宵にまぎれて兎は回る

宇土為名

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 先に行った建部の後を追い、冬は会議室を出た。ようやく終わった打ち合わせにほっと一息ついてエレベーターが上がって来るのを待つ。
 資料の入った鞄は先に建部が持って行ってしまったため、いくらか手持ち無沙汰な気がした。データとして持ち出せれば楽になるのにと、毎度のように思うが、こればかりは冬の意見ひとつでどうにかなるものでもない。
「宮田さん、今日はお疲れ様でした」
 見送りを断ったはずなのに、振り向けば相沢が立っていた。わざわざ言いに追ってくれたのだろうか。相沢は建部と仲が良いとはいえ階級は上だ。冬は恐縮すると慌てて頭を下げた。
「いえ、こちらこそ貴重なご意見ありがとうございました」
「今回も良い製品が見つかって私達もほっとしてます」
「そう言っていただけると…」
「先日飛び入りした資材課の課長、覚えてますか?」
「あ、──はい」
 背筋を伸ばした冬に相沢は笑みを零した。
「その畑島が、あれから顔を合わせるたびに宮田さんのことを褒めてましたよ」
「そ、…う、ですか?」
 あの厳格そうな人が?
 意外過ぎて冬は目を丸くした。まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかった。
「うちの企画に欲しいって言ってましたよ」
「え、いや、それは言いすぎでしょう」
 はは、と冬は笑う。自分の能力は分かっているつもりだ。可もなく不可もない。細かな作業には向いているかもしれないが、それほど頭が切れるわけでも立ち回りに秀でているわけでもないのだ。
「宮田さん、自分の事あんまりよく分かってないほうですね?」
「え?」
 訊き返したのと同時にポーンと軽快な音がしてエレベーターの扉が開いた。
 相沢がくすりと笑って冬に乗るように促す。冬は慌てて乗り込んだ。幸い中には誰も乗っていなかった。
「それじゃまた次回に」
「失礼します」
 行き先階を押し会釈をした。扉が閉まる寸前、その隙間から乗り込んで来た人影があった。
「──」
「名取、どこ行くんだ」
 相沢が尋ねると、総務まで、と言った。
「呼ばれたので行ってきます」
「ああ。じゃあ、宮田さん」
 今度こそ扉が閉まる。
 ふたりきりだ。
 名取がくすりと笑った。
「僕も下に行くから」
「総務って、下だったか…?」
「そうだよ」
 違うことを冬は知っている。
 打ち合わせ中名取は何も言って来なかった。休憩を一度挟んだが、その時も何もなかった。
 まさかこんな形で来るとは…
 この会社の総務は六階にある。冬は何かの折に立ち寄ったことがあったのだ。相沢も気づいたはずだが、それを指摘しなかったのは、自分たちの関係を知っているからだろう。それの証拠に閉まる扉の隙間から相沢の苦笑した顔が見えていた。
 意識するまいとするほど息が詰まりそうだ。
 名取の視線が痛い。
「ミヤはさ、年上に好かれやすいよね」
「そうか? そんなことないけど」
「畑島課長に、食堂のおじさん、高校の教師もミヤを可愛がってたな」
「それは仕事だからだろ」
「それに…」
 エレベーターの隅に寄りかかっていた冬へ、名取は近づいてきた。
 逃げ場のない密室の中、触れそうなほど近い距離から名取は冬を見下ろしてくる。
「あいつも年上だし」
 あいつ。
 それは大塚のことか。
「関係ない…」
 耳元で名取が囁いた。
「僕を忘れたくて付き合ってるんでしょ?」
「──」
 ぎくりと首筋が強張った。
 言葉にではなくかかる息に反応しただけだ。
 だが訂正するには遅かった。
 それに名取は気づいたのか、ふっ、と声を漏らして笑った。
「かわいいね、ミヤ」
「そうじゃない、違う! おれはちゃんと──」
 行先階に着いた。さっと扉が開き、冬は言葉を切った。乗り込む人が外で待っている。名取は先に降り、冬を振り返った。
「着いたよ」
「…っ」
 人前では何も言えない。冬はエレベーターを降りた。
「今夜空いてる?」
 名取は出口までついてきた。
「金曜日って言ったけど、いいよね?」
 予想通り名取は冬を誘ってきた。
 だが頷けない。
 遥香とは結局まだ話が出来ていなかった。遥香と話が出来るのは、やはり今日になっていた。
 今日の夜。
「悪いけど、今日は予定あるんだ」
「へえ、なんで?」
「なんでって…」
「あいつと会うの?」
「おまえに関係ないだろ」
 強めに言い返すと、名取は一瞬目を瞠った。それからゆっくりと笑みを浮かべた。
「…そうかもね」
 短いクラクションが聞こえた。会社の前、通りの端にライトを点滅させた車が止まっている。建部が車を回してきたのだ。
「じゃあ、金曜に」
 冬は名取に背を向けて車に駆け寄った。
 まだふたりで会いたくない。
 せめて、今日はまだ。
「すみません、遅くなって」
 車の助手席を開け、急いで乗り込んだ。
 その背後で名取の表情がすっと消えたことに冬は気がつかなかった。

***

 準備を整えていると、上司である小柄な男はせかせかと大塚の周りを歩いた。せっかちなその音は割と耳障りだ。
「なんですか」
「え?!」
「人の周りで散歩ですか」
 顔を顰めると、びくりと男は飛び上がった。
 やれやれ、と大塚は思う。
 もう一年以上ここにいるというのに、いまだにこの上司は大塚が怖いのか。
「いやそんなわけないでしょう」
「じゃあどうぞ、座ってろ」
「はあ!?」
 ぞんざいな物言いに男は顔を真っ赤にした。誰が言いだしたか知らないが、瞬間湯沸かし器とは、よく言ったものだ。
「大塚さんあんたねえ…! いやもうほんとにあんたって人は…!」
 男は水を得た魚のように滔々と文句を並べ立てた。
 大塚はそれらを聞き流し、今日やるべきことを腹の中で復唱していた。

***

 昨日の夜遥香に送ったメッセージに返ってきたのは、やはり無理だという内容の断りだった。どうやら研修は佳境に入っており、外部との連絡は極力控えなければいけないらしかった。
『ごめんね! ほんとにごめん!』
 それは一体どんな仕事のどんな研修なのかと冬は首を傾げたが、無理を言っているのはこちらなのだ。大丈夫、と送り返し、当初の予定通り今夜ということになった。
「ちょっと、宮田!」
「はい?」
 あと少しで定時というとき、冬は同僚に呼ばれた。青い顔をした同僚はどうやら仕事でへまをやらかしたようだった。
 モニターに映った文章を読み、これは、と冬は青くなった。
「どうしよう宮田…」
「ちょっと建部さん呼んでくるから、触らないで待ってて」
 自分でどうにか出来るものではない。とにかく上司への報告が先決だ。
 建部を呼び、冬は同僚に事情を説明するように言った。渋い顔をしていた建部は聞き終わった瞬間盛大なため息を吐いた。
「わかったわかった…、じゃあオレは上に掛け合ってくるから楠田はとにかく先に謝罪文入れろ。宮田フォローに回って」
「はい」
「悪いけど定時帰宅はなしだな」
 ちらりと時計を見て建部は言った。それはもう仕方がない。報告に行く建部がオフィスを出た後、櫛田がうなだれた。
「ああー…悪い宮田あ…」
「大丈夫だって。ほら、とにかくやらないと」
「俺謝罪文書いたことないよ…」
「はは」
 どうやんの、と聞いた楠田に冬は思わず笑った。就職して三年程経つが、その間一度も謝罪文を書かなかった楠田が羨ましすぎる。冬は何度も書いたことがあるのに。
「いいよ、教えてやるから」
 笑いながらそう言って冬は楠田に書き方を教えた。
 そうしてようやく作業を終えたのはそれから一時間以上経ってからだ。
「あーおわったあ…!」
 すべてをやり終えた楠田が大きく伸びをする。冬もほっと息をついた。
「ふたりともお疲れさまー」
 顔を上げると杉原が立っていた。
 あれ、と冬は目を丸くする。
「まだ残ってたのか?」
「まあね。こっちも終わらなくて。それに予定あるし」
「デートか?」
 楠田の問いに杉原は違う、と首を振った。
「今から歯医者」
「歯医者? こんな時間に?」
「水曜日だけ遅くにやるようになったんだよね。ほら、宮田くんに教えたところ」
「ああ、あそこ」
「うん。そろそろ行かないと。ふたりももう帰れるんでしょ?」
 ああ、と頷いた楠田とは反対に、冬はまだ、と言った。
「えっ」
「ちょっと残ってるからついでにやって帰ろうかと」
 楠田に呼ばれるまでやっていた仕事は途中で終わっていた。あと少しで終わるところだから、残しておくより片付けて帰りたい。
「俺手伝うわ」
「私も」
「いや、本当にすぐ終わるから」
 大丈夫、と笑って冬はふたりに帰るように促した。楠田は本当にいいのかと何度も念を押しながら帰って行き、杉原は自販機でコーヒーを買って冬に渡した。
「本当にいいの? 楠田くん帰っちゃったじゃん…、手伝ったんだから手伝ってもらえばよかったのに」
 渡されたコーヒーを受け取って、冬は苦笑した。
「いいんだよ。これはおれの仕事だから。杉原ももう行きなよ。時間遅れるぞ?」
「うん」
「また明日」
「ん」
「気をつけて」
 また明日ね、と言って杉原もオフィスを出て行った。オフィスの中は冬ひとりだ。建部は上に報告を済ませ確認をすると、冬に任せてオフィスを出ていた。おそらく事後処理をしに他部署を回り、そのまま帰ったはずだ。デスクに彼の荷物はなかった。
 さっきまで賑やかだった空気が、しんと冷たく静まり返る。
 時計は十九時半を過ぎていた。
「さて…」
 冬もこれを終わらせて帰らなければ。遥香との約束は二十一時だった。
 コーヒーを一口飲んでデスクに置くと、冬はモニターに集中した。


 予約は十九時五十分だった。
 何度も確認したから大丈夫なはずだ。
 宮田冬にせっかく紹介したのに、あの受付の女が全部台無しにしてしまった。冬に申し訳なかったし、いろいろと腹が立った。
 あれからあの歯医者に行くのは今日が初めてだ。
「絶対文句言ってやる…」
 受付の女は顔は綺麗だが態度は最悪だ。
 杉原も何度か嫌な思いをしたことはあるが、行きやすいので歯医者を変えられないでいる。
 今日こそひと言文句を言うときだ。
 よし。
 腹に力を入れ杉原は小さく拳を握りしめた。
 そのとき。
 ふとすれ違った男に、見覚えがあるのに気づいた。
(…あれ?)
 足を止めて振り返る。
 あれは…
「宮田くんの…」
 一度だけ見たことがある。社の方で会議があったとき、上司の代理で来ていた。一度だけだったが、華やかなその容姿は一度見たらそうそう忘れられるものではない。
 確か名前は名取だ。
 先日友人の前沢が社の近くで見たと話していた。
 冬に聞くと、待ち合わせだと言っていて…
「今日もそうなのかな…?」
 遠ざかる名取の後姿は、社のほうに向かって行く。
 きっとそうなのだろう。
 仲が良いな。
 杉原は気を取り直して歯医者に向かった。

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