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しおりを挟む暖かい春の日に、七緒はそこを出ることを決意した。
理由は、18になったから。
「先生?」
開いていた園長室のドアをノックし、奥に座る人に呼びかけた。俯いていた顔が上がる。
「おかえり」
眼鏡の奥の目が細くなって笑う。
「ただいま」
「早かったね」
「うん」
柔らかく微笑まれて、七緒も同じように返した。
「今みんながお祝いのケーキ作ってるよ」
「うん、知ってる」
「きみの好きな桃のケーキだよ」
「うん」
知っている。
七緒の好きな桃を買ってきてくれたこと。
生の桃は高いから、缶詰になったこと。
子供たちの楽しそうな笑い声が廊下の先にある厨房から聞こえてくる。風に乗って香る、甘い匂い。
今日は誕生日だ。
ここにきてからずっと、いつも誰かの誕生日を祝っている。
先生、と七緒は言った。
「これお願いしてもいい?」
園長の前に一枚の紙を差し出した。
開け放した窓からは満開の桜がよく見えていた。
鳥の声。
それを園長は受け取り、じっとそれに目を落とした。
「…高校卒業するまではって、僕言ったと思うけど」
「うん、でも──決めたから」
事務机に向かっていた園長は深くため息をついて眼鏡を外し、顔を両手でごしごしと擦った。
「そう、…──もう決めたんだねえ」
うん、と七緒は頷いた。
「だから、サイン、して下さい」
七緒に手渡された用紙を園長はじっと見つめていた。それから諦めたような仕草で、ゆっくりとペン立てから一本ペンを取った。
「頑固だねえ、きみはほんとに」
ペンを走らせながら噛み締めるように言う。
誰に似たんだろうね、と苦笑した。
本当に誰に似てしまったのだろう。ふっと頭を過った顔は、よく見知った人のもので、七緒も苦い笑いを浮かべた。
「ごめんなさい」
風が吹いてカーテンが揺れた。
ゆらゆらと揺れる。
「そんなつもりで言ったんじゃないよ」
「うん」
分かっている。
七緒は頷いた。
「きみは、きみが決めたことに対して誰にも謝らなくていいんだよ。きみの人生なんだから」
きみの人生。
「高校はきちんと卒業するんだよ」
「はい」
七緒を見上げて、園長はふっと目を細めた。
「そんな顔しないで。ほら、みんなのところに行こう」
「…うん」
この人には敵わない。
まるで七緒の心を見透かしているみたいだ。
差し込む柔らかな春の日差しが、古びた床の上に陽だまりを作っていた。
***
「立別れ いなばの山の峯に生ふる まつとし聞かば 今かへりこむ」
目の前の友人が顔を上げた。
「…なんだって?」
「だからあ」
七緒はもう一度繰り返した、
「立別れ、いなばの山の峯に生ふる、まつとし聞かば、今かへりこむ、だよ」
「たち……、?」
「だからさ、これが一番効くんだって」
「あ?」
テーブルの上のまっさらな白い紙に七緒はボールペンを走らせた。今の言葉を一字一句、間違えないように書いていく。
「帰って来てほしいんだろ? だったらこれをおまえんとこのばあちゃんちの玄関に貼っておくの」
書き上げた紙を友人に手渡して、七緒は人差し指を立てた。
「そうすればニッケはちゃんと帰ってくる」
「おまえなあ…だからさあ」
「篤弘んちのばあちゃん、ひとりだから早く帰ってくるといいよな」
「そうじゃねえよ、人の話聞けよ」
はあ、とため息をついて友人の森塚篤弘はプラスチックのカップを持ち上げた。カップに突き刺さるストローに口をつけ、ひと口吸い上げると、甘ったるい液体が口の中に広がる。
「おまえモノ探すの上手いから相談したのにさ、変な呪文人のばあちゃんちの玄関に貼りつけようとするなっつってんの」
「え、これ呪文じゃなくて百人一首だよ?」
七緒は篤弘の目の前で指をくるりと回した。
「中納言行平っていう人の歌」
「ちゅーなごんゆきひら!」
「すっげえ効くの。猫好きの間なら有名な話じゃん、知らなかった?」
「いや、知らねえわ…」
「古典の授業で触ったじゃん」
「いや、オレ多分寝てたわ」
気まずそうにそっぽを向いた篤弘に七緒は声を上げて笑った。
その声が店内のざわめきに混じっていく。店の入り口の自動ドアが開いて冷たい風が笑いながら入ってくる女の子たちの集団に、賑やかさが一層増した。
「あ、もう時間だ」
カウンターに向かう制服姿の女の子たちを見て、七緒はスマホの時計を確認した。ちょうどいい時間だ。
「なんだもうかよー。もうちょっと休憩してえよ」
「遅れるだろ」
「そうなんだけどさあ、たりいなあー」
大きく伸びをして、篤弘は大儀そうに椅子から立ち上がった。七緒が書いた紙を折り畳み、制服のポケットに突っ込む。飲みかけのカップを取って一気にストローで飲み干した。
「よし、行くかあ」
篤弘に促されて七緒も席を立った。顔を上げると、きょろきょろとあたりを見回している女子高生と視線と目が合った。座るところを探しているらしい。七緒はにこりと笑いかけた。
「ここ空くよ?」
「あ──、はいっ」
声を掛けると、女子高生は驚いたようにぺこりと頭を下げた。七緒、と篤弘の声が飛んでくる。
「早くしろよ」
「あ、うん」
少し不機嫌そうな声に返事をして彼女たちの横をすり抜けた。少し先で待っていた篤弘に腕を取られ店の外に出る。
「なあ、女に気軽に声掛けんなよ」
「え?」
「ナンパかと思われんじゃん」
「まさか」
あれくらいでそんなわけはないと七緒は苦笑した。
「分かんねえって、ああいうのが面倒くせえんだよ」
「そうかな」
風がひどく冷たく感じた。店内が暖かかった分、なおさらだ。
まだ十月も半ばだというのに、今年は季節の移ろいがいやに早い気がする。去年はこの時期暑かった記憶があるのに。
「くそ、冷えてきたな」
「んー」
ポケットに手を突っ込んで空を見上げる。どんよりとした曇り空に息は白く、雨上がりの湿った空気の匂いがした。
「じゃあまた」
「おう、バイト頑張れよ」
「そっちも」
お互いの行く先は違う。篤弘はこれから進学塾に、七緒はバイト先に向かう。今は帰りの時間を気にせずシフトを入れることが出来るので、七緒は時間の許す限り働く事にしていた。
篤弘とこうしてファストフード店で時間を潰すことも最近は増えた。
「またな」
そう頷いて互いに背を向ける。
遅れないようにと時間を確認しながら、すぐに七緒は走り出した。
バイト先のスーパーには時間ぴったりに着いた。いつものように七緒は裏口から入り、突き当りの事務所のドアを開けた。
「おはようございまーす」
「おはよう」
振り向いた店長が言った。
「あー奥井くん、今日品出ししてくれる?」
「え、はい」
奥井は七緒の苗字だ。
返事をしてから、あれ、と七緒は首を傾げた。ロッカーから出した制服を羽織りながら、バックヤードの奥にいる店長に声を掛ける。
「あの、今日品出しって江口くんじゃなかったですか?」
ああ、と店長は何とも言えない顔をした。
「彼さあ、辞めちゃったんだよ」
は? と七緒は声を上げた。
全然知らない。聞いていなかった。
「やめ、辞めたんですか?」
「昼頃電話あって大学の単位が足らないとか何とか、──そんなのこっちは知ったこっちゃないけどさあ、そう言われると学生には何も言えないし。まあそういうわけだから」
「はあ…」
「気楽なもんだよ学生なんて。まあその点奥井くんは心配ないでしょ」
返す言葉がなく、七緒は曖昧な笑みを浮かべた。店長はよろしく頼むね、と言ってさっさと事務作業に戻ってしまった。スチールデスクの上の書類を捲り始めた背中を眺め、七緒は小さくため息をついた。自分が割り当てられた仕事に取り掛かる。
ふたつ上の江口とは話も合って仲良くしていた。何度かふたりで遊びに行ったこともある。なのに、まるで知らなかったことが胸の中をもやもやとさせた。
だからって、連絡が欲しかったわけでもないんだけど。
「……」
大学か。
自分には関係のない話だ。
「じゃあ表行きまーす」
はーい、と返ってきた声を背に受けて七緒は店内に入った。
「お疲れさまでしたー」
「お疲れさま」
バイト時間が終わり、一緒のシフトだった人たちと事務所を出る。販売期限を過ぎてしまった廃棄の食材入れの中から弁当を取り出して七緒は鞄に入れた。廃棄といってもまだ傷んでもいない物ばかりなのだ。夕食はこれで済まそう。
「あっ、奥井くん、これも持って帰りなさいよ」
ほとんどどこも傷んでいないトマトが三つ入ったパックをパートの女の人から渡されて七緒は目を丸くした。
「うわ、いいんすか? 小野さんこれ要らないの?」
「うちの子トマト食べないのよね」
もったいないじゃない? と言われて七緒は相槌を打った。
「じゃあ遠慮なく」
トマトは好きだ。これを朝ご飯にしてもいい。トマトを鞄に押し込みながら、みんなと一緒に裏口を出た。
「お疲れさまー」
「お疲れさまでした」
それぞれが三々五々に散って家路を急ぐ。七緒も家のほうに足を向けた。
ひとり暮らしのアパートはここから歩いて二十分ほどのところにある。
古くも新しくもないごくごく普通のアパートだ。小さなスペースにどうにか押し込めたトイレと風呂場と、小さなキッチン、六畳と四畳半の部屋。駅から離れているから家賃は破格に安かった。この手のアパートにしては珍しくユニットバスじゃないのも嬉しいポイントだ。物心ついたときから大勢の人と暮らしを共にしてきた七緒にとっては、生まれて初めて手に入れた自分しかいない、自分だけの居場所だ。
誰かと何かを共有しなくてもいい毎日はまるで世界を作り替えたかのようだ。食べ物を取り合ったり、誰かのものを羨ましがったりしなくてもいい。それが許される世界。
早いものであれからもう半年が過ぎた。
決断は早いほうがいいと思っていた。
どう頑張っても十八までしかいられないのなら、早いに越したことはない。いつか来る期限を気にしなくて済むのだから。
夜の暗がりに吐く息が白い。
住宅街を抜けた奥にアパートが見えてきた。七緒の部屋は二階の端から二番目、階段を上がってすぐのところだ。
制服のポケットの中の鍵を指先で弄びながら階段を上がる。ドアの前に立ち、鍵穴に挿し込んでふと横を見た。隣の部屋に明かりはなかった。二週間ぐらい前までは若い母親とその子供が住んでいたのだが、気がつけば消えるように姿が見えなくなっていた。今週のはじめに清掃の業者と共に不動産屋が来て、鉢合わせた七緒が訊くと引っ越したのだとこっそり教えてくれた。
子供は小さな男の子だった。
まだ4歳くらいの──時々目が合って笑いかけると母親の陰から、恥ずかしそうにはにかんでいた。
その姿に幼かったころの自分が重なって、何とも言えない気持ちになる。
あの子、元気かな。
でも考えても仕方ないことだ。
七緒はドアを開け、中に入った。
明かりを点けてドアを閉める。
「…ただいまあー」
返ってくる声もないのに言ってしまうのはもう習慣になっていた。
いつも誰かが出迎えてくれていた世界は自分から手放した。
ほんの少しの寂しさがちくりと胸を過る。
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