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しおりを挟む教室の机の上で、取り出していたスマホの画面が明るくなって覗き込むと、メッセージの新着だった。
「…あ」
怜からだ。
通知だけ見てアプリを開くかどうか悩む。見れば読んだことが怜に伝わってしまう。
でも一体、何を返せばいいか分からないのだ。
『今日、店に来る?』
行きたい。
でも、行けば返事をしなければならない。
『先輩が、……すきで』
『俺と…付き合ってください』
思いもしなかった。
後藤くんが──僕を。
同じ男なのに。
『男、…だけど』
『関係ない』
そう言った怜の眼差しは真剣だった。
冗談や揶揄いは何もなく、ただじっと逸巳を見つめていた。
(僕のことが、すきだから…)
だから…
抱き締めてくれたときの感触がまだ残っている。
背中を撫でる大きな手のひら。
自分のものとはまるで違う体。
マリオンで逸巳の体を触ってきた男の手はぞっとするほど嫌だったのに、怜は平気だった。
「……」
店に行きたい。でも、行けない。
会えないのは寂しかった。
あれからずっとメッセージが絶えない。そのどれもに既読だけ付けて返せないでいる。同じ場所にいるのに顔を合わせそうな所へは二の足を踏んでしまう。
もし、廊下の向こうから怜が来たら?
もしその角を曲がって、怜がいたら?
そんな自分が情けなくて仕方がない。
避けているわけでは、ないのだ。
ただ…
怜は、自分の何がよかったのだろう。
考えてもわからない。
分からないまま一日が過ぎ、二日が過ぎ、今日で三日目になっていた。
どうしよう…、本当に。
「三沢」
教室の入り口から顔を覗かせた担任が逸巳を呼んだ。
「──はい」
「ちょっといいか」
逸巳は立ち上がり、手の中のスマホをポケットに落とた。あと少しで次の授業だというのに、なんだろう。
「なんですか」
「悪い、これ頼んでいいか」
担任の手には何かのリストがあった。
「何ですか?」
「コピー室行ってこれ探してきてくれ」
「…授業、始まりますけど」
「米沢先生には言ってあるから。じゃ、頼むな!」
「……」
最初から頷くと思われているのが何とも言えない気持ちだ。だが、どうしようもない。仕方なく逸巳は頷き、担任からリストを受け取った。
***
「……」
送ったメッセージは、既読にならなかった。
あれから三日、逸巳とは顔を合わせていない。送ればきちんと返って来ていた返事も既読が付くだけで返って来なくなった。
「………どう」
どうしよう。
完全に避けられている。
店にも来ない。
この三日、いつもなら顔を出す時間になっても逸巳は現れなかった。塾の前後、ひとりでどこにいるのか。怜に会いたくないからと家に帰っていればいい。でも。
でも。
その先を考えだしたら止まらなくなり、怜は店長の誘いも断って閉店すると店をすぐに後にした。どこの塾に行っているのか聞いておくべきだったと後悔しながら、駅で逸巳の姿を探した。
自分でも無駄なことをしていると思う。あてなどないのに。だが落ち着かない気持ちを紛らわせるにはその方法しかなくて──結局、当然のように逸巳には会えなかった。
「なにしてんだ俺は…」
怖がらせたに違いない。
男に触られて怖がっていたのに、男に好きだと言われて。
怜が帰った後、冷静になった逸巳が怜を避けるのは当たり前だと思った。そう思うと会いには行けなかった。家も知っている、でも行けない。同じ場所にいるのに、教室に行くことも出来ない。
もう一度スマホを開くが、さっきと画面は変わらない。休み時間を狙って送ったが、授業が始まって気づいてないだけ。きっと、あの人は怜のようにスマホを弄らないから──
でも、もしも、このままになったら?
「──」
避けられているだけならまだいい。
避けられているだけなら。
だが、逸巳に嫌われてしまったら。
あの目で、嫌いだと言われたら。
すうっと後頭部が冷たくなった。
「……い、てぇ」
考えただけで心臓がぎりぎりと痛む。苦しくて息が出来ない。どうしよう、嫌われてしまったら。
今まで散々色んな女に好きだと言われ、そのたびに冷たくあしらってきた。あんなふうに、逸巳に言われたら、もう立ち直れない気がする。
今まで散々いろんな女に繰り返してきたことを思い出して怜は苦しくなった。彼女たちも同じような思いをしたんだろうか。怜にあしざまに言われて、傷ついたのか。
こんなに苦しかった?
「何やってんだおまえ」
すぐそばで中井の声がした。ゆっくりと顔を上げると、顰めた顔で中井が怜を見下ろしていた。
いつの間に来たのか、気づかなかった。
「…んでここにいんだよ」
「捜して来いって言われたのー。佐竹の奴いい加減苛ついてっぞ」
「勝手にさせとけよ」
佐竹とは怜の嫌う数学教師のことだ。今の時間教室では数学の授業が行われている。そして怜はいつものように授業を投げ出した。
「おまえなあ…、そうやって逃げてても印象悪くなるだけだぞ」
「今更だろ」
中井は呆れたようにため息をついた。
「…しょうがねえ奴」
準備室の中を中井はぐるりと見渡した。怜がいつもここにいることを中井は随分前から知っていた。おそらく教師も分かっていて、中井を寄こしたのだ。
「ここ居心地いいな」
棚に積まれたよく分からないものを中井は摘まんでは戻しを繰り返している。
「…なあ」
と怜が呼びかけると、中井は指先の埃を払いながら振り返った。
「ん?」
「おまえさ、あの彼女と上手くいってんの?」
え、と中井が目を丸くした。
「なに、急に」
窺うように見られ、気まずさに怜は目を逸らした。
何聞いてんだ俺は。
「好きなやつでも出来たわけ?」
「──」
不意打ちに思わず息を詰めると、えっ!? と中井が声を上げた。
「マジかよ」
「うるさい」
「誰!? 告白っ! 告白したか?!」
「…ああ」
怜は立ち上がり、驚いている中井の横を抜けた。
「え、それでっ? それで──」
「知らねえ」
「え」
怜はそれだけ言うと、中井を残して準備室を出た。
教室に戻る気などさらさらなく、思いついたまま、足は自然と目の前の階段を下りていた。
リストを持って教室を出ると、すぐにチャイムが鳴った。教室ではもう授業は始まっていて、皆静かに教科書を開いている頃だ。
一度教員室に寄って、コピー室の鍵を受け取る。リストと一緒に渡してくれればこんな手間はないのに、担任は軽く取りに行って来て、とだけ言ってさっさと他のクラスの授業に行ってしまったのだ。
「ほんと、江島先生にも困ったもんだね」
事情を話すと、女性教師は渋い顔をしながら鍵を渡してくれた。頷くわけにもいかないので、逸巳は笑みだけを返して教員室を後にした。
「ありがとうございました」
「もうお使いとかしなくていいからね」
お使い、という言葉に逸巳は苦笑した。
確かにそうかもしれない。担任はいつも逸巳に声を掛けてくる。きっと文句を言わないから、扱いやすいのだろう。昔からよく親にもそう言われていた。
鍵とリストを手に、逸巳は新校舎に戻った。授業の気配のする教室の前の廊下を避け、奥の階段から二階に上がる。
しんとした廊下をゆっくり進む。この階には誰もいない。
リストに目を通しながら、コピー室の鍵を取り出した。
一体何を探せというのか。担任の字で書かれた一覧の中には、どうやら先日逸巳がコピーしたものも含まれていた。
大方失くしたか、足りなかったかなのだろう。
「…しょうがないな」
思わず呟きが漏れる。
鍵を開け扉を引いた逸巳は、入ろうとして、何気なく後ろを振り向いた。
何かがあったわけではない。
ただ、気配が。
誰かの──
「ご…」
後藤くん、と声が掠れた。
渡り廊下からの入り口に、怜が立っていた。
長い前髪に隠れた目が驚きで見開かれている。
「先輩」
どうしよう。
「なんで、今、授業は」
どうしよう。
声が震える。
「先輩こそ、なんで?」
「僕は…、用があって」
怜は開いた扉の中を首を傾けて眺めた。
「なんで先輩が?」
「担任に頼まれたんだ。いつも頼まれるから」
怜はまっすぐにこちらを見ていた。それだけで体温が上がり、立っていられなくなるような気がして逸巳は背を向けた。
「それじゃ、急ぐから…」
「待って」
扉を引こうとした瞬間、その手を掴まれて逸巳は振り向いた。驚くほど近くに怜の顔がある。
「待って、先輩」
「っ、後藤く…っ」
そのままコピー室に押し込まれ扉を閉められる。固い金属音、勢いのまま奥の壁に押し付けられて、逸巳はぎゅっと身を竦めた。
「先輩…」
掠れた怜の声に、逸巳は目を上げた。
明かりをつけないままの部屋の中は薄暗く、ひんやりとしている。
暗がりの中、怜は苦し気な顔で逸巳を見下ろしていた。
「…なんで、逃げないでよ」
「逃げて、ない」
「じゃあなんで背中向けるの」
壁に当たった背中が冷たい。けれど掴まれた肩は熱く、燃えるようだ。怜の手のひらが熱い。
「俺が、嫌い?」
「ちが」
「俺のこと嫌いになった?」
「そんなわけ…」
そんなわけない。
こんなに体中が燃えるように熱いのに。
「じゃあなんで…っ、三日も…」
端正な怜の顔が歪む。彼の長い髪が逸巳の頬を掠めた。
「返事、してよ」
小さく呟き、怜は逸巳の肩に額を擦り付けた。
「避けないで…」
「…ん」
避けていたわけじゃない。そんなつもりじゃなくて…ただ、本当にどうしたらいいか分からなかった。
逸巳は怜の髪に手を伸ばし、そっと撫でた。怜があのときしてくれたのと同じように。気づいた怜が顔を上げる。長いその前髪を分け目元に指で触れると、そこはかすかに濡れていた。綺麗な形の瞼が逸巳を見つめたまま瞬いた。
「俺が、気持ち悪くない?」
「…ないよ」
「俺を…嫌いじゃない?」
逸巳も瞬きを返した。
「嫌いじゃ、ない」
「本当に? …じゃあ」
首筋に響く声にびくりと体が反応する。
怜の腕が逸巳の背骨を辿り、逸巳の腰を抱いた。
「もう、逃げない…?」
目を伏せた怜がゆっくりと顔を近づけてくる。
逸巳も目を閉じた。
逃げない、と返事をしたつもりの声は、合わせた怜の唇に奪われ、くぐもった呻きでしかなくなってしまった。
「ん…」
先輩、と角度を変えられる。
壁に当たる肩。
仰け反った後頭部を包む怜の大きな手のひら。
抱き込まれ、熱い舌に脳が溶けていく。
「…ん、…っ」
「好き…、好き」
ああ、そうだ。
僕も、そうだ。
怜が。
思うよりもずっと優しいキスをされながら、逸巳は怜が好きだと初めて自覚していた。
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