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しおりを挟む教室を出ると、昨日上がったはずの雨がまた降り出していた。
「あー雨かよ」
「オレ傘持ってねえわー」
「帰るころには止むだろ」
廊下で窓の外を眺めている同級生の側を通って、階段を下りる。
一階まで下りて、右に折れ、その先にある職員室を目指した。
「失礼しまーす」
開いていた扉から中を覗くと、一番近くにいた先生が机から顔を上げた。
「おー風間」
「すんません、和田先生は?」
「あー、数学準備室かな。ここにはいないぞ」
「そうですか、どうも」
軽く頭を下げると頑張れよ、と声を掛けられる。何を頑張るのか、よく分からないままに俺は頷いていた。
何もかもが面倒だ。
歩きながら零したため息は湿った空気の中に消えていく。
全部放り出したい。
出来ないのは分かってるけど、気分は最悪だ。
「和田センセー」
職員室から階段を上がり、職員棟の二階の端のある数学準備室と書かれたドアを叩いた。中から返事のようなうめき声のような、何とも言えない声がして、俺はドアを開ける。
「センセー、ちょっと今いい?」
「おう」
準備室とは名ばかりの資料倉庫のような部屋の中で、パイプ椅子に座った和田は俺を振り返った。手に持ってんのは、それ漫画か?
「レクのことなんだけど。つーかさ、サボってる暇なんかあんの?」
業務をサボりたいときに和田はよくここに籠っている。
和田はひらりと手を振った。
「人間余裕が肝心なんだよ」
「よく言うよ」
俺は持っていた書類の束を和田の前の机に投げた。
「これ、読んでサインしといてよ。あとはこっちでどうにかするし」
「はいよ」
クリップで留めたそれを持ち上げた和田の視線が、ちらりとこちらを向いた。
「…なに?」
いや、と和田が言った。
「荒れてんなあ、と思ってさ」
「誰のせいだ」
知らず声が尖っていく。
平常心、とひとつ唱えて息を呑みこんだ。
この人に怒って、一体何になる?
和田は小さく鼻を鳴らして笑った。
「もっと気を楽にしろよ」
「は──」
気を楽に?
おまえにだけは言われたくない。
「どの口が言ってんだよ」
俺は部屋の外に出ると、叩きつけるようにドアを閉めた。
平田は入って来た俺の顔を見て、開きかけた口を閉じた。
それに気づかないふりをして見回すと、生徒会室には平田しかいなかった。
「皆は?」
「…あとで来る」
部屋の真ん中にある会議用のテーブルにはたくさんの資料が並んでいた。読みやすいようにと、綺麗に項目ごとに分けられているのに見る気も湧かず、何となく俺はテーブルから離れた窓際に寄せられている古い椅子に座った。
「昨日、どうした?」
ぼんやりと雨の降る外に目を向けていると、平田が言った。
振り返れば、平田はパソコンに目を落としたまま、手を休めずにキーボードを打っていた。
「電話、ごめん」
結局、昨日の電話には出なかった。
「それは別にいいけどさ」
カタカタカタ、と同じキーを連打する。
多分、デリート。
消去。
俺の記憶も消して欲しい。
「なんかあっただろ」
「……」
「なに、振られたのか?」
「…分かんねえ」
何かあったのかもとは考えた。
夜に会うまでの間に。
でも、そんなことはなくて、俺の考えるようなことは何もなくて、あれが先生の本心なら。
「なんであんな顔するかなあ」
真っ赤になってカーテンの中に隠れていた朝。
俺はその顔を見て、…
「おんなじかもって、思うじゃん…」
「は?」
もしかしたらそうなんだと。
もしかしなくても──先生も、俺を想ってくれているんだと。
「…都合良すぎだよな」
十一歳の年の差、生徒と教師、なによりも自分たちは男同士だ。
最初から望みなど持てない想いだ。
俺だって、まさか年上の男を好きになるだなんて思ってもみなかった。ましてや先生がそうだなんて、どうして思ってしまったのか。
でも、ほんの一瞬でも芽生えた希望は、なかなか消せない。
「面倒くさい恋愛してるな」
ため息まじりに平田が言った。
「どうでもいいけどさ、そういうの言うのは俺の前だけにしとけよ。ダダ漏れてるぞ」
はは、と笑った俺の声は掠れていた。平田が憐れむような目を向けてくる。
「わり、もうちょっとへこませて」
俺は両手で顔を覆って、息を深く吐いた。
「へこむのはかまわねえけど、早めに膨らめ」
「…はは」
キーボードを打つ音が聞こえ出して、そう言えば、と平田が言った。
「あの佐根井ってやつ、新入生と同時に来た転校生みたいだな」
「……」
「まあ、もう知ってるか」
それくらいはとっくに調べていた。
四月の進級と同時に転校してきたと聞いた。そうでなければ、今二年のあいつは去年の時点で俺の目に留まっていたはずだ。
先生は俺が一年のとき、夏休み明けにここに赴任してきた。それから親しくなるのにそう時間はかからなかった。
佐根井か…
顔が浮かんで嫌な気持ちになる。
俺の知らない先生を知っている。
雨の降る窓の外は暗い。
「納得いかねえんなら、もう一遍話すってのもありなんじゃん?」
「…は?」
「もともと上手くいく当てなんかねえんだろ。何があったか知らんけどさ、一度駄目だっただけで諦めるんなら、それは違うんじゃねえって話」
「……違うって…?」
「勘違いだったんだろ」
「──」
──きみは勘違いしてるんだよ
「んなわけねえだろ」
「あっそ」
思わず出た低い声に、平田はちらりと視線を投げて寄越した。
「本気なら足掻けば」
本気なら。
ドアが開いた瞬間、俺は立ち上がっていた。
入って来た薮内が驚いた顔をする。
「おわ、え、どこ行くの」
「トイレ」
そう言って俺は生徒会室を飛び出した。
平田がため息をつく声が俺の足音に混じって聞こえた。
***
ため息が漏れる。
後悔するくらいなら言わなければよかった。
いや、そもそもはじめから、親しくなどならなければ──
「…情けないな」
窓の外は雨だ。
雨が降るたびに保健室に来ていた子は、最近あまり来なくなった。
時々校舎の中で見かける。
上手く眠れているならそれでいい。
いつも一緒にいる子がきっと彼の支えになっているんだろう。彼がここに来るたびに、心配して様子を見に来ていた。
…そろそろ帰るか。
ここの保健医の退勤時間は申告制だ。出勤時間は規定があるが退勤に関しては個人に任せるという、緩いものだった。私立校ならではというか、全体がざっくりとしていて、教師や生徒の雰囲気も皆大らかだ。
いつもは部活生が怪我をして駆け込んでくることもあるので、放課後は出来るだけ残るようにしていたが、今日は雨だ。外での活動がなければ、それほど自分の出番はない。
僕は残っていたカップの中身を飲み干して、手洗いで簡単にすすいだ。小さな洗い受けに伏せた愛用のマグカップから、ぽたりと雫が落ちた。
鞄に荷物を入れ、戸棚に鍵を掛ける。鍵は帰りに職員室に預けておけば、必要なときに誰でも取り出すことが出来た。危険でないものはワゴンに常備してあるし、これで大丈夫だろう。
もう帰ろう。
帰りがたい名残惜しさ。
「なにやってんだか…」
ため息がまた漏れる。
白衣を脱ごうとしたとき、廊下から足音が聞こえた。
誰か来る。
振り向くと扉の小さなガラスの中に人影が見えた。
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