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しおりを挟む杉原と食事を終え家に帰ると、冬は古賀に貰った番号にとりあえずメッセージを送った。いきなり電話をかけても驚かせるだけだ。高校のとき知っていた彼女の連絡先はもうとうに失くしていたから、古賀には感謝してもしきれない。一体どんな手を使ったのかは知らないが…
「……」
無意識にため息が漏れる。遥香が別れ際に残した言葉がずっと頭から離れない。
『あいつに言われたこと私ずっとなんかトラウマみたいになってて、──』
トラウマ…
名取は何を遥香に言ったのだろう。
とにかく話を聞きたかった。
きちんと遥香の口から直接──そして。
スマホの画面を見ながら冬は躊躇う。
わざわざ自分から連絡するのは気が引けた。待っていてもそのうち必ず連絡は来そうだ。
「…風呂入ろ」
母親に電話をかけるのを諦めて、冬はネクタイを外しながら風呂場に向かった。
あの人のことを考えるとため息ばかりだ。
五月は気にするなと言うが、そうもいかない。
どんなに苦手でも、血の繋がった母親なのだ。
いつか苦手に思わない日が来るのだろうか…
「…ん?」
ぼんやりしながらシャワーを浴び、出て来た冬はスマホが鳴っているのに気がついた。
「と、──はいはい…」
しつこくなり続けるのは母親だろうか。さっそくやって来たなとスマホを手にした途端、冬の表情が曇った。
表示されていた名は名取佑真。
名取からだ。
「…──」
ずっとのらりくらりと誘いを躱してきた。いい加減言い訳も尽きている。
これに出たほうがいいだろう、きっと。
冬は画面をタップし、通話を繋げた。
「はい」
かすかな息遣いのあとに声がした。
『ミヤ、お疲れ』
「…お疲れ」
耳に届く声にどきりとした。何かが違う気がしたが、それが何かは分からない。
名取はかすかに笑った。
『金曜日打ち合わせだけど、飲みに行かないか?』
「……」
『ミヤ?』
今週の金曜日の午後に名取の会社との打ち合わせがある。今回はオンラインではなく対面だ。打ち合わせ内容から考えれば、おそらく長引くことが予想されていた。
もう断る理由がない。それに…
「いいよ、分かった」
と冬は頷いた。
一瞬驚いたように名取は息を呑んだ。
『へえ、本当?』
「本当だよ」
『僕を避けてたのに?』
名取には聞きたいことがたくさんある。
聞かなければ前に進めない。確かめないと、いつまでも動けない。
逃げてばかりでは駄目だ。
「違うって…、でもさ、おまえ家空けてばかりで大丈夫なのか?」
『家? ああ…平気』
意外そうに言ってから、名取は笑った。
「じゃあ店は任せるから」
『分かった。じゃあ、金曜に──楽しみにしてる』
「…っ」
耳元で囁く名取の声にわずかに首を竦める。かすかな笑い声を残して名取は通話を切った。自信に満ちたそれは、冬が自分に好意があると自覚しているものだった。
でも。
少し前まで感じていた胸の疼きは冬の中にもうない。
あれほど苦しかった濃密な感情は水で薄められたかのように容易に息が継げる。あんなに、あんなに苦しかったのに。
「……はあ」
スマホを耳から離しその手を見ると、指先が小さく震えていた。
緊張していたのか。
好きだからではない。これは…
(そっか、おれ…佑真が)
その言葉がすとんと胸に落ちてくる。
そう、そうだ。
名取と顔を合わせるのが怖い。
名取が怖かった。
時折彼が自分に向ける色のない視線。
笑っているのに、まるで違うものを見ているようなそれが怖かった。
どうして忘れていたのだろう。
好きだと思う気持ちの奥に仕舞い込んで見ないふりをしていたのか…それとも。
それとも…
「──」
持ったままのスマホが鳴った。びくりと腕が跳ね、床にスマホが落ちる。慌てて冬は拾おうとして、息を詰めた。
『連絡ありがとう』
それは遥香からのメッセージだった。冬は急いで返信を開け、内容を読んだ。
***
「そうか、金曜日…」
送ったメッセージに返ってきた内容に大塚は呟いた。冬に会う時間が取れそうだと思ったのだが、どうやら金曜は都合が悪いらしい。大塚もその日は診療所だが、いつもとは違い行く時間が遅かった。田野口が研修医の実地指導をしたいとかで二時間ほど余裕があった。
食事ぐらいは出来るだろうと思っていたが、残念だ。
『午後から打ち合わせで長引きそうだし、その後飲みに行くのが確定してて、ごめん』
それは仕方のないことだ。
気にするなと大塚は返した。
咥えた煙草を深く吸い込み、煙を吐いた。外の風に乗ってよく晴れた空に溶けていく。
『土曜日は? 史唯さん休み?』
「──…」
土曜には仕事がひとつある。だがそれは今日明日やり切ってしまえば無くなる予定だった。自分が頑張りさえすればいい。
休みだよ、と大塚はメッセージを打った。
すぐに既読になる。
『じゃあ土曜日に』
土曜に。
知らず口角が上がっていた。
寄りかかった外壁に頭をつけ空を仰ぐ。
ふと大塚は思った。
あの名取とは一体どうなっているのだろう?
「……」
聞きそびれてしまうのは、聞くのが怖いからだろうか。
「怖い、か…」
思わず呟いて自嘲した。
自分はこんなにも臆病な人間だっただろうか。
怖くても向き合わないと手に入れられない。名取ではなくこちらを向いて欲しい。
『名取くんは大丈夫か?』
考えた挙句、簡単にそれだけを打った。しつこくして嫌われたらと思う自分は本当に変わってしまったようだ。
送信しようとしたそのとき、大塚さーん! と呼ぶ声がした。大塚は手を止め頭を動かした。
ばたばたと忙しない足音が近づいてくる。
「あーいたいたっ、またこんなところに! もうサボってばっかりだと本気でクビにしますよ!」
裏口の扉から小柄な男が勢いよく飛び出してくる。大塚を見つけると目を吊り上げて自分よりも大きな大塚を怒鳴りつけた。
大塚はそれを見下ろしながら煙を吐いた。男はぎょっとした顔で急いで腕で口元を覆い飛び退る。
「ああ、失礼?」
風向きで浴びてしまった煙草の煙に、悔しそうに男は顔を歪めた。
「早く消せよ!」
「はいはい…」
大塚はもう一度味わってから、裏口に備え付けの古びた灰皿スタンドにぎゅ、と煙草を押し付けた。
「ほんっとにもう…! その匂い! 落としてから来て下さいね!」
男は言い捨てると中に戻って行った。騒々しいその足音を聞きながら、大塚は肩を竦めて言う通りにすることにした。
あと少しで片が付く。
ようやくだ。
ようやく。
そのときは、少しは胸を張れるだろうか。
眩しい日差しに目を細め、大塚は深く息を吸い込んだ。太陽の匂いを久しぶりに胸の奥まで吸い込む。それをそっと吐き出すと、ほんの少しだけ胸の内が洗われたような気がした。
「さて…」
また呼ばれるのも面倒だ。
そろそろ中に戻るか。
それにしても、と大塚は苦笑した。こんなに近くにいただなんて思いもしなかった。灯台下暗しとはよく言ったものだ。
田野口にも感謝しなければならない。
案の定再び大声で呼ばれた。
適当に返事を返し今度こそ大塚は中に戻った。
結局冬へのメッセージを送り忘れていることに気づいたのは、その日の夜になってからだった。
***
顔を上げると、ちょうど建部が入ってくるところだった。冬は出来上がった資料を整え立ち上がった。
「建部さん」
「おー宮田」
心底疲れた声で建部はこちらを向いた。近づいていく冬にふにゃふにゃと情けない顔で笑う。
「お疲れ様です、…大丈夫ですか」
「ああ? 大丈夫じゃないよおまえ…、あれは地獄だぞ」
先日の後始末のために開かれていた会議に、建部は朝から出席していた。途中休憩を挟んで五時間余り、ようやく結論が出たということか。
「ったくとんだとばっちりだよ、うちが悪いわけじゃねえのにさ…」
「ああーまあ…」
確かにそうだが、こればかりは声を大きくして言えない。営業部もわざとやったわけではないのだ。だが仕事である以上ミスは許されないものだ。
「愚痴言っても仕方ないけどな。とりあえずうちは引き続きサポートに回ることになったわ…通常業務と合わせて」
「課長はなんて?」
「オレに一任。奥さん具合悪いらしいから今日途中退席したし」
「えっ、そうなんだ」
オフィスの中を見渡して、冬は初めて気がついた。課長の席は綺麗に片付けられている。仕事に集中していて気がつかなかった。
「そう! だから今日から忙しい。宮田も残業増えるかも」
「それは構わないですけど」
「悪いな、本当」
疲れた顔でぽんと冬の肩を叩き、建部は自分のデスクの椅子にどかっと腰を下ろした。冬は抱えていた資料を建部の前に置く。
「あとこれ頼まれてた分です。手直ししたのと合わせた資料はこっちですね」
「あー助かるわ」
「なんか買ってきますか?」
「んーじゃあ激甘いカフェオレにしてー、あとチョコバーね」
「はいはい」
よほど疲れたのだろう、ぐったりと椅子に寄りかかる建部に冬は苦笑した。会議に出席したのはほとんど課長クラス、建部は最年少で彼らと渡り合ったのだから、それも仕方ないのかもしれない。
先輩を労うのは後輩の務めだ。
「じゃあ買ってきます」
「んー」
ひらりと手を振った建部は、あ、と思い出したように声を上げた。
「宮田」
行きかけた冬が振り返る。
「はい?」
「すまん、打ち合わせがひとつ変更になったんだわ、忘れてた」
建部は身を起こすと、スマホを取り出して確認した。
「金曜日のフルタックとの打ち合わせ。明日に急遽変更になった」
「…え」
どきりとした。
明日?
フルタック──名取の会社だ。
「向こうの都合で時間も変更で午前になった。おまえ大丈夫そうか?」
問われて冬は一瞬躊躇ったが、大丈夫です、と頷いた。
「じゃあおれ買ってきますね」
そう言って、休憩スペースへ建部に言われたものを買いに行く。
明日。
明日か…
明日は遥香から連絡が来る日だった。彼女は今研修中だとかで、話が出来ないと返してきた。それでこの日ならと指定してくれたのが水曜日の夜だったのだ。
『ごめんね、ちゃんと話したいから通話のほうがいいかも』
それは冬も同感だった。
文字ではうまく伝わらないものだ。
「明日か…」
明日、きっと名取は冬を誘ってくるだろう。
冬はスマホを取り出して遥香にメッセージを入れた。
出来ることなら今日話がしたい。
名取と顔を合わせる前に遥香から話を聞いておきたかった。
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