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しおりを挟む朝の職員朝礼が終わったあと、保健室で待機しているところに電話の呼び出しを受けた。
「はい、能田です。…分かりました。繋いでください」
保健室にも内線電話があり、職員室で切り替えてもらうことで外線と繋がることが出来る。所謂外部からの応対専用ということだけれど、わざわざ職員室まで出向かなくてもいいのはとても助かるものだ。
受話器の中でチチチ、と独特な音がして、回線が切り替わった。
「お待たせしました。お電話代わりました、保健医の能田ですが」
『──』
相手の言葉に自分の顔色が変わったのが分かった。
「はいっ、すぐ、すぐに行きます…!」
電話を切りながらもう白衣を脱いでいた。荷物を掴んで保健室に鍵を掛け職員室に走ったのは、10時になる少し前だった。
そして。
──あ、
すれ違うタクシーの窓越しに目が合った。
風間くん。
なんで、どうして──
「あっ!」
次の瞬間、彼の乗った自転車は大きくバランスを崩して歩道に乗り上げて倒れた。
「すみません、そこで止めてください!」
「はっ?」
「そこで!」
後部座席から乗り出して運転手に交差点の先を指差した。振り返ると彼が倒れた場所に人だかりが出来ていた。
街路樹の下に横倒しの自転車が見えて、ざあっと頭の先から血の気が引いた。
***
「はあ…びっくりした…」
ため息とともに何度目になるか分からない言葉を呟くと、隣から笑い声がした。
「笑い事じゃないって、本当」
「はは、うん、ごめん」
自転車を押す僕の横を風間くんは歩いている。頬の擦り傷は絆創膏を貼っていても全部は隠せずに少し見えている。打ったという肩は今はシャツに隠れてはいるが赤く腫れて痛々しかった。
「ほら、ちゃんと冷やして」
「はいはい」
笑いながら風間くんは手に持っていた保冷剤を肩に当てた。キッチンペーパーで包まれたそれは、彼が倒れた場所の近くにあった店の人がくれたものだ。絆創膏はその隣にあった薬局で買った。薬局の人が親切に消毒をしてくれて、病院に戻る手間が省けたのはありがたかった。
「ごめん、僕のせいだね」
「ん、平気」
あの電話は病院からの連絡だった。風間くんと出くわした先にある、このあたりで一番大きな市立の総合病院だ。昨日バスケ部の部活中に起こった接触事故で脳震盪を起こしたほうの子が、今朝の登校中に具合が悪くなり、自ら昨日診察を受けた市立病院を訪れたとのことだった。
幸い昨日の診断と同じくどこにも異常はなくて、念のための措置として一日入院をすることになった。彼の両親は既に仕事に出ていたので、診察している合間に学校に電話を入れ今日不在にしている担任と、緊急連絡先の母親のほうに連絡を入れてもらった。母親はすぐにやって来て、少し話をしてから僕は学校に戻るために病院の外に停まっているタクシーに乗った。
そして風間くんとすれ違った。
手当てのために貸してもらった薬局の隅のスペースで絆創膏を貼りながらその説明をすると、彼は心底気が抜けたように深くため息をついていた。
『なんだ、そっか…』
佐根井の早とちりかよ、と。
『他は? ほんとに大丈夫? 肩は?』
『全然へーきだって、ほら』
あれだけ派手に転んだのに、風間くんはどこも傷めてはいなかった。肩の打撲と頬の擦り傷だけで済んだのは、投げ出されるときに取った受け身がよほどよかったんだろう。
何かの武道か、柔道? と聞くと、「ちっさいときに、ちょっとだけね」と何でもないことのように風間くんは言った。
「でも、ほんとに怪我がそれだけでよかったよ」
ため息混じりに言うと風間くんが笑った。
「まあね。自転車はちょっと汚れたけど」
「制服もだろ」
「それは洗えば済むけどさ、あー平田に謝んなきゃなあ」
上着は地面に接触した肩の部分が擦れて埃にまみれていた。今は自転車のハンドル部分に引っ掛けて、風間くんはシャツとネクタイだけになっていた。暑いのか腕まくりをした袖から覗く腕は、程よく筋肉がついて筋が浮き、僕よりもよほど男らしくて自分がなんだか情けない生き物に思えてくる。
学校までの道を歩く。車で10分足らずの道は、歩けば30分はかかる距離だ。
帰り着くのはきっと昼を過ぎたころ。
若葉の匂いのする風が、日陰に入れば冷たく吹いて気持ちがいい。
「先生」
呼ばれて横を見上げると、風間くんが僕を見ていた。
ハンドルを持つ僕の手に、彼の手が重なる。
「なんにもなくてよかった」
「……」
「俺めちゃくちゃ心配したよ」
じわりと胸の奥が熱を持ったように熱くなる。
風間くんがあそこにいた理由も聞いた。
僕を追いかけて来てくれたのだと。
燿平が僕に連絡を取ったことを雄介から聞いたようだ。今日会う約束をしたと。
確かに連絡はあった。懇願する燿平が約束を押し付けてきたのも本当だ。けれど、それは間違っていた。
雄介は昨日の電話しか知らなかったのだろうが、燿平からの連絡は一週間ほど前からだった。
『雄介が迷惑かけてるみたいだから…』
会いたい。
謝りたい。
今も、前のことも全部。
要らない、会わないと言っても燿平は引かず、執拗だった。
毎日かかってくるそうした電話に疲れてしまい、無性に風間くんに会いたかった。けれど、忙しい彼にそんなことは出来なくて、昨日会えたときは本当に嬉しかった。
昨夜風間くんと別れたあと、真夜中にまた燿平から電話がかかってきた。
せめて一度、一度だけでいいと懇願する燿平に僕は言った。
もう会わない、もういいから、幸せでいて欲しいと。
『僕も今幸せだよ、燿平もそうだろ?』
燿平は泣いていた。
泣きながら、ずっと好きだったと言われた。僕もそうだ。燿平が好きだった。でもそれは友達として、それ以上のものじゃなかった。
もっと早くに言っておけばよかったのだ。
『…僕も、同じだよ。友達だったから』
そう言うと、わずかな沈黙のあと、燿平は小さな声で笑った。何かが吹っ切れたような笑い声に僕も笑った。そして互いに別れの言葉を言って電話を切った。雄介はきっとその会話の最後までは聞いていなかったんだろう。
もうきっと燿平からかかってくることはない。
今朝メッセージがあったとき、風間くんには余計なことだと、伝えなかった。
でも言わずにいたことで、こんなにも心配させてしまうなんて思ってもみなかった。全く見もしなかった携帯にはメッセージがいくつも入っていた。
「…言わなくてごめん」
呟くと風間くんは浮かべていた微笑みを深くした。
「会わないでくれてありがと」
重ねた手をぎゅっと握り締められた。
「なにかあったらどうしようって、そればっかだった」
場所がホテルだって聞いたから。
風間くんの言う何かの意味が分かって、僕は慌てた。かあ、と頭に血が上る。
「何かって…、ないよ、そんなの」
「うん」
風間くんが目を細める。
穏やかな風が彼の前髪を掻き上げていく。
「ね、先生」
「…え?」
「さっき、泣きそうだった?」
揶揄うような、どこか甘い言い方に僕は苦笑した。
「うん、ちょっと怖かった」
倒れた瞬間を見た、あのときの気持ち。
自分でも驚くほどに血の気が引いて、怖かった。
タクシーから降りたその足が震えていたのを覚えている。
「怖くて、きみに何かあったらどうしようかと思ったよ」
風間くんは微笑んだ。
「俺のこと好きでしょ?」
「うん」
あまりにも自然に言うから僕もそう返した。
「好きだよ、すごく」
風間くんは一瞬目を丸くして、それから嬉しそうに顔を綻ばせた。雲の切れ間から差した日差しの眩しさに目を細めると、背中でそれを遮るように、そっと顔を覗き込まれた。
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