手のひらのロブナリア

宇土為名

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 篤弘がいない?
 だから連絡がなかった?
 もしかして──
「おれ、ちょっと部屋戻る」
 七緒は力の入らない足で無理矢理立ち上がると、玄関に向かった。ふらつく足が覚束ない。よろめくとさっと腕を取られた。
「あ、ごめん」
「いいから」
 七緒の体を起こした梶浦は、そのまま後ろをついて来た。ここでいいと玄関を出て自分の部屋の鍵を開ける。
「…篤弘?」
 そんなわけはないと思うのに、七緒は玄関のドアを開けながらそう声を掛けた。しんとした暗い部屋。返事はない。朝出て行ったときと同じだ。そう見える。
 廊下を踏みしめるぎしりとした音がやけに大きく響く。
 リビングの明かりを点け、狭い部屋を見回した。
 知らず詰めていた息を吐く。
「いるわけないか…」
 なんとなくここにいるような気配がしたのだ。
 篤弘は鍵など持っていないのに。
 でもアパートは古い。鍵もその気になれば開けられるような造りだ。
 馬鹿だな。どうしているなんて思ったのだろう。
 梶浦のところに戻ろうとして、ふと窓に目が留まった。朝慌てていたのか、カーテンが開いたままになっている。
「…っ」
 暗い窓に映った自分の姿を見て七緒は慌てて洗面所に駆け込んだ。
「あのばか…っ」
 鏡を見れば、大きくはだけたシャツの首筋から胸元に点々と鬱血した痕がついている。
 し、信じられない…っ
 七緒はシャツを脱ぎ、脱衣かごに放り込んだ。着替えようと洗面所を出たとき、何かが引っかかった。
 何だ?
 もう一度明かりを点け、脱衣所の中を見回す。風呂場に続く扉は開けたまま、中が丸見えだ。
 誰かがいるわけでも、何かがあるわけでもない。
 それでも何かが違う気がした。
 何が違う? 
 何が?
「気のせいか」
 七緒、と玄関から梶浦の声がした。
「大丈夫か?」
「あ、今行く」
 七緒は脱衣所の電気を消した。
 着替えないと。
 その瞬間、はっと振り返った。足下に置いたプラスチックの脱衣かご。脱いだばかりのシャツが入っている。七緒はそれを掴んで取り出した。
 ない。
「──」
 なくなっている。
 ここに今朝入れたはずだ。梶浦に借りた着替えがなくなっていた。

***

「瑛司」
 翌朝登校すると、七緒は一番に沢田を探した。沢田は教室の中で何人かと笑い合っていた。
「あ、七緒おはよー」
 こっち、と手招きされて七緒は教室に入る。進学クラスの教室に入るのは久しぶりだ。見知った顔もちらほらと見えて、軽く挨拶を交わした。
「おはよう瑛司、篤弘どうだって?」
「あーやっぱまだ帰ってないって」
 あっけらかんとした声で瑛司が言うと、周りの同級生たちが笑った。
「彼女とかじゃねえの?」
「えーあいつにそんなんいるかな、聞いたことねえんだけど」
「でもさあ高校生が一晩帰んないくらいで騒ぎ過ぎじゃね?」
「いやあいつんちの親割と厳しいからさ」
「そうなん?」
「結構父親がね」
 瑛司の言葉に、ああ、と皆が納得したように頷いた。
「会社の社長だもんなー」
「てことは社長の息子じゃん」
「ご令息か、ああ見えてあいつも大変だよな」
「だから最近やたらと苛ついてるわけ? うーわ、めーわく」
 軽口がだんだんと悪口にシフトしていきそうな雰囲気に、七緒は居心地が悪くなった。篤弘は好き嫌いの激しいタイプで、男女問わず敵も多い。自分が気に入った相手には優しく出来るが、そうでなければあたりはきついのだ。
「まあまあ、あいつばーちゃんっ子だからさ」
 険悪な空気を宥めるように沢田が笑った。
 はあ? と前に座っていた同級生が声を上げた。
「何のカンケーがあんだよ今の話で」
「だからあ、人見知りなんだよ基本さあ。な、七緒」
「え?」
 急に話を振られて七緒は沢田を見た。沢田はいたずらでもするかのような笑顔だ。
「そういや篤弘のばあちゃんちの猫、七緒が見つけたんだよな?」
「いやあれは、おれが見つけたんじゃなくて」
「えーなにそれ」
 興味津々で身を乗り出してきた同級生に沢田は向き直った。
「篤弘のばあちゃんちの猫がどっか行ったとき、七緒の書いた呪文で戻ってきたって話」
「なにそれ」
「すっげえ、奥井そんなん出来んの」
 笑い混じりの声に七緒は愛想笑いを返した。
「出来るわけないだろ、瑛司いい加減なこと言うな」
「だあってさあ」
 確かにそういうこともあったが、あれは篤弘の話を聞いて、よく利くというおまじないを教えただけだ。
「じゃあさ、それ篤弘にも使ったらよくね?」
「はあ?」
「あーいいなそれ」
「そしたらあいつも帰ってくるかもな」
「あいつ猫かよ」
 どっと笑いが湧き上がる。基本的にノリのいい沢田も七緒を置き去りにするように大きな声で笑っていた。
 ずきりと肩が疼く。
 一体何だっていうのか。
「それよりさあ、昨日…」
 ひとしきり笑った後、話題はすぐに他へと変わっていった。沢田の背中に小さな揺らめきを見つけ、ぴんと指先で弾いた。
「ん、なに七緒」
「いやなんでも」
 ぴりっと痺れる指先。
 揺らめきは一瞬で消えた。
「じゃあな」
 七緒はそう言って教室を出た。


 その後休み時間になる度に七緒は篤弘に連絡を入れてみたが、返事は来なかった。メッセージも昨夜の分からすべて既読になっていない。
 本当にどこに行ったのか…
「心当たりは?」
「全然。篤弘ってああ見えて交友関係あんまり広くないんだよな…」
 放課後、七緒と梶浦は帰り道を一緒に歩いていた。授業が終わり七緒が昇降口に行くと、梶浦がそこにいたのだった。
『あれ、詞乃』
『途中まで一緒に行こう』
 あ、と七緒は見ていた携帯の画面から顔を上げた。
「そういえば詞乃の連絡先っておれ知らないけど」
「ああ…、そうだな」
 隣同士、いつでも話が出来る距離で全然思いつかなかったのだ。
 梶浦は携帯を取り出すと素早く操作し、七緒に差し出した。
「なんか慣れてるな」
 携帯の操作に疎い七緒は感心して言った。
「高橋がやたらとこういうのに詳しくて、見てたら覚えたんだよ」
「あー佑都、そうそう、おれのときも何か勝手にやってくれたっけ」
 ファストフード店で鉢合わせたことを思い出して七緒は笑った。
(あ)
 あの店。
 そうだ。
「どうした?」
 はっと足を止めてしまった七緒を梶浦は振り返った。
「おれ、いっこ心当たりあるかも」
「…どこ?」
「バイト先の近くにある店。おれちょっとそこ寄っていく」
 もしかしたら篤弘がいるかもしれない。
 もしかしたら、この時間なら。
「俺も」
 行く、と言いかけた梶浦を七緒は見上げた。
「いいよ、おまえ用事があるんだろ?」
「大した用事じゃない」
「でも家族と会うんじゃん」
「……家族」
「家族の方が大事だろ」
 ぼそりと呟いた梶浦に七緒は笑った。昨夜、七緒は梶浦から「彼の彼女」と間違われているだろう人の話を聞いた。
『え、家族?』
『家族って言っても義理だけど』
『そうなんだ』
『随分離れてるんだ、十八ほど』
 十八。七緒が見たのはその家族だと梶浦は言った。
『お姉さん…』
 遠目だったが綺麗な人だった。ぽつりと呟くと梶浦はなぜか複雑な表情をした。
『だから彼女なんかじゃないんだ』
『…うん』
 七緒が頷くと少しほっとしたように梶浦の顔が緩んだ。そのときのことを思い出して七緒は苦笑する。
「おれ寄ったらすぐバイトに行くし、お姉さんに会ってこいよ」
「……」
「な?」
 まるで親から離れたがらない子供のようだ。七緒がそう言うと渋々といったように梶浦が頷いた。
 途中で別れ、七緒はいつも行くファストフード店に行った。店内に入り、ぐるりと見回す。いつもは行かない奥の席まで見に行ったが、篤弘の姿はなかった。
「……」
 やっぱりいないか。
「そうだよな」
 時計を見ればバイトの時間までもう少しある。ギリギリまでいることにして七緒は注文カウンターに向かいドリンクを頼んだ。


 時間いっぱいまでファストフード店にいた七緒はバイト先に駆け込んだ。
 あやうく遅刻するところだった。
「おはようございます…っ」 
 事務所のドアから見えた人影に声を掛けると、その人が振り向くよりも早く七緒は制服を着替えに急いでロッカーを開けた。
「おはよう、えーと、奥井くんかな?」
「あっはい」
 真後ろから聞こえた声に驚いて振り向くと、三十代ぐらいの男が立っていた。
 知らない人だ。
 彼はにこりと人好きのする笑みを浮かべた。
「新しくこの店の店長になった尾田です」
 新しい店長。
 そうか、と七緒は思った。昨日オーナーがそれらしいことを言っていた。
 七緒は頭を下げた。
「あ、奥井です」
「よろしく」
「はい…」
「奥井くんは品出し担当だよね」
「はい」
「じゃあ今日もよろしくお願いします」
 お願いします、と七緒が返すと、彼はくるりと背を向け、事務所の方へ戻って行く。その背中がうっすらと揺らめいていて、あ、と七緒は小さく声を上げた。
「ん? どうした?」
 尾田が振り返る。
 ぴりっとした手を引っ込めて、七緒は首を振った。
「ごみ、付いてたんで」
「? そう? ありがとう」
 不思議そうな顔で尾田は言った。
「いえ…」
 尾田は何事もなかったかのように七緒に背を向け、事務所に入って行く。その後ろ姿を七緒は見つめた。
 背中には何もない。
(…力、ちゃんとあるな)
 咄嗟に手を伸ばしていた。指先でぱちんと弾けた水の塊。沢田のときもそうだった。今も、尾田の揺らめきを消すことが出来た。
 ぴりぴりと痺れる指を握り込む。
 力は消えたわけじゃない。
 消すことも視ることも出来る。
 でも、だったらどうして、視えないんだろう?
 篤弘のものだけが、どうして…
「奥井くん、時間だよ」
「あっ、っ、はい!」
 沈んでいた考えからはっと顔を上げ、七緒は返事をした。
「お疲れさまでしたー」
「おつかれさま」
 定時になりいつものようにパートの主婦たちと一緒に店を出る。
「あー奥井くん、これこれ、田中さんから預かったの」
 外に出たところでそのうちのひとりが七緒に声を掛けてきた。四十代とパートの中では比較的若い人だ。
「田中さん?」
「そう彼女、あの後すぐ辞めちゃったでしょ。奥井くんにこれ渡してって家まで持って来たのよ」
 シフト表からは彼女の名前がすべて消されていた。新しい店長は何も言わなかったが、七緒はそれで田中が辞めたのだと知った。
 無理もない。最後に少し話したかったけれど、仕方のないことだと思っていた。
 だから思ってもいなかった田中の名前が出て、七緒は驚いた。 
「え、なんだろ…?」
「庇ってくれたお礼だって。直接渡したかったみたいだけど、さすがに家は知らないし、店に来るのも嫌みたいだから」
「ああ、そっか」
「もらってあげてね」
 それじゃ、と彼女は自転車置き場の方に走って行った。七緒は渡された紙袋の中を覗き込む。両手で持てるほどの箱がひとつ、中に入っていた。店の名前などはなくて、中身の想像がつかない。
「なんだろ」
 お菓子かな。
 もしそうなら、詞乃と分けて一緒に食べよう。
 梶浦はもう家に帰っただろうか。
 それともまだ義理のお姉さんと会っているのだろうか。
 大通りまでの道を歩きながら、七緒は携帯を出してメッセージを確認した。通知がひとつ、篤弘か、と思い急いで開いたが、それは高橋からのものだった。
『なな先輩今何してるの?』
 くす、と笑みが零れる。
 まるで昨日と同じ文面だ。
「あいつこればっかだな…」
 おれが何してるかにそんなに興味ある?
 バイトが終わったところ、と返事を打って送信した。梶浦からも篤弘からも何もない。
『おつです、僕は塾の休憩中』
「あーそっか塾か」
 返って来たメッセージに呟いて、がんばれ、と返すと瞬時にありがとうのスタンプが返ってきた。
「…ふふっ」
 思わず声に出して笑ってしまう。
 なんかかわいいな、あいつ。
 塾で大変だろうに…
 そこまで考えたとき、は、と七緒は思いついた。
 篤弘もいつも遅くまで塾に行っていた。
(もう一回…)
 いつもの店にもう一度行ってみよう。もしかしたら。
 七緒は沢田に通話を掛けた。
『はーい、なな? どしたのー?』
「瑛司、篤弘どうなった?」
『篤弘お? いやあ? まだ帰ってないっぽいけど?』
 のんびりした口調の向こうから、テレビの音らしきものが聞こえてくる。誰かの話し声、家族のいるリビングだろうか。
「まだなんだな?」
『んー、まあでもそんな心配せんでもだいじょぶじゃない?』
 男だしさ、受験前にどっかで遊んでんじゃん?
『たまにはいいじゃん? 七緒もべたべたくっついて回られて鬱陶しいだろ、羽伸ばしたら』
 小さな子供の賑やかな声がして、家族の誰かがそれを叱っている。
 じんわりと暖かな光景が目に浮かんで、七緒は苦笑した。
 沢田は篤弘のことをそれほど心配していないのだ。
 それもそうかと思う。男子高校生が一日家に帰らないのはあまり珍しいことでもないんだろう。今日学校で見た同級生たちの反応を見ても皆大したことじゃない口ぶりだった。
 篤弘があまり好かれていないというのもあるかもしれないけれど。 
「わかった、ありがと」
『ん、またなー』
 ぷちりと通話の切れた携帯をポケットに仕舞った。
 でもそれはあまりに寂しい。
 篤弘にも良い所はたくさんあるのだ。家族以外の誰かが、自分ひとりぐらい、彼の心配をしたっていいはずだ。
 もう一回だけ。
 いなかったらすぐ帰ればいい。
 七緒は大通りに出るとファストフード店のほうに足を向けた。来たときと同じように通りを渡って、もう一本向こうの通りに出なければいけない。信号待ちの列に七緒は並んだ。この時間帯にここを通るこことは殆どない。来るときには明かりのついていない一帯が、眩しいほどのネオンに照らされていた。大きなホテルがいくつもある。
 信号が青になり、七緒は人の流れに乗って通りを渡った。正面にあるホテルの明かりで通りは昼間のように明るい。エントランスに入っていく人の脇を通り、七緒は裏へ回ろうとした。前から来た人とすれ違う。なにかいい香りにふと顔を向けとき、それが目に入った。
「──」
 ガラス張りのロビーから中は丸見えだ。カフェのようなラウンジ、暖色の光を放つ照明がふんだんにあしらわれたシャンデリア。
 若い男女がラウンジの中にいた。
 男は梶浦だった。
 女は──
『歳の離れた家族だ』
 姉だと言っていた。
 義理の姉だと。
 でも。
 梶浦と女は顔を寄せ合い、口づけていた。
 ラウンジの中、人目も憚らず、大胆なキスをしている。
 あれが、家族であるはずがない。
「……っ」
 ずきり、と左肩が痛んだ。肉の奥が疼く。どくどくと激しい痛みが七緒の全身を侵していく。
「…、っ、あ」
 アスファルトに膝をついた。
 辺りはいつのまにか人通りが途絶えている。
 痛みに耐えきれず、額を地面に擦りつけるようにして体を丸めた。
 嘘だ。
 嘘だ嘘だ。
 どうして。
『シノ』
 嘘つき。
 嘘つき。
『──シノ』
 キン、と耳鳴りがした。
『こんなはずじゃなかったのに』
 自分の内側から声がする。涙が後から後から溢れ出て、離れないふたりをゆらゆらと揺らした。
 苦しい。
 苦しい。
 身の内を焦がす、この気持ちはなんだ。
 溺れる。
 溺れてしまう。
 息が出来ない。
『許してくれ、僕を』
「許していいのか?」
 気がつけば、誰かが目の前に膝をついていた。
 聞き覚えのある声に七緒はのろのろと顔を上げる。
「あつ、ひろ…っ、…?」
 なんで。
 どうしてこんなところに。
「かわいそうな七緒」
 蹲る七緒の前に屈みこんだ篤弘は目を細めて言った。
「全部あいつが悪いのに、こんなに苦しんで」
「なんで、おまえ、ここに…」
「今日泊めてくれるだろ?」
 場違いなほどにこりと篤弘は笑った。
「オレと約束したもんな…?」
 ぐい、と二の腕を掴んで立ち上がらされる。その瞬間周りの音が一気に蘇ってきた。
 車の通る音、人のざわめき、街の喧騒。
 耳をきつく塞がれていたようなあの感じが消えていた。
 道路の真ん中で向かい合う七緒と篤弘を怪訝な目で見ながら通行人が行き過ぎる。
 なんだったんだ。
 なんだったんだ、今のは。
「じゃあ、行こうか」
 肩で大きく呼吸する七緒に構うことなく、冷たい笑顔を浮かべて篤弘は言った。
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