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まさか職場の新任だとは思いもしなかった。どうしてこんな──こんなことに…
背中を冷や汗が流れる。
ついていない。
『よろしくお願いします』
『…どうも』
彼女の名前は神田麻美と言った。産休に入る教師の代わりに雇われたのだ。
『まさかこちらの先生だとは思いませんでした』
さすがにさっきあったことを忘れたりするはずがない。
『ああ、まあ』
『これからお世話になります、よろしくお願いします』
曖昧な返事をする江島に、神田は人好きのする笑みを見せた。こちらを見上げる目が、つと何かを含んだ気がする。
気のせいだ、と自分に言い聞かせた。気のせいだ。見られていたはずがない。絶対に大丈夫だ。
『こちらこそ』
よろしく、と江島は言った。
関わり合いにならなければいい。出来るだけ離れていることだ。
だがその思惑はすぐに覆された。
『江島君ちょっと』
顔を向けると教員室の奥で手を招いている人がいた。教頭だ。どきりと心臓が跳ねる。
まさか、まさか…
『ああ、神田さんもこっちへ』
全身から血の気が引いた。
ああ、もうだめだ。バレてしまったのだ。あんな、あんな、ただの気の迷いだったのに──全部、人生が崩れていくなんて。
たった、あれだけのことで。
ただほんのちょっと、気を晴らしただけだ。
それだけなのに。
ぐらぐらと揺れる頭で近づくと、教頭はにこりと笑った。
『江島君、きみ、来週から神田さんの教育係として頼むよ。教科も同じだし、歳も割と近い方だから話も合うだろう。じゃあ神田さん、この人からいろいろ教えて貰ってくださいね』
早口で捲くし立て、江島の肩を親し気に叩く。
早鐘を打つ心臓が今にも飛び出してきそうだ。
江島は横にいる神田を見た。
これからずっと、こんな思いをしていくのか。
彼女を見るたびに。
***
怜は教室にいた。廊下を通る瞬間に見えた教室の中にあいつはいた。大勢の中にいてもやたらと目立つ容姿は見つけやすくて助かる。
じゃあ、逸巳は一体どこに?
「…そうだ」
たしか逸巳はスマホを持っていた。掛けてみるのが一番早い気がする。寺山はそのまま階段を下り、新校舎に向かった。自分のスマホは教室に置いてあるのだ。
保健室の前を通り過ぎ、渡り廊下を進む。複雑な造りにはうんざりする。迷路みたいで楽しいという者もいるが、毎日通い移動する身としては正直少しも嬉しくはない。
何かの音がしたような気がして、寺山は後ろを振り向いた。だが、振り向いた先には誰もいない。
足早に校舎に入ると教師に見つからぬよう授業中の教室の前を過ぎた。誰もいない教室に入り自分の席に向かう。鞄を手に取ろうとしたとき、がたん、とどこかで大きな音がした。
「…?」
なんだ?
寺山は天井を見上げた。
上の階から?
この上は空き教室のはずだ。普段は誰もいないし、用もない。ただがらんとした空間があるだけだ。二階で今使っている部屋があるとすれば、それはコピー室だけで…
コピー室?
「──」
逸巳はよく担任の江島にあれこれと押し付けられていた。もしかして、今日も?
「またかあいつ…」
授業をサボらせてまでなんてどうかしている。江島のことは元々気に食わないと寺山は思っていた。だが逸巳が何も言わずにいるので黙って見ていたのだが。
とりあえず自分のスマホを掴んで寺山は教室を出た。逸巳がコピー室にいるなら今度こそ江島に抗議に行こうと決める。いい加減、生徒を都合よく使うのはやめて欲しい。
「何してるの?」
教室を通り過ぎたとき、背後で扉が開いた。振り返ると、あまり知らない女性教師が顔を覗かせていた。
寺山は誤魔化すのは無理そうだと本当のことを言った。
「ちょっと──友人が上にいるみたいなので」
「上?」
「コピー室です」
女性教師は怪訝な顔をした。
「ほんとにいるの? 今授業中よ?」
「いや、ウチの担任がいつも…」
がたん、と音がして寺山は階段のほうを向いた。さっきよりもずっと大きな音だ。
誰かが叫んでいる。
「え、なに?」
女性教師にもそれは聞こえたようだった。廊下に出てくると寺山と同じように階段の上を見ている。教室の中が少しざわめいた。
「見てきます」
寺山はそう言うと、階段を駆け上がった。
顔の近くに飛んできたものを逸巳は間一髪で避けた。後ろの棚に当たり、床に落ちる。
ははは、と江島は乾いた笑い声を上げた。
「俺が…っ!? 何を証拠に…!!」
「証拠は…」
「ないよな? あるわけないだろう馬鹿馬鹿しい!」
甲高く笑い、江島は傍にあった机を蹴り飛ばした。がたん、と思いのほか大きな音がして、部屋中に響き渡った。
「拡散された写真があったはずです」
はあ?と江島は馬鹿にしたように顔を歪めた。
「そんなもんはとっくに…──!」
不意に切れた言葉を逸巳は逃がさなかった。
「とっくに、…何ですか?」
気づかれぬようポケットの外側に指を這わせる。
「とっ…、とっく、に…、」
「消してしまった?」
言い淀んだ江島を逸巳は見据えた。
ここで怯んではだめだ。
目を逸らすな。
「神田先生が流したものを、どうして江島先生が処分出来るんですか?」
「そ、…それは本人が」
「本人が? 神田先生が捨てたって言ったんですか?」
「そうだよ!」
「僕が神田先生から聞いた話とは違いますけど」
「か…、神田と、話したのかおまえ…」
「はい」
さあ、と江島の顔色が変わった。浅黒い肌が紙のように白くなる。
もちろんこれははったりだ。
昨日の夜からずっと、逸巳はこの場面を考えていた。怜から話を聞き手紙の内容と照らし合わせ、そして江島を問い詰めようと思っていた。
まさかこんなことになるとは思わなかったが。
もう後戻りは出来ない。
逸巳は落ち着け、と自分を言い聞かせた。手紙の内容を思い出し、次の言葉を選びとる。
「江島先生が、なぜこんなことをしたのか分からないと」
「──」
はくはく、と江島は口を動かした。
「──私は、何もしてないのに」
「な…」
「どうして──」
「わ、ああああああああ!」
次の瞬間飛びかかって来た江島が、大声を上げた。逸巳の胸ぐらを掴みあげ、引き倒そうとする。傍にあった机に逸巳の肘がぶつかり、激しい音を立てて一緒に倒れた。
「何が! 何が何もしてないだ! あの女ああああ…っ!」
まずい、と思ったときには江島の拳が顔の上に落ちてきていた。逸巳は咄嗟に腕を交差してそれを避ける。拳は腕に当たった。思わず声が漏れそうになったが、必死でそれを飲み込んだ。もう一度拳を上げた江島が馬乗りになってくる。その隙をついて江島を蹴り飛ばし、逸巳は床を這うようにして後退った。
鳩尾を蹴られた江島は体を折り曲げて膝をつき、ギラギラとした目で逸巳を睨みつけてくる。
逸巳の背中を汗が伝った。
「ちくしょう…! たったあれだけのことで人生壊されてたまるかよ…! あんな万引き程度で…!!」
「…ま、」
万引き。
「あの女やっぱり正体見せたな…っくそ、今になってそんなこと話すなんて…俺が聞いたときは無反応だったくせに!」
「…っ」
「おら来いよ!」
逃げるな、と江島は逸巳の足首を掴んだ。
ぞっと悪寒が走る。得体の知れない気持ち悪さに逸巳は藻掻いた。
「やめ…っ」
「他に何を聴いた?! 話せよ! 話せ全部うううう!」
逃げる間がない。
再びのしかかられた。江島が大きく腕を振り上げる。殴られる、ときつく歯を食いしばった瞬間、扉の開く音がした。
「逸巳!」
目を開けるよりも早く、体が軽くなった。馬乗りになっていた江島の重さが消え、鈍い音がした。
「何してんだ! あんた教師だろうが!!」
見知った背中の生徒が逸巳の前に立っていた。
その足元には、仰向けに転がった江島がいる。呆けたような目で見上げていた。
「何の騒ぎですか!?」
扉から声がして、人影が飛び込んできた。逸巳が目を向けると、その人も逸巳を見た。あ、と逸巳は目を見開いた。それは相手も同じだった。
「先生…」
「三沢くん」
驚いた声を上げたのは、先日教員室で逸巳に声を掛けて来た女性教師だった。江島に言っておくと渋い顔をしていた人だ。
どうしてこの人がここに?
「大丈夫?」
「…はい」
駆け寄ってくると、心配そうに逸巳の傍に屈み込んだ。背中に手を当て、そっと抱き起してくれる。
「これは、一体どういうことなんですか?」
よく通る声で彼女は言った。厳しい目を向けた先でだらしなく倒れ込んでいた江島は、彼女の存在に今気がついたかのようにこちらに目を動かした。
「どういうことかと訊いてるんです」
「…」
「万引きって、なんなんですか?」
びくり、とその身体が震えた。どうやら江島の声は外にまで聞こえていたらしい。逸巳は江島の前に立ち、睨み下ろしている寺山を見上げ、それから女性教師を見た。
「神田先生が辞めたことを知りたくて、僕が聞いたんです」
「え?」
「大事な友達が…ずっと疑われたままなのは嫌なので」
驚いた顔で見る彼女に、逸巳はポケットからスマホを取り出して見せた。画面の真ん中にある数字が、カウントを続けている。赤いボタンをタップすると、逸巳は手早くもう一度操作した。
スマホから逸巳の声が聞こえてくる。そして江島の叫び声、揉み合う衝撃音、激しく何かが倒れた音。
『あの女ああああ…っ!』
立っていた寺山が逸巳を振り向いた。逸巳が見上げると視線が合う。どうしてここにいるのかと逸巳は不思議に思った。
『人生壊されてたまるかよ…! あんな万引き程度で…!!…あの女やっぱり正体見せたな…っくそ、今になって──俺が聞いたときは無反応だったくせに──』
録音した声特有の、ざらりとした質感の江島の声が部屋中に響き渡った。気づけば廊下に人の気配がある。ざわめきは次第に大きくなり、教室を取り囲んだ。
江島の名前がボールのようにあちこちから跳ねて聞こえてくる。
「静かにしなさい、みんな──お昼休憩に行きなさい」
女性教師が廊下に向かって声を上げた。
いつの間にかチャイムは鳴っていたようだった。全く耳に入らなかった。
「あ、誰か他の先生呼んできてもらえる?」
まだ名残惜しそうに入り口付近から覗き込んでいた生徒たちに、教師は言った。
誰かが返事をし、走っていく。
皆何があったのかを知りたいのだろう、ざわめきは収まらない。
「逸巳、大丈夫か?」
床に座り込んだままの逸巳の傍に寺山がしゃがみこんだ。
「大丈夫だよ」
「それ、腕…」
江島に殴られた腕は赤く腫れていた。痛みはあるが、我慢できないことはない。
「冷やせば治るよ」
寺山はじっと逸巳を見つめた。何事か言おうと唇を開いては閉じる。
どうかしただろうか。
「どうした?」
「いや…、ごめん」
「え?」
「…俺が悪かった」
なんで、と逸巳は首を傾げた。
「寺山のせいじゃないだろ、何言ってるんだよ」
変なことを言うと逸巳が笑うと、寺山は困ったような顔をして眉を下げた。その後ろでは江島が小さな子供のように体を丸めてうずくまっている。
逸巳はスマホを眺めた。咄嗟に録音出来てよかった。
これできっと、怜への疑いは晴れる。
もう誰も彼を悪くは言わないだろう。
廊下がまた騒がしくなった。何事かと目を向けると、人だかりをかき分けるようにして、誰かが教室に飛び込んできた。
「先輩…!」
怜だ。
誰かに何があったのか聞いたのかもしれない。
まっすぐに駆け寄って来る。今にも泣きそうな顔で。
「何してんだよあんたは…っ」
「ごめん」
その途端、大勢の目がある前で逸巳は力いっぱい抱き締められていた。
背中を冷や汗が流れる。
ついていない。
『よろしくお願いします』
『…どうも』
彼女の名前は神田麻美と言った。産休に入る教師の代わりに雇われたのだ。
『まさかこちらの先生だとは思いませんでした』
さすがにさっきあったことを忘れたりするはずがない。
『ああ、まあ』
『これからお世話になります、よろしくお願いします』
曖昧な返事をする江島に、神田は人好きのする笑みを見せた。こちらを見上げる目が、つと何かを含んだ気がする。
気のせいだ、と自分に言い聞かせた。気のせいだ。見られていたはずがない。絶対に大丈夫だ。
『こちらこそ』
よろしく、と江島は言った。
関わり合いにならなければいい。出来るだけ離れていることだ。
だがその思惑はすぐに覆された。
『江島君ちょっと』
顔を向けると教員室の奥で手を招いている人がいた。教頭だ。どきりと心臓が跳ねる。
まさか、まさか…
『ああ、神田さんもこっちへ』
全身から血の気が引いた。
ああ、もうだめだ。バレてしまったのだ。あんな、あんな、ただの気の迷いだったのに──全部、人生が崩れていくなんて。
たった、あれだけのことで。
ただほんのちょっと、気を晴らしただけだ。
それだけなのに。
ぐらぐらと揺れる頭で近づくと、教頭はにこりと笑った。
『江島君、きみ、来週から神田さんの教育係として頼むよ。教科も同じだし、歳も割と近い方だから話も合うだろう。じゃあ神田さん、この人からいろいろ教えて貰ってくださいね』
早口で捲くし立て、江島の肩を親し気に叩く。
早鐘を打つ心臓が今にも飛び出してきそうだ。
江島は横にいる神田を見た。
これからずっと、こんな思いをしていくのか。
彼女を見るたびに。
***
怜は教室にいた。廊下を通る瞬間に見えた教室の中にあいつはいた。大勢の中にいてもやたらと目立つ容姿は見つけやすくて助かる。
じゃあ、逸巳は一体どこに?
「…そうだ」
たしか逸巳はスマホを持っていた。掛けてみるのが一番早い気がする。寺山はそのまま階段を下り、新校舎に向かった。自分のスマホは教室に置いてあるのだ。
保健室の前を通り過ぎ、渡り廊下を進む。複雑な造りにはうんざりする。迷路みたいで楽しいという者もいるが、毎日通い移動する身としては正直少しも嬉しくはない。
何かの音がしたような気がして、寺山は後ろを振り向いた。だが、振り向いた先には誰もいない。
足早に校舎に入ると教師に見つからぬよう授業中の教室の前を過ぎた。誰もいない教室に入り自分の席に向かう。鞄を手に取ろうとしたとき、がたん、とどこかで大きな音がした。
「…?」
なんだ?
寺山は天井を見上げた。
上の階から?
この上は空き教室のはずだ。普段は誰もいないし、用もない。ただがらんとした空間があるだけだ。二階で今使っている部屋があるとすれば、それはコピー室だけで…
コピー室?
「──」
逸巳はよく担任の江島にあれこれと押し付けられていた。もしかして、今日も?
「またかあいつ…」
授業をサボらせてまでなんてどうかしている。江島のことは元々気に食わないと寺山は思っていた。だが逸巳が何も言わずにいるので黙って見ていたのだが。
とりあえず自分のスマホを掴んで寺山は教室を出た。逸巳がコピー室にいるなら今度こそ江島に抗議に行こうと決める。いい加減、生徒を都合よく使うのはやめて欲しい。
「何してるの?」
教室を通り過ぎたとき、背後で扉が開いた。振り返ると、あまり知らない女性教師が顔を覗かせていた。
寺山は誤魔化すのは無理そうだと本当のことを言った。
「ちょっと──友人が上にいるみたいなので」
「上?」
「コピー室です」
女性教師は怪訝な顔をした。
「ほんとにいるの? 今授業中よ?」
「いや、ウチの担任がいつも…」
がたん、と音がして寺山は階段のほうを向いた。さっきよりもずっと大きな音だ。
誰かが叫んでいる。
「え、なに?」
女性教師にもそれは聞こえたようだった。廊下に出てくると寺山と同じように階段の上を見ている。教室の中が少しざわめいた。
「見てきます」
寺山はそう言うと、階段を駆け上がった。
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ははは、と江島は乾いた笑い声を上げた。
「俺が…っ!? 何を証拠に…!!」
「証拠は…」
「ないよな? あるわけないだろう馬鹿馬鹿しい!」
甲高く笑い、江島は傍にあった机を蹴り飛ばした。がたん、と思いのほか大きな音がして、部屋中に響き渡った。
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「消してしまった?」
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目を逸らすな。
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「そ、…それは本人が」
「本人が? 神田先生が捨てたって言ったんですか?」
「そうだよ!」
「僕が神田先生から聞いた話とは違いますけど」
「か…、神田と、話したのかおまえ…」
「はい」
さあ、と江島の顔色が変わった。浅黒い肌が紙のように白くなる。
もちろんこれははったりだ。
昨日の夜からずっと、逸巳はこの場面を考えていた。怜から話を聞き手紙の内容と照らし合わせ、そして江島を問い詰めようと思っていた。
まさかこんなことになるとは思わなかったが。
もう後戻りは出来ない。
逸巳は落ち着け、と自分を言い聞かせた。手紙の内容を思い出し、次の言葉を選びとる。
「江島先生が、なぜこんなことをしたのか分からないと」
「──」
はくはく、と江島は口を動かした。
「──私は、何もしてないのに」
「な…」
「どうして──」
「わ、ああああああああ!」
次の瞬間飛びかかって来た江島が、大声を上げた。逸巳の胸ぐらを掴みあげ、引き倒そうとする。傍にあった机に逸巳の肘がぶつかり、激しい音を立てて一緒に倒れた。
「何が! 何が何もしてないだ! あの女ああああ…っ!」
まずい、と思ったときには江島の拳が顔の上に落ちてきていた。逸巳は咄嗟に腕を交差してそれを避ける。拳は腕に当たった。思わず声が漏れそうになったが、必死でそれを飲み込んだ。もう一度拳を上げた江島が馬乗りになってくる。その隙をついて江島を蹴り飛ばし、逸巳は床を這うようにして後退った。
鳩尾を蹴られた江島は体を折り曲げて膝をつき、ギラギラとした目で逸巳を睨みつけてくる。
逸巳の背中を汗が伝った。
「ちくしょう…! たったあれだけのことで人生壊されてたまるかよ…! あんな万引き程度で…!!」
「…ま、」
万引き。
「あの女やっぱり正体見せたな…っくそ、今になってそんなこと話すなんて…俺が聞いたときは無反応だったくせに!」
「…っ」
「おら来いよ!」
逃げるな、と江島は逸巳の足首を掴んだ。
ぞっと悪寒が走る。得体の知れない気持ち悪さに逸巳は藻掻いた。
「やめ…っ」
「他に何を聴いた?! 話せよ! 話せ全部うううう!」
逃げる間がない。
再びのしかかられた。江島が大きく腕を振り上げる。殴られる、ときつく歯を食いしばった瞬間、扉の開く音がした。
「逸巳!」
目を開けるよりも早く、体が軽くなった。馬乗りになっていた江島の重さが消え、鈍い音がした。
「何してんだ! あんた教師だろうが!!」
見知った背中の生徒が逸巳の前に立っていた。
その足元には、仰向けに転がった江島がいる。呆けたような目で見上げていた。
「何の騒ぎですか!?」
扉から声がして、人影が飛び込んできた。逸巳が目を向けると、その人も逸巳を見た。あ、と逸巳は目を見開いた。それは相手も同じだった。
「先生…」
「三沢くん」
驚いた声を上げたのは、先日教員室で逸巳に声を掛けて来た女性教師だった。江島に言っておくと渋い顔をしていた人だ。
どうしてこの人がここに?
「大丈夫?」
「…はい」
駆け寄ってくると、心配そうに逸巳の傍に屈み込んだ。背中に手を当て、そっと抱き起してくれる。
「これは、一体どういうことなんですか?」
よく通る声で彼女は言った。厳しい目を向けた先でだらしなく倒れ込んでいた江島は、彼女の存在に今気がついたかのようにこちらに目を動かした。
「どういうことかと訊いてるんです」
「…」
「万引きって、なんなんですか?」
びくり、とその身体が震えた。どうやら江島の声は外にまで聞こえていたらしい。逸巳は江島の前に立ち、睨み下ろしている寺山を見上げ、それから女性教師を見た。
「神田先生が辞めたことを知りたくて、僕が聞いたんです」
「え?」
「大事な友達が…ずっと疑われたままなのは嫌なので」
驚いた顔で見る彼女に、逸巳はポケットからスマホを取り出して見せた。画面の真ん中にある数字が、カウントを続けている。赤いボタンをタップすると、逸巳は手早くもう一度操作した。
スマホから逸巳の声が聞こえてくる。そして江島の叫び声、揉み合う衝撃音、激しく何かが倒れた音。
『あの女ああああ…っ!』
立っていた寺山が逸巳を振り向いた。逸巳が見上げると視線が合う。どうしてここにいるのかと逸巳は不思議に思った。
『人生壊されてたまるかよ…! あんな万引き程度で…!!…あの女やっぱり正体見せたな…っくそ、今になって──俺が聞いたときは無反応だったくせに──』
録音した声特有の、ざらりとした質感の江島の声が部屋中に響き渡った。気づけば廊下に人の気配がある。ざわめきは次第に大きくなり、教室を取り囲んだ。
江島の名前がボールのようにあちこちから跳ねて聞こえてくる。
「静かにしなさい、みんな──お昼休憩に行きなさい」
女性教師が廊下に向かって声を上げた。
いつの間にかチャイムは鳴っていたようだった。全く耳に入らなかった。
「あ、誰か他の先生呼んできてもらえる?」
まだ名残惜しそうに入り口付近から覗き込んでいた生徒たちに、教師は言った。
誰かが返事をし、走っていく。
皆何があったのかを知りたいのだろう、ざわめきは収まらない。
「逸巳、大丈夫か?」
床に座り込んだままの逸巳の傍に寺山がしゃがみこんだ。
「大丈夫だよ」
「それ、腕…」
江島に殴られた腕は赤く腫れていた。痛みはあるが、我慢できないことはない。
「冷やせば治るよ」
寺山はじっと逸巳を見つめた。何事か言おうと唇を開いては閉じる。
どうかしただろうか。
「どうした?」
「いや…、ごめん」
「え?」
「…俺が悪かった」
なんで、と逸巳は首を傾げた。
「寺山のせいじゃないだろ、何言ってるんだよ」
変なことを言うと逸巳が笑うと、寺山は困ったような顔をして眉を下げた。その後ろでは江島が小さな子供のように体を丸めてうずくまっている。
逸巳はスマホを眺めた。咄嗟に録音出来てよかった。
これできっと、怜への疑いは晴れる。
もう誰も彼を悪くは言わないだろう。
廊下がまた騒がしくなった。何事かと目を向けると、人だかりをかき分けるようにして、誰かが教室に飛び込んできた。
「先輩…!」
怜だ。
誰かに何があったのか聞いたのかもしれない。
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偽物の恋人から始まった不思議な関係。
デートはしたことないのに、キスだけが上手くなる。
この関係って、一体なに?
「……宇佐美くん。俺のこと、上手に振ってね」
年下うさぎ顔純粋男子(高1)×精神的優位美人男子(高3)の甘酸っぱくじれったい、少しだけ切ない恋の話。
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