明けの星の境界線

宇土為名

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 それは夢だとすぐに分かった。
 逸巳は狭い部屋の中にいた。
 椅子に座る身体の半分に、ぴったりと張り付いている他人の体温。本当はひとり用なのに、無理矢理ふたりで座っている。
 暗くて見えない顔。
 肩を抱く手。
 どこかよく聴き慣れた声のような気がするのは気のせいか。
『ほらこれ』
 真正面にある画面を男は指差した。
『きみが代わりに教えてくれるんだろ?』
 代わり?
 そうだ。困っていた女の子を助けて、自分が代わりになると言ったのだ。
 これはあのときの記憶だ。
 その夢を見ている。
『ほら、──逸巳』
『──』
 どうして名前を知っているのだろう。
 あの男は知らないはずだ。
 ぎくりと逸巳は強張った。真っ黒に塗り潰された男の顔が、今一瞬誰かと重なった。
 ──誰?
 男の手が体中を這いまわる。
 段々と荒くなる息遣い。押しのけようとするたびにいいのかと問われる。
『や…』
 止まらない男の手は、どんどん際どいところに近づいていく。冷や汗が背中を伝う。
 どうしてこんな夢を──今更。
 甦る生々しい感触。まるで今そうされているかのようだ。
 帰りたい。
 もうここから出たい。
『逸巳』
 逸巳の体を這いまわる手が、服の隙間から肌に触れてきた。
 嫌だともがく体を上から抑え込まれ、息が出来ない。
『おまえが悪いんだよ』
 ああ。
 ああそうだ。
 男の目的に気づかなかった自分が馬鹿だったのだ。
 夢と現実が混じり合った続きの世界、もしもあのとき店を飛び出していなかったらこれが現実になっていた。
 嫌だ。
 嫌だ…嫌だ。
 あの瞬間に引き戻されるのはもう。
「い、…」
 固く閉じた目の奥に怜の姿が浮かぶ。
『先輩』
 怜に言えなかったことはたくさんある。
『大丈夫』
 全然、大丈夫なんかじゃなかった。
 どうしてちゃんと言わなかったんだろう。
「…れい、」
 もう大丈夫。
 抱き締められそう繰り返された言葉は、魔法のようだった。
「…れい」
 暗い陰の中から何度も名前を呼ぶ。
 怜、…怜。
「…て、…」
 助けて、と言葉が零れた。
 助けて。
 怜になら、何をされてもいい。
 この心ごと全部あげるのに。
 男の携帯が鳴り、そこで逸巳は目を覚ました。


「──、」
 目を開けるとそこは暗闇の中だった。
 一瞬、自分がどこにいるのか分からない。
 ここは?
 ぼんやりとした記憶、まだ夢の続きなんだろうか。
 ひどい夢を見ていた。
 額に触れると、汗を掻いていた。ひやりとした自分の手の感触でこれは現実だと思えた。
 深く息を吐き出して、ゆっくりと逸巳は視線を動かした。暗闇に慣れてきた目に、部屋の中の輪郭がおぼろに浮かび上がる。見慣れたそれに、ああ、と逸巳は思った。
 そうだ、ここは…寺山の部屋だ。
 寺山の部屋にいて──話をしてて…
 それから、どうしたんだっけ?
 どこかで音がしている。
 低く唸るような音に、そういえばスマホをマナーモードにしていたと、ぼんやりと思い出した。
 スマホ、どこだろう?
 手探りで逸巳はベッドから起き上がった。やけに重怠い体を引きずり這うようにして抜け出す。床に手をついて辺りを見回せば、目の前のテーブルの下で、淡く光るスマホを見つけた。
 腕を伸ばし、逸巳は画面の通話ボタンを押した。
「…はい」
『逸巳さん?』
「…え?」
 相手が誰かなど見る余裕はなかった。
 聞こえてきた声は母親だった。
 ずきりと胸の奥が音を立てる。だがそんなことを知らない彼女は構わずに続けた。
『今…、どこにいるの?』

 ***

 自分がこれほどまでに衝動的に動く人間だとは思いもしなかった。
 夜も更けた住宅街、目の前の家を見上げながら怜はそう思った。
 明かりのない家はひっそりと静まり返っている。
 ここは逸巳の家だ。
 誰の気配もない。
「馬鹿か俺は…」
 どうしてここまで胸騒ぎがするのか分からない。
 店を出ても不安は消えなかった。
 駅までの道を歩く。繁華街の外れでも人通りは絶えず、見知らぬ人とすれ違う。怜の足取りは無意識に次第に速くなっていた。
 既読がついたままのメッセージが気になって何度も見返した。ホームで電車を待っている間、逸巳に通話を掛けたが繋がらなかった。メッセージをもう一度送ろうと思ったが、しつこいかとそれはやめた。
 二十二時前。
「……」
 いつもならどうということもない時間だ。怜はシー・クーで賄を出してもらうことが大抵だが、逸巳は塾の終わる今ぐらいが夕食の時間だった。それに付き合って怜も軽く食べたりする。だから、もしかしたら逸巳はその用の終わりにどこかで食事をしているのかもしれなかった。
 きっとそうだ。
 出ないのはただの偶然。
 やってきた電車に怜は乗り込んだ。並んでいた他の乗客たちについて行く。まばらに開いた席に座る気にはならなくて、ドアの傍に立った。
 反対側のホームに電車が入って来る。
 怜の家とは違う路線。あれは──
「──」
 気がつくと怜は車両を飛び出していた。ホームを走り短い階段を全力で下り、ホームへ駆け上がった。間に合うはずがない。だが電車は怜の予想を外れ、まだそこに停車していた。
「…つ、っ…」
 発車のベルが鳴り響く中、怜はその電車に飛び乗った。車内にいた乗客が一斉に驚いた顔で怜を見た。その背後でドアは閉まり、がたんと電車が動き出した。
 そうして怜は一度来た記憶を辿り、逸巳の家まで来てしまったのだが…
 人気のない家を見上げる。一階も二階も窓は暗かった。
 その気配のなさに、逸巳はまだ帰っていないと知る。
 深く、息を吐き出した。ここに来るまでずっと息を詰めていたようだ。
 ポケットを探りスマホを取り出した。相変わらず逸巳からは何の連絡もない。
 まだどこかをふらふらとしているんだろうか。
 まさかマリオンに行った、なんてことは──
「…いや、ねえだろ」
 いくら警戒心が薄い逸巳でも、先日あの男と再会したばかりの場所に行くとは思えない。それに、約束したのだ。絶対もう行かないと。
 だから違う。
 馬鹿だな、と独り言を呟き、怜は小さく首を振った。どうかしている。
「帰るか」
 踵を返しかけて、足を止めた。
 でも、ここで待っていたら──いずれ逸巳は帰って来る。
 ここが帰ってくる場所なのだから。
「…そうか」
 そこまで思い至って怜はかすかな苦笑を浮かべた。度の過ぎた心配も胸騒ぎも、全部、ただ逸巳に会いたいからだったのだろうか。
 会いたいから…ここまで来た。
 そうだ。
 それで、俺は。
「──」
 突然、怜は後ろを振り返った。
 暗がりに沈む家々。
 ひっそりと、夜が深くなる時間。
 ピリッとした空気を纏って、怜は自分の首筋を押さえた。
「誰かいるのか」
 薄暗い街灯の光が届かない向こう側に向かって、怜は声を上げた。
 誰かいる。
 項がひりつく。この感覚は、子供のときに得たものだ。視線は槍のように、この身を突き刺す凶器だ。
「誰かいんのかって言ってんだよ!」
 コツ、と足音がした。それはゆっくりと近づいてくる。
「うちの前で何の騒ぎですか」
 落ち着いた女の声がした。
 街灯の下、暗闇との境目から現れたのは、見覚えのある顔だ。
 一度だけ会った逸巳の母親。
「…あなた」
 怜を見て、彼女は言った。
「逸巳さんのお友達の…」
「後藤、です」
「ああ…、後藤さん」
 変わらない足取りで近づき、怜とすれ違う。小さな電子音がして振り向くと、彼女が家の門を押し開けるところだった。半分ほど開けたところで手を止め、怜を振り返る。
「逸巳さんは一緒じゃないんですか?」
 その視線を受け、怜は一瞬戸惑った。
 この母親に何を言えばいいか躊躇う。
「今日は違います」
「そうですか」
「…帰ってないみたいで、連絡もつかない」
「そう」
 その言い方に怜はかすかな苛立ちを覚えた。
「心配じゃねえのかよあんた」
 つと彼女は怜に視線を寄こす。
 冷めた目だ。
 血の繋がりはないと言っていた。たしかにそうだと思う。
「あの人が家に帰らねえのはあんたのせいじゃ──」
「とにかく、どうぞ」
 母親は門を押さえたまま怜をじっと見上げた。
「こんな時間に外で話すのは迷惑ですから」
 さあ、と有無を言わせない口調で促され、怜は門をくぐった。玄関に向かう背中に、再びがちゃん、と錠の下ろされる音が聞こえる。
「どうぞ上がってください」
 玄関を開けた彼女が先に入り、明かりをつけた。眩しい光が外に漏れ、闇の中に線を引く。
 怜は中に入り、扉を閉めようとした。
「──」
 外を振り返る。
「どうかしました?」
「…や、ちょっと」
 なんでもない、と言って逸巳の母親を見下ろした。
 違う。
 この人じゃない。
 さっき感じた視線は、彼女ではなかった。
 もっと、別の…
「何かいるの?」
「……」
「あの?」
「…何も」
 もう気配は消えている。
 気のせいだったのかもしれない。
 そうだ。
 そんなはずはないと言い聞かせた。
 それにもう、子供じゃない。
 あの頃とは違うのだ。
「誰もいない」
 そう言って怜は音を立てて扉を閉めた。


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