。
ざらりとした感触。
気づいてしまった。
「見えてるよ?」
床から5センチ程浮いているそこからはスリッパの踵が見えていた。
窓のカーテンは揺れているのにこっちが動きもしないのは、先生がこの中にいるからだ。
かすかにカーテンが動いた。
「昨日は、ごめん」
多分この辺りに肩があるんだろうな、と思うところがぴくりとする。
「ごめんね、だからさ…そんなふうに隠れないでよ」
布越しでも触るのは駄目だろうな。
顔が見たい。
どうしようか。
俺はゆっくりと言った。
「怒ってるの分かってるけど、こっち向いてよ」
「…怒ってないよ」
ため息のような声がした。
「じゃあなんで隠れてんの」
「隠れてない」
「…隠れてるだろ」
「それは──」
びっくりしたから、と小さな声が続いた。
「朝、こんな早くに来るとか思わないだろ…」
ああ、だから。
ノックの音と俺の声に驚いて、隠れたのか。
「ごめん。ごめんね?」
年上の、しかも先生に言う言葉なんかじゃないのは分かってる。でも、それしか言葉が見つからない。
謝って、許して欲しい。
「顔見せてよ」
沈黙に、湿った冷たい風が吹いてくる。
もどかしくて、胸の中が苦しくなる。誰にもこんなふうに思ったことなんてない。今まで付き合ってきた子たちには、こんな感情を持ったことさえなかったんじゃないだろうか。
「先生」
どうしよう。
「もういいから、教室に行きなよ」
「顔見たい」
「僕の顔見たってしょうがないだろ」
ため息まじりに先生は言った。
「出て来てよ、そうしたら行くから」
カーテンに触れ、そっと押すと、先生の体の輪郭がそこにあった。
背中。
指先が当たった途端、震えたのが分かる。
『性悪だから』
だから?
だからなんだよ。
だから、なんだって?
うるせえよ佐根井。
「先生──」
俺は腕を伸ばして肩を掴み、カーテンに包まれた体ごと自分に振り向かせた。
「──あ」
「──」
捩れた白い布の中で、驚いた先生が俺の顔を見上げる。
その顔は、耳まで。
「…真っ赤だ」
「…っ」
慌てて両腕で顔を隠したけどもう遅い。
「見るなよっ」
「眼鏡、どうしたの?」
「きみが! 落として、壊れ…っ、やだ、なにすんだよっ」
隠してる顔が見たくて、両手の手首を掴んだ。
抵抗して力を入れる腕を、俺はぐっと引き寄せた。
眼鏡のない素の顔。
「──可愛い、先生」
「馬鹿!」
真っ赤な顔で俺を睨みつける顔は明らかに怒っているのに、その目は涙目だから性質が悪い。自然と頬が緩む。謝りに来てるくせにどうしようもない。
「眼鏡、ごめんね」
「いいから、もう…っ、はな、教室に行けよ…!」
「うん。行くから。ね、もうちょっと」
「っ、もうちょっとってな──」
掴んでいた手首を離して、体に触れないように先生を包むカーテンを握った。
俺の腕と布に囲われた先生はまるで白い繭の中にいるようだ。
「嫌なことしないから、俺のこと避けないで」
先生が息を呑む。
赤く縁取られた目が揺れる。
「ごめんね。もうしないから、…嫌わないで」
じっと見つめ合う。
「……、嫌い、な、わけじゃ…」
ない、と動く唇。
「ほんと?」
さわさわと降る雨の音の中で、小さく先生が頷いた。
その目には泣きそうな顔をした俺が映っていた。
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