明けの星の境界線

宇土為名

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 校内で会うことは殆どないと思っていた怜だったが、気づけばあちこちで逸巳の姿を見つけるようになっていた。
 思えばそれが当然なのだ。同じところにいるのだから──今までは認識していなかったから、目に留まっても逸巳だとは分からなかったのだけで。
 普段滅多に行かない学食の隅のテーブル、職員室のある廊下、向かいの新校舎の窓の中。
「三沢先輩」
 今日も購買前に並んでいるのを遠目に見つけ、怜は足を速めた。
 制服の後ろ姿に声を掛けると、振り向いた逸巳が怜を見て笑った。
「あー後藤くん」
「…ども」
 急いだせいか、息が上がっていた。
 周りの視線がこちらを向いたのを背中で感じた。鬱陶しさに振り向きたくなったが我慢した。
 俺が誰かと話しているのがそんなに珍しいのか。
 だが、逸巳には気づかれたくない。好奇の目から隠すように、怜は逸巳の真後ろに立った。
 身長はあるが細身の彼はこうしてしまえばすっぽりと覆えてしまう。
「そっか二年も昼休みだな」
 この学校の昼休みは学年ごとに時間が三十分ずつずらされている。昨今の流行り病の事情もあるが、理由は単純に生徒数が多いため、休憩時の混雑を避けるためだった。
「…先輩もパン?」
 逸巳の手には財布があった。店で会計をするときにいつも見る、見慣れた黒のシンプルな財布だ。
「うん、今日食堂多いから」
 購買の入り口から学食を覗くと、中は奥の方まで生徒で埋まっていた。怜は入学してから一度しか入ったことはないが、逸巳はよく利用しているようだった。
「今日木曜だから、余計にね」
 木曜日?
「ほらメニューが」
 首を傾げた怜に、逸巳は食堂の入り口を指差した。並んでいた列が動くのに合わせて進みながら見れば、壁に立てかけられたホワイトボードには、大きく今日の献立が書かれていた。
 A定食・カレー
 B定食・ナポリタン
 殴り書きのようなイラストも添えられており、それはまるで町のどこかの食堂のようだった。
「ナポリタン…」
「木曜日はあのメニューが固定だから、みんな食べに行くんだよ」
「へえ」
「知らなかった?」
「いや、俺あんまり行かねえから」
 あんまりというより全くだ。
 もう二年もいるのに、入ったのはたった一度。
 入学してすぐ、──覚えているのは居心地の悪さだけ。
 味なんて記憶にない。‘
「好きなんだ?」
「え?」
「ナポリタン」
 怜は驚いて逸巳を見下ろした。
 びっくりした。
 今、…
「逸巳、おまえまだこんなところに…」
 呆れたような声がして怜は目を上げた。食堂から出てきたのだろう、やたらと姿勢のいい男が近づいてくる。校章の色は三年、寺山、と逸巳が呼んだ。
 寺山。
 逸巳の友人だ。
「時間もうないぞ」
「大丈夫、すぐだよ。先行って」
「わかった」
 列の先をちらりと見て寺山は頷いた。逸巳の番は次だ。ふと怜と目が合い、一瞬ひどく嫌な顔をされる。
「じゃあ先行ってる」
「ん──あ、悪い席取っといてくれるか?」
「ああ」
 そう言って横目でじろりと怜を見据えてから、寺山は行ってしまった。
 何だ、今の。
 あからさまな嫌悪だ。
「はい次の人ー」
 声を掛けられ、逸巳が前に進んだ。昔のケーキ屋のようなショウケースの前に立った逸巳が怜を振り返った。
「後藤くんどれ?」
「え」
「選んで。一緒に頼めば早いだろ」
 周りの視線が静かにざわめいた。
 でも逸巳は気づかない。
「あ、すみません僕はそれと、あとこっちのサンドイッチ──」
 真後ろを振り仰ぎ、注文するように促した。戸惑いながらもじゃあ、と怜はショウケースの中を指差した。
「…それと、そのソーセージのやつと、それと、…その端のやつ」
「はいはい、あー、あんた、いつものやつねー」
 購買の女性が手慣れた手つきで二人の分をそれぞれに袋に入れた。計算も慣れているのか別々に言い渡してくれる。お互いに代金を払って列を抜けた。教室に戻る逸巳とはここでお別れだ。
「じゃあ」
 また、と軽く手を上げて逸巳は踵を返した。新校舎のほうに向かって行くその背中を、怜は見送る。
「おい怜」
 肩を叩かれて振り返ると、中井が立っていた。
「あ? 何」
「何じゃねえよっ、おまえオレがいるの忘れてただろ」
「……、ああ」
 そういえば、と怜は思い出した。購買に行こうと二人で教室を出たのだった。その途中で逸巳を見つけ…
 中井の存在はすっかり忘れてしまっていた。
「何がああだよ、ったくさあ…」
 顔を顰めた中井の手には怜と同じ袋があった。
「買えたの、おまえ」
「買えたよ! おまえの隣でな!?」
「ああそう」
 隣にいたのか。
 全然気がつかなかった。
 それほどに逸巳しか目に入っていなかったのだ。
「じゃあ行こうぜ」
「おまえなあ…」
 この感情を何というのだろう。
 逸巳の姿を見ると胸の奥が痛くなる。
 店で出会って、店員と客の会話をした。
 初めて話したあのときからそうだ。
 傍に行きたくて、話をしたくて。
 声を聞きたくて。
 もっと。
 もっと。
 新校舎に続く廊下の先を怜は見つめた。
 どうしてこんなに…
「おい怜! 行くんだろっ、怜?」
 自分から言ったくせに、立ち止まったまま動こうとしない友人に、中井がほとほと呆れた声を上げていた。

 ***

『あっ』
 しまった、と思ったときには遅かった。トレイの上のカップが、ソーサーからずるりと嫌な具合にずれた。まずい。
 直そうとしてバランスが崩れた。慣れない手つきのせいか、何も上手くいかず、カップはトレイから落ちてしまった。
 がちゃん、という嫌な音が店内に響き渡る。
 店の中は水を打ったように静まり返った。
『す──すみません』
 しんとした空間に、怜の声だけが響いた。
 置こうとしたテーブルの角に当たり、カップは割れコーヒーが飛び散っている。怜のエプロンはもちろん、テーブルの上にも。
 広げられたノートと書類のようなものが茶色い液に浸っていて、怜の頭からざあ、と血の気が引いた。
『すぐ、拭きます』
 広がっていく染みに冷や汗が流れる。
 早く拭かないと。
 怜は咄嗟にエプロンを外し、濡れたテーブルを拭こうとした。
『大丈夫』
 その声にはっと顔を上げると、こちらを見上げている目と視線がぶつかった。若い男。きっと自分とはそう年も変わらないくらいの。
『そんなことしたらエプロン駄目になるから』
 柔らかく笑う彼は怜の腕を軽く掴んでいた。
 シャツを通して彼の体温が伝わる。
『や、でも』
『大丈夫』
 大したことないですから、と彼は怜の目を見ていた。
『それより、火傷しませんでしたか?』
『──』
 白い紙に染み込んでいくコーヒーの広がり。
 それが逸巳との最初の出会いだった。


 ロッカーを開けると金属の扉がぎい、と軋んだ。今ではすっかり怜専用のロッカーになってしまったそこに、鞄を入れる。制服を取り出そうとして、自然とそこに目がいってしまった。
 ロッカーの棚に置かれた畳んだ白いエプロン。うっすらと茶色く色がついている。
 あのときのものだ。
 落としたカップから零れたコーヒー。
 逸巳を──怜がここに来る前から常連だった逸巳の顔を、初めてまともに見たのはあの日が初めてだった。バイトを始めて二週間目、ようやく慣れてきたと自分で思っていたのだ。思っていたのに。
「……」
『本当に大丈夫ですよ』
 冷や汗をかきながら片付けを終え、淹れ直したコーヒーを持って行くと、逸巳は重ねてそう言った。
 気にしないで、と。
 気にしないで。
 そしてまともに会話をしたのはその一度きりだった。
「…先輩」
 逸巳はそれからも月に二、三度は来ていたのに。
 どうしてもっとコミュニケーションを取らなかったのだろう。いつも挨拶程度にしか言葉を交わさなかった自分がどうしようもない。
「おーい後藤?」
「あ、はい」
「おお」
 返事をしたと同時にドアが開き、店長が顔を出した。
「悪い、もう入ってくれるか? 今日忙しいわ」
「うす」
 持ったままだったシャツに着替え、エプロンを首に掛けた。今ではもうすっかり手慣れた仕草で腰ひもをぐるりと巻きながら部屋を出る。客席から聞こえてくるいくつもの笑い声。キッチンの中はなるほど戦場のようで、いつにも増して荒れている。洗い物の溜まったシンク、盛り付け途中の皿。狭いそこを足早に抜けながら紐をきゅっと結び終えると、怜はカウンターに入った。待っていたように入り口のチャイムが鳴る。入って来た客にいらっしゃいませ、と挨拶をした。
 
 ***

 がちゃりとドアが開いた。
「逸巳、時間」
 そう言われて顔を上げ、逸巳は頷いた。
 時計を見ると十七時になるところだった。
 もうそんな時間か。
「ありがと、いつも悪い」
「今更?」
 可笑しそうに笑いながら寺山はテーブルにカップを置いた。
 甘い匂い。
 向かいに座る寺山を見ながら、逸巳はカップを手に取った。
 柔らかな湯気が立ち昇るそれに口をつけ、ゆっくり飲む。甘く重たいココアが、エアコンで冷えた体に落ちていく。
「おいし」
 温かさにほっとため息が漏れると、寺山が肩を竦めた。
「好きだなそれ? 甘いもの食わねえのに」
「うん」
 コーヒーはブラックが好きだし、お菓子もそれほど口にしない。でもココアは好きだ。好きだけど、家では飲めない。
「これ飲んだら行くよ」
「ああ」
 寺山は頷いて制服のネクタイを緩め、無造作に外した。そのまま自分のベッドに放り投げるのを見て逸巳は笑った。
「皺になる」
「いいだろ、俺のだし、俺の部屋だし」
「そうだけど」
 そう、ここは寺山の自宅だった。高校からほど近い場所にあるマンション。放課後、よく逸巳はここで時間を潰していた。
 塾に行くまであと少し。
 テーブルの上の本を、寺山がぱらりと捲った。
「今日はあの店行くと思ってたけど」
「え?」
 言い当てられて逸巳はどきりとした。
 そう。
 本当は行くつもりだった。
「今日あいつと話してただろ」
 寺山が視線を上げる。合わさったそれに逸巳はふと息を止めた。
「……」
 あいつ。
 きっと怜のことだ。
 開いていた本を、寺山は音を立てて閉じた。
「あいつの噂知ってるか」
「噂?」
「女を取り換え引っかえ、やりたい放題だって」
「……」
「悪い噂もヤバい話もあるし」
 たしかに怜はモテるだろう。人の注目を引く容姿、そこにいるだけで視線を集める雰囲気がある。華やかなそれは、生まれ持ったものだ。異性なら彼を放ってはおかないだろう。
 でも。
「それに──」
「それ、僕に関係ないだろ」
 なお言い募ろうとした寺山の言葉を、やんわりと逸巳は遮った。寺山は顔を顰める。
「ろくな奴じゃないって言ってるんだよ」
「そう?」
 本当にそうだろうか?
 逸巳は言った。
「でも寺山は話したことないだろ?」
「話さなくてもわかる」
 切って捨てるように言い、寺山は逸巳のカップを取った。ひと口飲んで思いきり顔を顰める。甘いのが苦手なのに、彼はいつもひと口だけ飲んでは心底やめておけばよかったみたいな顔をするのが可笑しい。
「あいつと関わるなよ」
 鞄から水のペットボトルを取り出して寺山はキャップを開けた。口直しとばかりに煽る姿に逸巳は笑った。
「嫌なら飲まなきゃいいのに」
「おまえが旨そうに飲むから」
「それ、いつも言うね」
 残りを飲み干して、逸巳はテーブルの上の荷物を纏め、本を取った。
 そろそろ時間だ。
「じゃあまた明日」
 軽く手を上げ、逸巳は寺山の部屋を出た。
 共働きだという寺山の両親は留守で、リビングには小学生の弟がいる。テレビを見ているのだろう、逸巳が顔を出すと彼は気づいてぱっと振り返り、帰るの?と言った。
「うん、またね」
「またねー」
 玄関を出てドアを閉める。生温かい風、知らずため息が零れたのはなぜだろう。
 本当に行けばよかった。
「どうしようかな…」
 ぽつりと独り言を漏らして逸巳は歩き出した。


 最後の客が帰り、怜は表の看板を仕舞った。生ぬるい空気に、エアコンに慣れた体から途端に汗が出る。それにうんざりしてすぐに中に戻り、入り口に鍵をかけた。
「後藤、飯どうする?」
 テーブルを片付けていた店長が怜に言った。言われてはじめて空腹を覚える。忙しすぎて腹が減っていることにも気がついていなかった。
「食って帰るだろ?」
「はい」
「適当でいいよな、なんか作るわ」
「あざす」
 キッチンに戻る店長に代わり、怜は立てかけてあったモップを手に取った。いつものように床を磨く。汚れていないように見えても案外汚れているもので、モップはすぐに真っ黒になった。モップの先端を外し、新しいものでまた床を拭く。
 掃除は好きだ。何も考えなくていい。
 ただ無心になれる時間だ。
 見た目は派手だと言われる怜だが、こういう地味な作業が一番好きだ。誰にも煩わされることがない。
「──」
 カン、とモップの先がテーブルの脚に当たり、怜は顔を上げた。窓際の席、ふたり用の小さなテーブル。逸巳が好んで座る場所だ。
 今日は、来なかったな。
(先輩…)
 いつも決まった曜日や時間に来るわけではないが、何となく今日は店に来るような気がしていたのに。
 同じ高校だと分かってから、前よりもずっと話すようになった。逸巳は口数こそ少ないけれど、怜が話しかければそれ以上のものを返してくれる。だから、話したいと思っていた。もっといろんなことを。だが学校の中では周りの目がある。怜は気にしないが、逸巳に迷惑はかけたくない。
 自分がいい印象を持たれていないことは十分に分かっていた。昼間の逸巳の友人のように、明らかな敵意を向けられることもよくあることだった。
 今、何をしているのだろう。
 塾だったんだろうか。
 話したい、逸巳と。
 こんなにも特定の誰かと話したいと思うのは生まれて初めてだった。
 出来ればずっと。
「おい?」
 はっと怜は振り向いた。カウンターの向こうから店長が顔を出してスプーンを振っていた。
「出来たぞ即席カレー」
「あ──はい」
 気付けばカレーの匂いが店中に広がっている。空腹を刺激するその香りに思わず腹が鳴った。
「ほら早く食え」
「うす」
 モップを片付けようとして、怜の手が止まった。
「っ、──」
「おい?」
 慌てて入り口に向かう怜の背に店長の声がぶつかる。ドアを勢いよく開け外に飛び出した。
「どうした? 客か?」
「いや…あの」
 周囲をぐるりと見渡して怜は答えた。
 誰もいない。
 今、確かにいたのに。
 窓の外に逸巳の姿が見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「……」
 会いたいと思うから、だからそう見えただけなのか。
「後藤?」
「あ──はい」
 怪訝そうに呼ばれて怜は振り返り、店の中に返事をした。
 やっぱり、見間違いか…
 目の前には暗がりだけ。
 人のいる気配はない。
 それでももう一度周りを見回してから、怜は店の中に戻った。
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