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しおりを挟む『大丈夫ですか?』
振り向くとそこにいた。
こちらを見上げる目に、大丈夫です、と返す。何でもないことを大袈裟に取られたくはない。こんなことは何でもないことだ。誰にでも起こりうることだ。タイミングが悪かっただけ。そうだ。それだけだ。
『そうですか』
でも、と離れがたいように彼女は言った。声を掛けた手前、見捨てることが出来ないのだろう。
『…職場、すぐそこなので…気にしないで行ってください』
それは本当のことだ。あと少し歩けば見えてくる。さっさと行って欲しくてそう言うと、彼女はじゃあ、と言って離れて行った。
よかった。
こんなみじめな──姿。
せめて生徒でなくてよかったと思う。この道はバスの路線ではないし、駅から来る生徒はほぼ使わない路地だ。見られなくてよかった。何を噂されるか分かったものじゃない。
息を整え歩き出した。さっきの彼女の姿はもうどこにもない。もう二度と会うことはないのだ。ほっと胸を撫で下ろしつつ、路地を抜け、大きな交差点に出た。職場の学校はもうここを渡ればすぐだ。
ここから校門が見える。
顔を上げた瞬間、すうっと血の気が引いた。
『──』
校門に彼女がいた。
そのまま中に入って行く。
自分の考えの甘さに吐き気がしそうだ。
***
思いもかけないふたりきりに逸巳は戸惑っていた。
放課後、時間を貰ったのは、あの手紙のことを話そうと思ったからだ。
「ああ、沢渡先生か」
逸巳の思いなど知らず、江島は鍵を開けながらそう言った。
「なんだよ、…早く言ってくれればいいのに」
「……」
何をしているのかと問われ、事の顛末を話すと江島は面倒そうな笑みを浮かべた。言うも何もはじめからきちんと戻しておけばよかった話で、江島にそんなことを言う資格はない。
「三沢も大変だな」
逸巳を見て江島は口の端を上げた。かちりと音がして鍵が開く。扉は音もなくすっと横に動いた。コピー室の隣、何度か入ったことのあるそこは相変わらず雑然と物が置かれていて、片付けられた形跡はない。夏休みを利用して来年度に向けた改修の残りを行うと聞いた覚えがあるから、きっとそれまでこのままなのだろう。旧校舎のほうにもいくつかの教室が放置されたままだと聞くし、この学校の管理はとても緩いように思う。
「で、なんだっけ?」
「改訂現代史資料の…これです」
逸巳はかつてのクラスメイトから受け取った紙を江島に見せた。
「あーはいはい」
これね、と言って目の前の床の上に積まれた段ボールを江島は開けた。後ろから覗き見れば、乱雑に本が詰め込まれている。
これでは見つからないわけだ。
「あの人も生徒に頼まなきゃ授業も出来ないなんて大変だよな。定年だったのに戻ってくるのはナシだろ」
「そうですか?」
「昔の古臭い授業内容で今の受験は勝てないよ」
「僕は沢渡先生好きですけど」
「好き嫌いの問題じゃない」
「そ…」
そんなことはない、と言おうとして逸巳は自分を抑えた。
「急に呼び戻されてすぐいなくなると思ったのに、もう一年以上もいるのはさすがに勘弁して欲しいね」
言いながらこちらを振り返る江島の手つきは、段々と緩慢になっていた。
…急に?
沢渡が自ら望んで戻って来たわけではないのか。
「──」
呼び出されるには何かしらの理由があるはずだ。
定年退職した教師を頼らなければならないような、そんな何か。
例えば、急に人手が足りなくなる、とか…
一年前──
突然辞めた新任教師。
「…沢渡先生も突然で大変だったでしょうね?」
「あ? ああ、そうだな」
「辞めた先生の代わりに呼び戻されて」
江島は段ボールから出した紙の束を、傍にある別の段ボールの上に置いた。斜めに置かれたそれは、今にも落ちそうに見える。
「辞めた?」
「神田先生が辞めたのもちょうどそのころです」
ゆっくりと江島が振り向く。
「覚えてますか?」
振り向いた江島の目は表情がなかった。
白く顔色の悪い肌。
逸巳は覚悟を決めた。
「一年前、辞めてしまった先生です、──あなたのせいで」
静かな部屋に空調の音がやけに響く。
その手に持っていた本が床の上に落ちた。
移動した特別教室の中に逸巳の姿はなかった。さっき、教室を一緒に出たと思ったのだが…
どこに行ったんだ?
まさかはぐれたわけでもないだろう。
「──えー、この問いの…」
黒板の前に立った教師の話にだんだんと集中出来なくなってくる。
寺山は教室の入り口を見た。ぴたりと閉ざされたそこから、今にも逸巳が入ってくるような気がしたが、その気配は一向になかった。
***
あの手紙には二枚目があった。
一枚目は江島の手書きの文章だった。
──あいつを見ていることを知られていいのか
それは悪意だ。
二枚目に綴られていた文章を逸巳は思い出す。綺麗な女性の字でびっしりと書かれていた。
『突然ごめんなさい。
私の過去は過ちで、とても恥ずべき事です。謝っても許してもらえない。だからせめて影から見守ろうと心に決めて、この七年間、過ごしてきました。
後藤怜くんは私の生きる目的です。
彼の幸せだけを願っています。
彼があんなに笑うのをはじめて見ました。
あなたが傍にいてくれることを祈っています。
同封したものに書かれていた文字は、私を過去のことで脅してきた人のものです。
後藤くんの噂はすべてその人が発端になっています。あなたの身近にいる人です。神田さんを襲ったのは後藤くんじゃない。その人です。彼は私のように普通に生活をしています。光の向こう側にいて、毎日同じようにひっそりと生きています。
もしもあなたが気づいても、何も言わずに離れて下さい。
臆病者は影の中でしか爪を立てられない。
そこが安全だと知っているから。
光の中に引きずり出さぬよう、気をつけてください』
そして事の顛末が続いていた。
***
「なに、言ってんだおまえ」
江島は笑った。
逸巳は手を握りしめた。
放課後まで本当は待つべきだったかもしれない。怜の話を聞いてからと思っていた。確かなことは一方向からでは分からないものだ。それなのに。
早まってしまった。
あの手紙さえ、鞄に入れたままだ。
逸巳は唇を噛んだ。
ちゃんと持っているべきだった。だが、誰がこの状況になると予想しただろう?
誰にも分かるはずがない。
「知ってるんです、僕」
もう後戻りは出来ない。
江島の顔からすうっと表情が消えた。
「…は?」
「ある人から教えて貰いました」
顔色は紙のように白い。唇の端が奇妙な形に歪んだ。
「教えるって、なんだよ…」
「神田先生がなぜ辞めたのか」
は…っ、と江島は体を折り曲げて笑った。
「そりゃおまえ、あの後藤がやったからだろうが…!」
酸欠にでもなったかのように息継ぎが忙しない。白かった顔色は笑ったからか今度は真っ赤になり、空調が効いているにもかかわらず、こめかみから汗が流れだしていた。
「あいつが襲ったんだよ! おまえ知らないんだろう本当は! なんだよ、っ、出まかせも大概に…っ」
「後藤くんはやってません」
江島の声を遮って逸巳は声を上げた。
げらげらと笑っていた江島がぴたりと止まる。
「後藤くんは、きっと手さえ触れてない」
「はあ? 襲われたってあのおん…っ、あの本人が言ったんだぞ! じゃあなんでそんなこと言うんだよおかしいだろうが…!」
「おかしくない…、その状況を作ったのは神田先生だったから」
「は、っ…、」
「本人が仕向けたんだから、言えるわけがない…怜を最初に襲おうとしてたのは神田先生だ」
逸巳はまっすぐに江島を見た。
「でも、現れたのは江島先生だった」
江島の唇が薄く開いたまま、小刻みに震える。
「神田先生を本当に襲ったのは、江島先生だ」
そう言った瞬間、逸巳の視界に何かが映った。
黒板の上にある時計が動いている。あと十五分ほどで授業は終わる。
逸巳はまだ来ない。サボるつもりなのか──だが、そうするつもりなら教科書を持っては行かないだろう。逸巳は授業の準備をしていた。授業の後はそのまま怜に用事があるからと言っていた。
「……」
怜のことを寺山は信じたいと思っていた。噂を鵜吞みにするのはやめようと、逸巳が好きだという人間を、自分も少しでも分かりたいとそう考えていた。罪悪感と自分への嫌悪でいっぱいだった寺山を怜は躊躇することなく殴ってくれた。
許さないと、その一言が欲しかったのだ。
あんなことをしてしまった自分を許されたくはない。
これからもずっと。
ふたりでいるなら、それでいい。あの空き教室でふたりでいるのなら。
「──」
だが、何かが変だ。
言い表せない何かが、腹の底から上がって来る。
がたん、と寺山は立ち上がった。
「すみません」
教室中の目が寺山に向いた。
「どうしたの」
「気分が悪いので──保健室に」
「あら」
驚いた顔をしている教師に、寺山は頬を押さえて見せた。うっすらと腫れた頬は、誰がどう見ても殴られた痕だ。
「ちゃんと冷やしてもらいなさいよ」
はい、と答えて寺山は教室を出た。保健室に行くふりをして階段に向かう。旧校舎は入り組んでいる。いったん下りて反対の階段に行くしかない。
確認すればきっと、このざわざわとした気持ちも収まる。嫌な予感はそうそう当たりはしないものだ。
殴られた顔がこうも役に立つとは思いもしなかった。寺山は階段をひと飛びに下りた。
「…ん? なんだ?」
教科書の内容を黒板に書いていた教師が、怪訝そうに呟いた。首を傾げるようにして扉に近づいていく。
がらりと引き戸を引いた。建て付けの悪さにがたがたと大きな音が出る。
「おい、何してるんだ、授業中だぞ」
顔を突き出して廊下に向かって声を掛けた。すみません、と返ってきた声に、怜は顔を向けた。
誰かいる。
「保健室? そうか、気をつけろよ」
「はい」
教室の外の廊下を、誰かが通る。半分だけ見ることの出来る窓に映る人影を見るともなしに見ていた怜は、つと声を出しそうになった。
今、そこにいたのは寺山ではなかったか?
保健室?
昨日殴ったから?
そんな柔には見えなかったと、怜はもう誰もいない廊下をじっと見つめた。
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