明けの星の境界線

宇土為名

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 夏の夜だというのに、家の中は冷たかった。
 まるで冬のように。
「どうぞ」
 リビングに通された怜は、部屋の中を見回した。広いわりに物があまりない。殺風景と言ってもいいほどに。
 怜の家はもっと色んなものがごちゃごちゃと飾り立てられていてそれが嫌でたまらなかったが、ここまで物がないというのも、却ってひどく落ち着かなくなる。
「何か飲みますか?」
 リビングと繋がっているキッチンから尋ねられ、怜は首を振った。喉は乾いているはずなのに欲しくはない。そう、と彼女は言い、冷蔵庫を開け水のペットボトルを取り出した。直接口をつけずグラスに注ぎ入れる。そういったことに手慣れているのだろうか、動きはゆったりとしていて、無駄がなかった。
「連絡がないんですか?」
 急に訊かれ怜は咄嗟に頷いた。
 彼女は何かを考えるように目を動かし、グラスに口を付けぐい、と煽った。
「今日は塾の日のはずだけど」
「…え?」
「やっぱり行ってないのね」
 一気に飲み干し、対面式のキッチンの作業スペースにグラスを置いた。かたん、と乾いた音が静かな部屋に響き渡る。
「先輩は──」
「先輩?」
 目を向けられて怜ははっとした。そうだ。このあいだ初めて会ったとき母親には友人と──同じ塾の友人だと言っていたのだ。
「…高校の後輩だから」
「そう」
 口にしてしまったものは仕方がない。言った自分に呆れつつ怜が答えると、彼女はやっぱり、というふうに小さく頷いた。
「そうじゃないかと思ってたけど」
 置いたグラスを再び持ち、ため息交じりに水を飲もうとした彼女は口をつける寸前、中身がもう入っていないことに気づいた。
「毎日ある塾なんておかしいわよね」
 グラスにもう一杯水を注いだ。自嘲気味に笑うその姿にほんの少し違和感が混じる。最初の印象とは違う逸巳の母親。
 義理の。
 ねえ、と彼女は言った。
「私がいるから帰れないって言ったわよね?」
「……言ったけど」
「ふうん」
「…──」
 ああ。
 ああそうか、と怜は思い当たった。
 この違和感は口調だ。
 最初は丁寧な敬語だったのに、今は砕けた喋り方をしている。きっとこちらの方が素なのだろう。
 それとも無意識なのか。
「色々、気付いてたのかしら」
「…気付いてた?」
 俯いていた彼女が顔を上げた。不意をつかれ驚いているような様子に、今のは完全に独り言だったのだと怜は思った。
「気付いてたってなんだよ」
 赤い唇を引き結んだ彼女を、怜は改めてじっくりと見た。母親と呼ぶには若すぎる姿。もともと逸巳の父親の恋人だったと聞いていたが、どう見ても三十代だ。いや、と怜は目を眇める。もしかしたらもっと──薄く見せてはいるが目元の濃い化粧を取れば、彼女はまだ二十代後半に見えるかもしれない。
 自分とそう歳の違わない義理の母親。
 帰りたがらない息子。
 父親は今別の場所で暮らしていると言っていた。
 ふたりきりの家の中。
 塾に行っていると誤魔化してまでその時間を減らしている…
 なんとなく想像がついて、怜は嫌な気持ちになった。
「先輩に何したんだあんた」
「何もしてないわ」
「しようとしたんじゃないのかよ」
 彼女の目尻が吊り上がった。
「あの子がそう言ったの?」
「言ってねえよ。俺がそう思っただけだ」
「じゃあ──」
「普通に帰って来ねえのがその証拠だろ」
「そ…、っ」
 返す言葉を探すように彼女の唇が薄く開く。それはかすかに震えていた。
「俺も似たようなことされたことあるからな、分かるんだよ」
「……」
「相手はさすがに母親じゃねえけど」
 人前に出ることが当たり前だった日常の中で、怜は見知らぬ人間に触れられた。
 暑い夏の日。
 まだ子供だった。何の力もなく、ほんのわずかな油断の隙をつかれてしまった。幸い大声を出して大事にはならず未遂だったけれど、その女から逃げる途中吐き気と眩暈が止まらなかった。
 照りつける太陽の容赦ない日差し。足元に落ちる濃い自分の影。ふらふらと人混みを避けるように歩いていた。本当は人の多いところに行かなければ駄目なのに、日陰のある路地に入りたくてたまらなかった。
 乾いた喉。
 朦朧とする。
 捕まるかもしれない恐怖と戦うが、それでも日の差さない場所に行きたかった。
 地面にくっきりと引かれたあの境界線。
 光と影の境目を越えて、向こうに行きたい。
 もう誰にも見られたくない。
 誰にも。
 逃げ込んだ場所で体を丸めて蹲った。誰かが近づいてくる気配に怜は身を固くした。見つからないように──見つかりませんように。
 どうか。
 どうか。
『大丈夫?』
 すぐ傍まで来た気配がそう言った。子供の声だ。構わないで欲しい。あっちへ行って欲しくて膝を抱えたまま首を振ると、子供はすぐに離れて行った。
 急に寂しくなった。
 追いかければよかったと思った。
 顔を上げて助けてと、そう言えばよかったのに。
 誰かの気配がまたする。
 小さな足音。
『大丈夫?』
 冷たいものが手に当たった。
『飲むといいって、おかあさんが』
 目を開けるとそれはペットボトルだった。スポーツドリンクだ。冷えたそれは熱い空気の中で小さな水滴を纏っている。
 ごくりと喉が鳴った。
 冷たく滴るもの。
 飲みたい。
『──…』
『もう大丈夫だよ』
 怜は顔を上げた。自分と同じくらいの子供が路地の向こうから差し込む夏の光を背に、こちらを見下ろしていた。
 嫌な記憶だが、懐かしい思い出。
 怜は知らず拳を握りしめていた。
「最低だなあんた」
「……」
 嫌そうに頬を顰め、ふいと彼女は顔を逸らした。
「ちょっと揶揄ってやっただけじゃない」
「は?」
「私だって寂しかったのよ、あの人は栄転だとかで単身赴任しちゃうし、結婚できたのにすぐほったらかされてあんな子供押し付けられて──いいじゃないちょっとくらい! 顔タイプだったし、どうせあの子奥手だからこの先経験なんて──」
「ッ、ふざけんなよてめえ!」
 身勝手極まりない言い分に腹の底が燃え上がる。掴みかかりたいのを怜は必死で抑え込んだ。びりびりと壁に反射する自分の声。怒りで頭がぐらぐらする。
 彼女は小さく肩を震わせたが、目を吊り上げたまま怜を睨み返してきた。
「ちょっとって言ってるでしょ、一度だけよ」
 それもほんの少し体を寄せただけ。
 耳元でちょっと囁いただけ。
「よっぽどびっくりしたのかあの子馬鹿みたいに真っ赤になって、すぐに逃げちゃったから何もしてないのと同じよ」
「同じってなんだよ、そんなのしてるも同じなんだよ!」
「やめてよ」
 怒鳴る怜に頬を歪めて彼女は笑った。
「あなただって女の子と経験がないわけじゃないでしょ? 綺麗な顔してるし、モテるでしょ。こんなの何でもないことじゃない? あなただって同じことを女の子にしてる」
「は? するかよ」
「そう? 面倒だからって欲を満たして捨ててるって顔に書いてあるわよ?」
「──、っ俺は」
「女なんてどうでもいいと思ってる」
「──」
「図星だった?」
 怜は奥歯を噛みしめた。
「自分ばかりが被害者だと思わないでよ」
 彼女は飲んだグラスを洗った。しんとした部屋に水の音だけが流れる。
 洗い終わったグラスを彼女は洗い篭の中に伏せた。中には何も入っていない。
「あなた、あの子の友達?」
「…え?」
 俯いていた顔を彼女はゆっくりと上げた。
「それだけでこんなところまで来ないでしょ」
 ただ連絡が付かないだけで、わざわざこんな時間に家を訪ねたりはしない。
 友人なら。
 ただの友人なら、明日また連絡をすればいいだけのことだ。
「あの子が好きなの?」
 真正面から見返されて怜は言葉に詰まった。だが彼女の目には揶揄いも何もなく、ただじっと怜に注がれていた。
「…好きだよ」
「そう」
 対して興味もなさそうに呟くと、彼女は手を拭いて傍に置いてあった小さなバッグを手にした。
「私また出るから、あなたここで待ってたら?」
 え、と怜は言った。
「出るって…どこに」
「仕事よ。着替えを取りに来ただけだし。後片付けと、あとは準備とか色々」
「準備って…?」
 仕事は大体察しがついたが敢えて口にしなかった。違うかもしれないが、彼女も言わなかった。
「ここを出るの、私」
 バッグから取り出した携帯をちらりと見て彼女はまた仕舞った。
 出る?
「明弘さんのところに行くのよ。あ、あの子の父親ね。引っ越してやっと一緒に住むのよ」
「引っ越し──先輩も」
「まさか」
 青くなった怜を見て、彼女は可笑しそうに言った。
「そんなわけないでしょ。あの子の大学進学を機に、夫婦が一緒に暮らすってだけのことよ」
 そこにあんな大きな子供は要らないと彼女は笑った。
「だからもう何もないわよ」
「あってたまるかよ」
 テーブルの上に彼女は鍵を置いた。
 リビングを出て行こうとして、振り返る。
「あなた、昔雑誌に出てたわよね?」
 嫌なことを言う女だと怜は顔を顰めた。
「…忘れた」
「見覚えがあったから調べてみたけど。名前、本名だとは思わなかったわ」
 かすかな笑いを残して今度こそ彼女はドアを閉めた。

 ***

 どこにいるの、と言う母親の声に、逸巳は一瞬どこだか分からなくなる。
 もう一度辺りを見回した。見覚えがある部屋。
 やはりここは寺山の部屋だ。
「友達の家で…、寝てしまったみたいです」
『そうなの?』
 応えながら見た壁の時計は午前一時を回っていた。最後の記憶は二十時ごろで、あれからもう五時間が過ぎている。
 そんなに、眠ってしまったんだろうか。
 どうして…
『帰って来れそう?』
「…え?」
『帰って来れるの?』
 いつもとどこか違う彼女の口調に、逸巳は額を押さえた。なんだろう。彼女とは──義理の母親の位知花いちかとはいつも距離があった。それは逸巳が置いた距離だったが、いつしか彼女はそれに呼応するように逸巳と同じように敬語で話していたのだ。
 それが今はない。
「…わからない」
 寺山の姿がない。
 家のどこか別の場所で寝ているのだろうか。
『タクシーを送るから、住所を言ってくれる?』
「タクシー…?」
『ずっとそこにいるわけには行かないでしょう?』
「そう、…ですね」
 逸巳は位知花に寺山のマンションの住所を言った。うろ覚えだったが、マンション名を言うとそれで十分だと位知花は通話を切った。
「……」
 何だったのだろう?
 戸惑いつつも逸巳はゆっくりと立ち上がった。少しふらつくが大丈夫そうだ。部屋の隅にあった自分の荷物を引き寄せ、部屋を出ようとして、服が違うことに気がついた。
 見慣れないスウェットを着ている。大きさから寺山の物だと思った。
「…あれ、制服…?」
 どうしたんだっけ?
 なぜ…
 何かを零した記憶がぱっと頭に浮かんだ。そうだ。テーブルの上のコーヒーを零して、それで制服が汚れたから。
「どこに…」
 部屋を見回すと、ベッドの横の机の上にきちんと畳まれた制服があった。
 薄暗闇の中で逸巳はスウェットを脱ぎ、制服に着替えた。寺山が洗ってくれたのだろう。清潔な洗い立ての匂いがした。
 ゆっくりとドアを開け、廊下に出る。家中がしんと静まり返っていた。まるで、逸巳ひとりしかいないかのようだ。
 実際ひとりなのかもしれない。寺山の両親はいつもいないし、弟の光流も今日はたしかいなかったはずだ。
 かたん、と廊下の先で音がした。
 顔を上げるとほのかにドアの隙間から薄明かりが漏れている。
 誰かいる?
 寺山?
「あ、起きた?」
 ドアを開けると、ソファにいた光流が顔を上げた。
「…光流?」
「うん、めっちゃ寝てたね」
「え…?」
 今日は祖母の家にいるのではなかったのか。
「おばあちゃんの家は?」
「つまんないから帰ってきたのー。あそこゲーム出来ないもん」
 光流の手にはゲーム機のコントローラーが握られていた。テレビ画面にはゲームの映像が流れている。音がないのに気がつけば、光流の耳にはイヤホンが嵌められていた。
「…ひとりで?」
「そ! 楽勝だよ」
 勝ち誇ったように光流は笑った。
 逸巳はリビングを見回した。
「寺山は?」
「知らなーい」
 何でもないように言って、光流はコントローラーを操作した。
「逸巳くん寝てるからって言ってどっか行っちゃったよ?」
「そうなんだ…?」
 こんな夜に?
 一体どこに?
「逸巳くん帰るの?」
「あ──、うん…、でも」
 小学生ひとり置いて行くのは駄目だと逸巳はスマホを取り出した。母親にタクシーを断ってもらわなければ。
「帰って大丈夫だよ」
「でも光流ひとりだろ」
「へーき、ひとりのほうが好き勝手出来るし、兄ちゃんいないときもあったし」
「そうなのか?」
「うん、そだよ?」
 寺山が弟を置いて夜に出掛けるなどあまり想像がつかなかった。
 どうしたものかと躊躇していると、手にしたスマホが鳴った。知らない番号だが、おそらくタクシーだろう。出れば案の定マンションの入り口に着いたとの知らせだった。
「はい、すぐに」
 通話を切って振り返ると、何の電話か察したのだろう、光流はばいばいと手を振った。
「またね―逸巳くん!」
 玄関まで見送られる。ちゃんと鍵をかけて、と言うと光流は分かってると言い、ドアを閉めた逸巳の前でしっかりと鍵をかける音を聞かせてくれた。


「ありがとうございました」
 タクシーを降り、家の門を開けた。頭の芯の重さは随分と消えていた。ひどく疲れた。どうしてこんなに体が重いのだろう。
 記憶はまだぼんやりとしていて思い出せない。
 何か言い合っていたような気もする。もう一度眠れば思い出せるだろうか。
 光流はどうしてるだろう。押し切られて帰ってしまったが、やはり朝まで──せめて家族の誰かが帰ってくるまでいるべきだったのかもしれない。
 無意識に逸巳は後ろを振り返った。夜の闇は静かにそこにあるだけだ。
 玄関を開け中に入った。
 2階に上がろうとして、ふと、逸巳は足を止めた。
「……」
 なんだろう?
 廊下を歩き、リビングに行く。
 視線を巡らせて、目を見開いた。
 明かりの落ちた部屋の中、ソファの上に人影があった。位知花? いや、違う、
 彼女はこんなところでは眠らない。
「──」
 怜だ。
 怜がいる。
 どうして、家に──
「ご…」
 後藤くん、と言いかけて逸巳はやめた。
 ソファに足を上げ、膝を抱えるようにして怜は眠っていた。
 傍に行くと、静かな寝息が聞こえてくる。
 もしかして、待ってたんだろうか?
 スマホには怜からの着信が残されていた。タクシーに乗ってから気付いたが、遅いからと折り返さなかった。
 いつからここに?
 位知花が帰れと言ったのは、怜がいるのを知っていたからだろうか。
「……」
「…後藤くん?」
 小さく身を捩った怜に、逸巳は手を伸ばした。
 寝苦しいのだろうか。
 体を横たえれば、楽なのに。
「怜」
 ゆっくりと髪を撫でる。怜の髪は細く、さらさらとして気持ちがよかった。
 怜が目を開け、逸巳を見上げた。
「大丈夫?」
 ごめん、起こして。
 そう言おうとして、逸巳は言えなかった。
「──」
 その一瞬はスローモーションのようだった。
 気付けば、目を見開いた怜に息も出来ないほど強く抱き締められ、きつくソファに押し倒されていた。




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