風間くんの何でもない日常

宇土為名

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放課後のその先も

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 宴の後には何が残る?
 残骸はあぶくのように散ってそこかしこにばら撒かれ、誰かに拾われ、片付けられるのを待っている。
 その日、生徒会が解散できたのは、もう日も暮れかけたころだった。
 がらんとした第二棟の中、人のいなくなった体育館にはまだ、あの騒がしさがどこか木霊のように残っている気がして、俺は苦笑した。
「かざまあー、そっち終わった?」
 帰ろうぜ、と薮内が体育館の入り口から言って、俺は振り向いた。
「ああ、帰ろう」
 と俺は言った。


 打ち上げは結局後日ということになった。もうへとへとで、皆そんな元気も残ってなかった。
 じゃあな、と言っていつもの場所で別れる。いつもと違うのは、俺の横には来吏人と櫂がいることだった。櫂はこのまま来吏人の家に向かうとかで、途中のバス停まで3人で歩くことにした。バス通をしている来吏人の家は割と遠くにある。近くの櫂の家ではないのは、親がいる煩わしさだろう。
「予備校は?」
「さすがに今日はいいだろ」
「だよな」
 顔を顰めて言う櫂に俺は笑った。
「怪我、大丈夫か?」
「あー、見た目ほど大したことない」
「えーそう?」
 来吏人に頬をつつかれ、避けるように首を傾げる。
「なんか、痕残りそう」
「そうかあ?」
「あんまり無茶するなよ」
「んー」
 珍しく心配するようなことを言う櫂に頷いた。自分ではそれほどの怪我ではないと思うのに、周りからすれば随分と痛そうに見えるらしい。
「まあでも、よかったな」
「ん?」
 来吏人の言葉に顔を向けると、なぜかすごく嬉しそうだった。
「何事もなく終わってさ」
「な──」
 何事もなく?
 来吏人の斜め後ろで櫂がものすごく複雑そうな顔をした。俺は堪らずに噴き出すと、そうだな、と言った。
「え、何笑ってんの?」
「いや、何でもねえよ」
 いろんな意味で何事もあって、それでもすべてが丸く収まったけれど、それでも何事もなかったと言える来吏人のおおらかさが、ひどく可笑しくて嬉しかった。
 不器用な櫂は来吏人のこういうところが好きなんだろうか。
 一緒にいたいと言っていた。
 将来──将来か。
 俺の先のことはぼんやりとしている。大学に行くことは決まっているけど、何がしたいというのはない。そういうの、あんまり考えてこなかったな。
 ただ先生の傍にいたいと、漠然と思うだけだ。
「何だよ、まだ笑うのかよ」
「いやいや、違うって」
 思い出し笑いをしていると来吏人に頭を小突かれた。それを躱しながら、俺は言った。
「打ち上げ、ふたりとも来るよな?」
「はあ? あたりまえだろ、おれ頑張ったし!」
 櫂も頷く。
「じゃあな」
「またなー」
 バス停に向かう別れ道でふたりに手を振って、俺は歩き出した。いつもの道の先を、いつもと違う方に行く。
 ポケットの携帯を取り出して、片手でメッセージを送ると、それはすぐに既読になった。
 教えられた道をアプリで確認しながら進むと、やがて言われていたように、かすかな水の音とともに右手のほうに小さな橋が見えてきた。ほんの5メートルくらいの、ひとっ跳びに渡れてしまえそうなほど小さな橋だ。
「お疲れさま」
 先生は、その橋の傍に立っていた。
「うん」
 少しだけ早足に、俺はその橋を渡る。
「やっぱり打ち上げ行かなかったんだな」
「無理無理。もうへとへとでさ、そんな気ねえの、皆」
「はは、そっか」
「それ、なに?」
 先生が下げているビニール袋に目をやった。
「夕飯の材料だよ」
「何作ってくれんの?」
 覗き込もうとした俺に先生は苦笑した。
「あとで。行こうか」
 歩き出した先生の後をついて行く。
 約束のご褒美は先生の家で食べる夕飯ということになっていた。


 少し歩いて着いた先は、綺麗な白い壁の新しめのマンションだった。ここの二階、と先生が指差したのは、外から見える二階の通路に並んだ、左から二番目のドアだった。
「どうぞ」
 エントランスを抜けた先にある階段で上がったら、そこはもう先生の家の前だった。鍵を開けた先生に、先に入るように言われる。
「お邪魔しまーす」
「リビング入ってて」
 廊下はほとんどなく、玄関の先はすぐにリビングのドアだった。ドアを開けて中に入ると、横に広めの部屋には大きなソファ、テレビ、ローテーブル、物はあまり置いてなかった。
「綺麗にしてんねえ」
「そう? あんまり物がないからかな。あ、風間くん、そこ座って」
「え?」
 キッチンのシンクの横にビニール袋を置きながら先生が振り返った。
「先に傷見るから、座って」
 ちょっと待ってて、と言うなり先生はリビングの奥のドアを開け、中に入って行った。薄く開いたドアからかすかな物音が聞こえてくる。仕方なくソファに腰を下ろした。手持無沙汰を誤魔化すようにそこにあったテレビのリモコンを手に取ってスイッチを押す。流れ出した映像は夕方のニュース番組だった。
「お家の方はほんとに大丈夫なのか?」
 あー、と俺は曖昧な声を上げた。
「うち、ふたりともワーカホリックでさ、ろくに家にいないんだよ。だから平気」
 中学のころまでは両親も俺をひとりにすることを気にしていたようだが、高校に入ってからはほとんど放置されている。かといって愛情がないわけでもなさそうで、変な両親だった。進路でさえ好きにすればと言う。あまりの放置ぶりに一度それでいいのかと聞いた俺に、おまえは大丈夫、と声を揃えて言われた。信頼されていると言えばそれまでだけど、おかげで悪いことは出来なくなった。信頼され過ぎるのも困ったものだ。まあ、するつもりもないんだけど。
 ええ? とくぐもった声に目を向けると、ドアから先生が顔を出した。眼鏡を外してる。
「それでもいなかったら心配するだろ? 連絡入れときなさい」
「え、大丈──」
 言いかけて、部屋から出て来た先生を見て俺は固まった。
 先生はジーンズに、首周りのゆったりとした部屋着に着替えていた。ちょっと待って。
「風間くん?」
 え、今、着替えてた?
 俺がここにいるのに?
 すぐそこで?
 俺がいるのに?
「え、なに?」
 はああ、と頭を抱え込んだ俺を、先生は不思議そうな目で見た。
 この人…
「いや、何でも…」
「? ほら、肩見せて」
「あ、ちょっ、」
 抱えていた救急箱らしいものをローテーブルの上に置いて、先生は俺のシャツに手を掛ける。俺は狼狽えた。
「いや、まずいって」
「何が。見ないと手当て出来ないだろ、結構腫れてたし、あれから気になってたんだよ」
 押しのけようとする俺の手にも構わず、ほらほら、と先生はシャツの一番上のボタンを外した。
 やりにくかったのか、先生はソファの上の俺の隣に正座すると、慣れた手つきでボタンを外していく。
 なにこれ。
 ソファの上に正座とか可愛すぎか。っていうか、鎖骨…
 俺は身を捩った。
「先生、俺自分でする、からっ」
「何言ってるんだ、こら、じっとして?」
「…っ」
 捻った体を引き戻される。
 本人は至って治療の感覚なのだろうが──当たり前だ保健医なのだし──されるこっちは堪らない。ボタンを半分まで外した先生が緩んだシャツの襟首を引き肩をずり下ろした。
「あー…やっぱり、内出血がひどいな」
 剥き出しになった俺の肩を、先生は指先でそっと撫でた。その感触にぞくりと腰の奥が重くなる。覚えのある感覚に俺は奥歯を食いしばった。
「痛みは?」
「ない、けど」
「そう? …でも、少し熱持ってるね」
 赤く腫れた箇所を覆うように触れた手のひらは冷たかった。ひやりとして、胸の奥が震える。息がかかるほど近くから覗き込まれれば、俺の頬を掠めた先生の髪のほのかに甘い匂いにくらりとする。
 もう限界だった。
「うーん、ご飯出来るまで氷、で…、っ」
 気がつけば腕が伸びていた。
 ソファから下りようとした体を引き寄せ、抱き締めていた。
「要らない」
 ぎゅう、と腰に回した腕に力を籠め、先生の胸に顔を埋めた。
「氷はいい、痛くねえから」
「風間くん」
「なんで、…そんななの」
「…え?」
「なんで、──」
 俺は言葉を飲み込んだ。
 息を飲む先生の気配。
 先生の鼓動はだんだんと速くなる。
 押し付けた耳の奥で、どくんどくん、と心臓が動いている。
 俺の心臓も、同じくらい速い。
 どくん、どくん、と、やがてその音は重なっていく。
「…無事でよかった」
 この人はきっと分かってない。
 怖い。
 この人の無防備さが。
 人を疑わない心が。
 指定された場所がホテルだった時点で、俺には相手が何を考えていたかが透けて見えた。
 取り返しのつかないことになってしまったら、そう思った、あの瞬間。
 俺は怖くて、どうしようもなかった。
 もしも、もしも今日、先生が行くことにしていたら──
 もしも和田が出ていく先生を見ていなかったら。
 俺は何も知らないまま、間に合わないままで。
 もしも、そうだったなら。
「──」
 ぞくっと背筋を悪寒が走った。
 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
 そんなことになっていたら、会ったこともない佐根井の兄を俺はどんな目に合わせていたか分からない。自分を止められる自信がない。
「風間くん、…?」
 先生の手が俺の背をさすり、ゆっくりと髪を撫でる。
 昼間の騒がしさで押し殺していた感情が一気に押し寄せてくる。無意識に押さえつけていた分、反動は大きかった。
 もっと近づきたい。もっとこの温もりを確かめたい。掻き抱くように先生の背を掴みきつく引き寄せると、柔らかなコットンのセーターの中の先生の胸が震えた。
 冷たい両手のひらがしがみついて離れない俺の頬を探り、そっと顔を上げさせられる。
 青の混じる灰色の目が、揺れながら俺を見ていた。
「僕も、怖かったよ」
 微笑んだ顔は泣き笑いのようだ。
「ごめん、こんな怪我させて…心配させてごめん」
「……せんせ」
「もう大丈夫だから。こんなことはもう二度とないよ」
「先生」
 互いに見つめ合ったまま、俺は伸び上がった。先生の項に手を回し、近づきながらゆっくりと引き寄せる。抵抗はなかった。唇が触れて、重なる。ああ、キスしてると思った。優しく触れ合わせるだけのを何度か繰り返したあと、俺は角度を変えて口づけを深くした。
 薄く開いた唇の中に舌を入れる。
 温かい。
「ん…、っ…」
 びく、と震えて怯える舌を宥めるように擦り合わせた。こわばりが解け、柔らかくなったそれをそっと吸い上げると、先生の手が俺の首に縋るように回される。下から腰を抱え上げ、掬うように口づけた。上向いた口の中に流れてきた先生の唾液を飲む。甘い声、甘い息、俺の体を押し、息苦しさに離れようとする先生の後頭部をやんわりと抑えて、俺は体勢を入れ替える。
「は、はあ…っ、んんっ」
 合わせた唇がずれると、ソファに寝かせた先生が大きく胸を上下させて息を継ぐ、それさえも惜しくて逸らした顔を引き戻してまた唇を奪った。
「ん、っ、んー…」
 先生の指が、脱げかけていた俺のシャツをきつく握りしめる。
「…も、か、っざまく…」
 咎めるように引っ張られて、俺はようやくキスをやめた。
「…は、」
 上がり切った息を整える。眼鏡越しじゃない先生の曇り空の目は、熱を孕んで今にもとろりと溶けだしそうだった。
「は…っ、は、あ、あ…っ」
「先生、ね、のんちゃん、…まだしたい」
 俺の唾液に濡れた赤い唇を親指で拭うと、先生の唇が震えた。
「や…」
「駄目? ね、ご褒美、いいでしょ?」
「かざまく、っ」
「もっとキスしよ?」
「も、だめ、…」
「駄目じゃないでしょ?」
 かすかに首を振りながら、ずる、と先生は俺の下で体を上ずらせた。
「なんで、もう、こんな、っ無理…、あっ」
 逃げた体を引き戻すと交差した腕で顔を隠してしまう。俺は出来るだけそっと、その手首を掴んだ。本当ならもっと、ゆっくりして、余裕がある所を見せたかったのに。
 でも無理だ。
 腕を開かせて顔を覗き込む。
「先生、ずるい。ご褒美って言ったのに、逃げないでよ」
「逃げ…、ちょっ、ちょっと待って…、それご飯って…」
「メシは、あとでいいから。もう待てない」
「なんで、なんでっ」
 真っ赤になった先生の首筋に顔を埋めて、俺は囁いた。
「だって、先生、ここ…もうこんなだよ?」
 そっと脚の間に自分の足を割り込ませて、俺は太ももで先生の股間を擦った。そこはもう俺と同じように固く、服の上から分かるほどに形を変えている。
「あ、…あ、風間くん…っ」
 先生は真っ赤になった顔を歪めた。涙の浮いた瞳がくしゃりとなって、ぽろぽろと涙が零れていった。
 ぎゅう、と胸が締め付けられる。
 愛しさが溢れ出して、たまらなくなった。
「…のんちゃん」
「っ…」
 ぎゅ、と瞑った瞼の縁が涙で濡れている。そこに唇を押しつけ、涙を拭った。
「ふ…」
 小さく震える体を抱きしめると、固くなっていた先生の体が腕の中でふわりと解けていく。
「ごめん、ごめんね。俺、意地悪だったね…」
 この人はきっと、もしかしなくても、…俺よりもずっと年上だけど。
 可能性に思いをやっていると、かざまくん、と先生が俺を呼んだ。
 どこか舌足らずなその声はひどく甘くて、耳の奥が痺れそうだった。
「ごめ…僕、あの、…言いにくいんだけど…」
「うん」
「あの…、ぁ…、あの、はじめてで…っ」
「うん、」
「誰とも、だから、うまく、できな…」
「──うん」
 俺をまっすぐに見上げながら、ゆらゆらと揺れる瞳に俺は笑い、先生をきつく抱き締めた。
「うん、じゃあ、このまま。このままでいよ?」
「このまま…?」
「うん、いいから」
「かざまくんは…? これ、あの、ごめ…っ、ごめ」
 先生の足にも俺のものが当たってるんだろう。慌てたように先生が言った。
「平気」
 ごめん、出来なくてごめんね、と子供のように謝る先生の唇に、俺は笑って口づける。
「いいよ。嬉しいから」
 誰のものでもないこの人を、いつか自分だけのものに出来る。
「え、うれ、うれしい…?」
「うん」
 きっと、こんな気持ちをこの人は知らないんだろうな。
「ね、俺の名前呼んで?」
 え、と目を丸くした先生に俺は微笑んだ。
「知ってるでしょ」
 今まで一度も呼ばれなかった俺の名前を、今ここで呼んで欲しいと思った。困ったように揺れる目を見て待つと、先生が言った。
「え…あ…、なる、成海なるみくん…?」
「うん」
 胸の奥が熱を持つ。
 呼び捨てにして、と俺はねだった。
「成海…?」
「うん、もっかい」
「…成海、なるみ」
 戸惑いながらも呼んでくれた先生の、その額にキスをした。
「先生、大好き」
 愛しくてたまらない。
 泣き出したいほどの好きが溢れ出していく。
 どうしよう。俺はこの人が好きだ。
 ずっと、一緒にいたい。
 たくさんの日々を、毎日を、放課後が終わっても、卒業しても。その先も、その先も、ずっとそばにいられたら、どれほどの幸せがあるだろう。
 ずっと同じ場所に。
 あ。
 そうか。
「ふふ」
 ふと、心の内に閃いた考えに、俺は小さく笑った。そうだ、どうして思いつかなかったんだろう。
 突然笑い出した俺に、どうしたの、と先生が言う。
「うん、俺…将来なんになるか、今決まった、かも」
「…え?」
 同じ場所にいるために努力する。少しでも近づけるように、そこにいられるように。
 いつかの櫂の言葉に俺は頷いていた。
「好きだよ先生」
 そっと囁いて首筋に顔を埋めた。腕の中の体を抱き締め直すと、先生の腕が俺の背中を包んでくれた。
 幸せで、満ち足りている。
 こんなご褒美があるのなら、もっと頑張ってもいい。
「…僕も」
 好きだ、と耳元で聞こえた声は、この先一生忘れられないほどに甘く、これからの俺の何でもない日常を塗り替えていく予感がした。
 




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