風間くんの何でもない日常

宇土為名

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 無遠慮に開けられた瞬間、そうだと分かった。
「あーれ、なにその顔?」
 二年生の佐根井雄介さねいゆうすけが、薄い笑いを浮かべて立っている。
「他の奴かと思った?」
 佐根井雄介は高校の同級生の弟だ。この春、この高校に転校してきて再会した。
 初めて会ったのは、彼がまだ小学生になったばかりのころだ。そしてそれが最後で、顔を見たのは十年ぶりだった。
「どうかしたのかな? 怪我はしてなさそうだけど」
 問いかけを無視してそう言うと、雄介はおかしそうに鼻で笑った。
「保健室に来る理由は怪我だけって酷くない?」
 部屋の中に入り、僕の横を通り過ぎて、診察机の椅子に座った。
「保健の先生はさあ、誰がいつ来たって温かく迎え入れるもんだろ」
「時と場合によるね」
 開け放たれた扉を閉めて、僕は雄介に向き合った。
「悪いけど緊急でもないなら、もう帰るところだから。出てもらえるかな」
「ひっど、せっかく来た生徒追い出すとか保健室のせんせー失格でしょ」
 立っている僕を、小首を傾げて見上げる雄介の目は意地の悪い、何かを企んでいる色をしていた。
 僕は小さくため息をついた。
「何度言われても答えは変わらないよ」
 雄介は傾げていた首を元に戻して、ぐるりと目を回した。その表情の中にはまだ幼さもあって、十年前の面影とふと重なる。
「兄貴に会うのがそんなに嫌かなあ」
「会う理由がないよ」
 先月から何度も繰り返している雄介との問答は平行線のまま、終わりが見えなかった。
 今さら会ったところで何がどうなるというのだろう。
「そんな簡単に断っちゃう? 兄貴とはあれだけ仲良かったのにさー?」
「それはもう昔のことだよ」
「昔のことねえ」
 脳裏に高校生だった自分の記憶が過る。
 淡く、脆く、それは頼りなくて、指先で触れたらぽろぽろと崩れ落ちてしまいそうなほど薄い。
 懐かしい思い出。
 でも、それだけだ。
「ちょっと式に出るだけじゃん? ちょこっと顔出すだけ。サプライズでさ、なんなら二次会からでもいいんだって」
「出る理由なんてない」
 まるで見世物のような扱いに内心でため息をつく。
 強めの言葉で押すと、雄介が鼻白んだ顔をした。
 ふーん、と呟く。
かおるちゃんてさあ…ホンっ、ト、勝手っつーか…」
 ふらりと、雄介の手が僕に伸びてきた。

***

 廊下の奥の扉から漏れる明かりが、向かいの廊下の壁を照らしていた。
 よかった、まだいる。
「…──、……」
 近づくにつれ、聞こえてきた話し声に足が止まった。
 誰かいる。
 生徒か?
 くぐもった先生の声ともうひとり分の声。
「……けだよ」
 なんだよそれ、と大きな声が続いた。
 ──佐根井。
「…ほんっとさあ、自分は関係ありませんって顔すんのやめろよ! 全部あんたのせいじゃん、あんたがそんなだから兄貴はいつまで経ってもあんたから離れられないんだろ!」
 ガチャン、と何かが床に落ちる音がした。
 思わず俺は扉を開けていた。
「──先生」
 驚いた顔でふたりが俺を振り返った。佐根井は両手で先生の二の腕を掴んで覆い被さるようにしていた。ふたりの足下には、そばにあった医療ワゴンから落ちたピンセットや細かな器具が派手に散らばっている。
「おまえ何してんの」
 嫌そうに佐根井が口を歪めた。
「…またあんた? よく来るよなあ先輩、危険センサーかなんかついてんの」
「いいから、その手離せよ」
 佐根井は俺を睨みつけた。俺もそれを正面から睨み返した。佐根井の手から力が抜けたのか、先生が一歩下がる。するりと指先が離れた。
「雄介」
 先生が俺に背を向けて佐根井を見た。掴まれていた二の腕をそっと擦るのは無意識のようだった。
「何を言われても、僕はきみの思う通りには動かないよ。燿平《ようへい》もそれを望んでないなら尚更だし、意味がない」
「あんたがそれを言うのかよ…!」
「きみは矛盾してる。それに気づかな──」
「うるせえ!」
 先生の肩を佐根井が突き飛ばす。俺は手を伸ばしてよろけた先生を抱き止めた。
「おいっ…!」
「何が何でも俺は諦めないからな」
「…雄介っ」
 抱き止められたまま、先生が佐根井に手を伸ばす。それより一瞬早く、佐根井は俺たちの横を通り抜け保健室を出て行った。遠ざかる足音に雨の音が重なる。
 腕の中にある先生の鼓動が、その背中から伝わっていた。
「…あの、ありがとう。もういいよ」
 放して、と呟いたその肩に俺は額を落とした。
「ごめん、先生」
 ごめんね。
 強張った体を放してあげられない。
 佐根井と何があったのか訊くよりも前に、俺は──
 今しかないと思った。
「昨日言われたこと、俺考えてみたよ」
 白衣の首元からはかすかな消毒薬の匂いがした。
 こくりと、先生が息を呑んだ振動に胸が震える。
「勘違いじゃない」
 俺よりも随分と年上の人なのに、男なのに、先生からは甘い匂いがした。それは清しい消毒の匂いと混じり合って、俺を惹きつける。
「俺、先生が好きだよ」
 腕に力は込めていない。
 ただ胸の中に抱き止めていた。
 逃げようと思えばいくらでも逃げ出せるほどの強さで。
 それはとてもずるいやり方だ。
「先生が好きなんだよ?」
「か、…」
「嫌なら逃げてよ」
 額を痩せた肩に擦りつける。女の子とは違う柔らかさのない体。それでも愛しいと思う。
「逃げて先生」
 鼓動がわずかに上がる。
 先生が首を回して俺を見る気配がした。
 髪に頬が触れ、そのまま、…
 そのまま──
 時間が止まったかのようになる。
「……ずるいね、それ」
 しばらく経ってから、俺の腕の中で、泣きそうな声で先生は呟いた。



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