明けの星の境界線

宇土為名

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「…い」
 かちゃん、と落ちる音がした。
 落ちた。
 …落ちる?
 何が?
「おい後藤、…」
 なんで…
 なんで──
「おいっ、て!」
「っ、おあ!?」
 ぱん、と背中を叩かれ怜は声を上げた。持っていたスポンジがその拍子に勢いよく手から離れ、シンクの前の壁にべちゃっと当たる。
「な、なにす…っ」
 慌てて振り向くと、呆れた顔をして店長がほれ、と顎を突き出した。
「洗ったもん全部落ちてるぞ」
「え?」
 店長の目線を追って洗い場の中を見下ろせば、言った通り、手に持っていたはずのスプーンやフォークが泡にまみれて散らばっていた。
「あ」
「大丈夫か?」
 疲れてるのか、と背中に掛けられた言葉に、怜は首を振った。疲れてるわけはない。そんなはずはなくて、だから──
「…嘘だろ」
「は?」
「……」
「後藤?」
「だい、丈夫です」
 かき集めたスプーンやフォークをもう一度洗う。スポンジから出る泡が銀色の食器を覆う。その隙間から少しだけ見えるスプーンの背に、逆さまに歪んだ怜の顔が映っている。
 逆向きの顔。
 覗き込むように。
『起きた?』
「──」
 心臓がぎゅっと絞られるように痛い。
 まさかあんな…
 あんな近くにいたなんて。
「おまえほんとに大丈夫か?」
 大丈夫なわけない。
 大丈夫じゃない。
 そんなわけない。
「いや…死ぬかも」
「はあ?」
 ずるずるとその場にしゃがみこんだ怜に、店長の驚きの声が被さった。


 ぼんやりとした視界がゆっくりと焦点を結んでいく。
 逆さまに見下ろしている顔がほんのすぐ近くにあった。
『具合悪い?』
『…な、ん』
 なんで、と間抜けな声が出た。
『大丈夫か?』
『…え?』
 訳が分からず、怜は混乱したまま慌てて体を起こした。どうしてこの人がこんなところにいるのだろう。
『え?』
 目に被さる髪を掻き上げる。
 薄暗い教室の中、じっとこちらを見ている彼に、寝起きの頭がぐるぐると忙しなく空回りする。
 …夢?
 夢?
 だって、同じ制服だ。
 同級生?
 まさか、ありえない。
 そうだったら知らないわけがない。たかだか二百人足らずの顔の中から見つけ出せないわけがないのだ。毎日、同じところにいるのに。
 怜の目が、ふと彼の胸元に留まった。
 校章の色が違う。
 この色は。
『…三年、生?』
『? うん』
 そうだったのか。
 こんな近くに。
 彼が同じ高校の生徒だったなんて──思いつきもしなかった。
 三年生ならそれもありうると思った。
 普段ほとんど立ち入らない校舎。
 店を訪れる彼は、いつも私服だった。
『具合が悪いなら誰か呼ぶよ』
 先生でも、と言われて怜は首を振った。ただサボって寝ていただけだ。それこそあの数学教師に知られれば嫌味だけでは収まらないだろう。
『…大丈夫です。寝てただけだし』
『そう…?』
 目に被さって仕方ない前髪をかき上げた。上目にそろりと彼を見上げれば、意図せず目が合ってしまいどきりとした。
 胸が塞がったように詰まる。
 息が上手く出来ない。
『…じゃあ、僕は──』
 仕方がないような笑みを浮かべて、彼は扉に向かおうとした。その手から、ふいに一枚の紙が落ちた。床の上を滑り、怜の足先に当たって止まる。
『あ』
 屈んで指先で拾えば、それはどうやら授業の資料のようだった。
 コピーじゃない。
 原本?
『ありがとう』
 彼は怜に手を差し出した。
『……』
 渡さないと。
 指先が震える。
 何か、言わなければ。
 何か。
 彼の指が紙に触れた。
『…あの、』
『ん?』
『先輩、…』
 立ち上がった怜を、彼は見上げた。
 怜よりも少し低い背丈。
『俺のこと、知らない…ですよね?』
 まっすぐに見てくる目は、窓の外からの淡い光を映して、虹彩が透けて見えた。
 こんなふうに彼をまっすぐに見るのは初めてだ。怜が見るのはいつも、テーブルに着く彼の俯いた上からの角度だけ。
 それが精一杯だった。
 怜の指先からするりとプリントが抜けた。
『知ってるよ』
『え…』
『クー・シーでバイトしてるよね』
 にこりと笑い、彼はじゃあと言った。
『プリントありがとう』
『っ、待っ──』
 踵を返したその腕を、怜はとっさに掴んだ。

 ***

 客のピークが過ぎ、ようやくひと息ついた怜はキッチンの中の椅子に座っていた。立ちっぱなしだった体が、座ったとたんに重く感じる。いつもはこんなことはないのに。
 なんだか今日はひどく疲れた気分だ。
「おまえほんとに大丈夫?」
 カウンター越しに店長がこちらを覗き見る。今怜の代わりにホールに立ってくれているのだ。オーダーは既に終わり、あと一時間もすれば閉店時間だった。あんなにいた客も今はまばらに座っているだけになっていた。
「…大丈夫っす」
「ほんとかよ」
 カウンターに肘をついた店長が指先でこつこつとリズムを刻む。呆れた声に正直大丈夫ではないと言いたいが、それは違う気がした。
 肉体が疲れているわけではない。気持ちが持たないだけだ。
 気持ちが、苦しくて。
 またね、と彼が言ったから。
 またねって…
「まあちょっとそこで休憩してな。終わったら何か作ってやるから」
「あざす…」
「おまえ毎日──」
 言葉の途中で入り口のチャイムが鳴った。寄りかかっていたカウンターからさっと離れ、いらっしゃいませ、と声を掛ける。普段怜に対して口調の荒い彼も、接客は穏やかだ。怜がバイトに入るまで、ここはほぼ彼一人で回してきたらしいから、それも当然だった。
「ああ、いらっしゃい」
 ドアが閉まる音に、その声が格段に優しくなる。
 誰か常連でも来たのだろうか。
「今からだとドリンクだけだけど、いいかい?」
 相手は頷いたのだろう、足音が通り過ぎ、椅子を引く音がした。グラスに水を注ぎ、メニューを運ぶ店長の気配を追いかける。高めのカウンターと、キッチンが一段下がった作りになっているため座ったままではホールの様子は音でしか分からない。店長の知り合いとは誰だろうと、ふと怜は椅子から立ち上がった。
「──」
 ──あ。
「ん? どうした?」
 すぐに戻ってきた店長が怜を見て眉を顰めた。
「せ、」
 窓際に座っているのは、彼だ。
 上着を脱ぐ俯いた顔が、何かに気づいたように上がる。
 目が合った。
 目が。
 怜の心臓が跳ね上がる。
 そんな怜をよそに、店長はカウンターの伝票にチェックを入れた。
「ブレンド、っと…」
「店長…っ」
 怜は慌ててカウンターから身を乗り出した。
「ん?」
「お、俺それやる」
「はあ?」
 怪訝そうな目を向けられたが、構わずに怜はキッチンを出た。
「何だよ急に」
「いや、もう平気…っ」
「…ふーん?」
「あと、俺やります」
 店長を押しやり、半ば無理やり代わった怜は、セットされたカップの前に立った。豆が入っていることを確認してからボタンを押す。豆を挽く音が始まり、いい香りがした。この店のコーヒーは、オーダーがあってから一杯ずつコーヒーマシンで豆から挽いて入れる仕組みだ。前は店長が手淹れでやっていたらしいが、客が増えるにつれそれがままならなくなったのでこのやり方に変えたと聞いた。おかげでバイトの怜でもボタン一つで美味いコーヒーが入れられるのはありがたいことだ。
 抽出口からコーヒーが落ち切ったのを見てから、怜はカップを取り上げ、滴をさっと拭き取ってソーサーに乗せた。トレイにセットし、カウンターを出る。砂糖もミルクもない。彼はいつも使わないからだ。
「お待たせしました」
 本を読んでいた彼が顔を上げた。怜を見て、ふっとその表情が柔らかく綻ぶ。
「ありがとう」
 手が震えそうになるのを、怜は必死で堪えた。小さなテーブルの端に、そっと、音を立てないように置く。ソーサーとテーブルの間に小指を挟んで置くのが、怜のやり方だった。これが一番、静かに置ける気がするのだ。
「今日いたんだ」
 入ったときに姿が見えなかった、と言われ、怜はどぎまぎした。
「あ…、キッチンで休憩してて」
「そっか」
 あ。
 終わりそうになった会話に、怜は早口で言った。
「み…沢先輩は、今日、遅いですね」
 咄嗟に口をついて出た言葉に、ひやりと汗が出た。遅いって、それはまるでいつも来る時間を把握しているみたいな言い方に、恥ずかしさが込み上げてくる。
「うん、ちょっと長引いちゃって」
 冷や汗をかく怜には気づかずに、彼は笑った。
「悪いけど、閉店までいてもいいかな?」
「もちろん」
「ありがとう、助かった」
 いいに決まっている。怜が頷くと彼は嬉しそうに言い、コーヒーを飲んだ。
 その仕草に見惚れる。
 すみません、と他のテーブルから呼ばれたことに、怜は少しの間気が付けなかった。

 ***

『え…』
 振り向いた彼は驚いたように目を見開いていた。はっ、と掴んだ腕を怜は離した。
 しまった。
『なに?』
『あ…、──あの』
 上手く息が出来ない。
 指先の震えを誤魔化そうと怜は髪を掻き上げた。
『名前、なんて言うんすか』
『え?』
『いや…いつも来るから、名前ぐらい知りたいし…』
 自分の言い草になんだそれはと心の中で突っ込んだ。
 名前ぐらい?
 ぐらいってなんだ?
 ずっと、知りたかったくせに。
 ずっと、知りたくて。
『ああ…』
 そうか、と彼は笑った。
『三沢だよ』
 みさわ。
 みさわ…
『三沢逸巳』
 聞く前に彼のほうから言った。
 そうして彼は──逸巳は、後藤くんだよね、と怜の名を口にした。

 ***

 バイトが上がったのは、今日も二十一時近かった。
「お疲れっした」
「お疲れ、帰り気をつけろよ」
 いつもの帰りの挨拶を交わし、店の裏口を出た。
 気をつけろ、か。
 まるで子供に言うみたいな言い方に怜はかすかに笑った。
 俺が何に気をつけるんだろう。親にもそんなことを言われたことがない。俺の親は…
「──…」
 いらぬことを考えそうになって、怜は緩く首を振った。疲れているとろくなことばかり浮かんでくる。あとは帰って、寝て、明日また同じことを繰り返す。それだけでいいのに。
 ため息を吐いて頭の中のものを追いやった。
 通りに出て辺りを一瞬目で探すが、当然逸巳の姿はなかった。
 当たり前だ。
 一時間も前に帰ったのだから。
 駅のほうへと歩き、途中のコンビニに入る。まっすぐATMに向かい、カードを差し入れ現金を入れた。今日はバイトの給料日だ。出てきた明細を見て残高を確認する。目標まではまだまだ足りない。
「…しゃあないか」
 もっと効率のいいバイトはいくらでもあるが、自分に向いているとは思えない。あれだって随分悩んでやることにしたのだ。出来ることなら人目につかず黙々とやることだけやって金を稼げればいいのだが、そういうバイトは大抵安いと決まっている。それになにより、家にいない口実を作るにはクー・シーのバイトは都合がよかった。
 適当に店の中を一周する。賄は食べたが、夜食に何か欲しかった。どうせすぐに寝るわけでもないのだ。適当に見繕ってレジを済ませる。自分と大して歳が変わらないレジの男はちらりと怜を横目に見てだるそうにありがっしたー、と言った。
「…どうも」
 もうちょっと愛想よく言えないものか。だがお互い様だと思い直した。
 バイトしているとき以外は、結局自分も不愛想極まりない。
 人のことなど何一つ言えないのだ。
「あ、後藤くんじゃーん!」
 コンビニを出た途端、横から女の声がした。
「えー偶然! なにしてんの?」
 どこかで見たことのある顔の女子二人が、コンビニのガラス窓に寄りかかっていた。短いスカート、長い髪。揃えでもしたのか、ふたりともほぼ同じ格好をしている。確か高校の同級生だ。名前は知らない。声を掛けてきたのはひとり、もうひとりはペットボトルに口をつけたまま、ちらりと細めた目で怜を見ていた。
「買い物だけど」
 へー、と彼女は怜の持つレジ袋を興味深そうに眺めた。
「家このへんなの?」
「は?」
 何気なく聞かれた言葉に、ぴく、とこめかみが引き攣れた。特に他意はない。挨拶の延長線のようなものなのに、怪訝な顔をした怜に、同級生は驚いた顔をした。
「それ、関係あんの?」
「な…、いけど」
「マイ」
 言い淀んだ同級生の腕を、隣にいたもうひとりが掴んだ。振り返った彼女に顔を顰めて首を振ると、自分のほうに強引に引き寄せた。
「え、なに…」
「こいつに構わないほうがいいよ」
 そう言って怜をちらりと見た目は冷め切っていた。どこかで話しただろうか。まるで怜のことをよく知っているかのような口ぶりに、いつものように怜は面倒だとさっさと歩き出した。
「なんでえ、だって…」
「いいから。あいつロクでもないから! 前も…」
 背中にぶつかる声にうるさいと思う。
 確かに自分はどうしようもない人間だけど、どうして直接関わったこともない人間にまで悪く言われなければならないのか。
 俺がおまえに何したっていうんだ。
 誰にも、誰も──
 迷惑なんか。
「──」
 怜は目を瞠った。
 苛立ちながら目を向けた視線の先に、逸巳の姿を姿を見つけた。まだ明るい駅前の店の前、雑踏の中でスマホを見つめている。
 どうして──一時間以上前に店を出て行ったのに。
 気がつけば怜は駆け出していた。
「先輩…!」
 一瞬辺りを見回した逸巳がこちらを振り向いた。あ、と口が開き目元が綻ぶ。
「後藤くん」
 お疲れ、と小さく手を振られ、息を詰める。
「な──何して、んすか」
 帰ったのではなかったのか。
「あー…、うん、ちょっと」
 困ったように逸巳は笑い、頬を指先で掻いた。シャツの袖から出ている手首にどきりとする。自分よりもずっと細い。
 長い指先。
「ちょっと…、お腹空いてて」
「…は?」
 腹?
「どこか入ろうかと思ったけど、入れなくて」
「な…」
 もしかして、と怜は思った。
「それ、店に来たときから…?」
 今日はいつも来る時間よりも遅かった。
 でもオーダーストップだと店長が言ったから、コーヒーだけ飲んで我慢したのか。
 駅前にはたくさんの飲食店があるが、今の時間営業しているのは居酒屋かチェーンのコーヒーショップ、二十四時間営業のファストフード店、あとは…
「牛丼なら、あるけど」
 駅の反対側にある店を思い浮かべながら言うと、あー、と逸巳は頷いた。
「でも改装とかで閉まってたんだ」
「あ…」
 そういえばそうだった。
 昨日の帰りに前を通ったとき、確かに店は閉まっていて、珍しいと思ったのだ。
 店の入り口には改装中と書かれた大きな紙が貼られていた。
「先輩さあ、…か」
 帰らねえの、と言いかけた言葉を怜はふと飲み込んだ。家に帰れば済むことなのに、こうしてうろうろしているのは、何かしらの理由があるからなのか。
 家に帰りたくない理由。
 怜にもそれがあるように。
「あの…じゃあ、他の店とかは?」
「え」
「店長の…、うちの店長の知り合いの店があっちにあるから…」
「へえ」
 そうなんだ、と逸巳は怜が指差したほうを見た。
「なんてとこ…、え、あの、ちょ…」
 逸巳の焦った声に、歩き出していた怜は振り向いた。
「後藤くん、あの」
「こっち」
「教えてくれたら──」
「場所、分かりにくいところだから」
「あー、うん、でも…っ」
「……」
 それに、と怜は髪を掻き上げた。
「俺も食うから」
「え?」
「俺も腹減ってるから」
「…そうなんだ?」
 持っていたレジ袋をそっと逸巳の視界から隠した。
 食おうと思えば食える。
「そう、だから、…──」
 一緒に、というひと言が言い出せなくてそのまま怜は歩き出した。上手く伝えられないもどかしさ。どうしてこの人の前では、普段当たり前に出来ていることが出来ないんだろう。
 女になら、適当なことが言えるのに。
「よかった、ひとりだとつまんなくて」
 一緒に食べよう。
「……」
 怜の胸が震えた。
 密かに思っていたことを言葉にされる喜びがじわりと湧き上がってくる。
 乾いた何かに沁み渡るように、ゆっくりと広がっていく。
 この感情は何だろう。
 気がつけば、少し後ろをついて来ていた逸巳は怜の隣を歩いていた。


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