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第二章 濃赤の葬送曲
第十七話 開かれたパンドラの匣
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十二月も半ばを過ぎ、街は浮かれたクリスマスムードに染まっていた。司城家の玄関ホールにも、家政婦の安曇の手によって形ばかりのツリーが飾られたが、その輝きはかえって屋敷の静謐さを際立たせている。
暖炉の焔が爆ぜる音に混じって、リビングにはチャイコフスキーの『くるみ割り人形』が流れていた。
響介は今日も、ひたすらに彼女を救うための「色」を鍵盤に叩きつける。今の彼にとって、絢の空虚を埋めることだけが唯一の生存証明であり、生き甲斐だった。
「ありがとうございました。もう結構ですよ」
しかし、演奏の余韻を味わうこともなく、絢はふらりと席を立った。その拒絶にも似た淡白な背中を見送りながら、響介の胸に、拭い去れない不安が澱のように溜まっていく。 最近の彼女の眼差しには、以前のような魂を吸い寄せる恍惚がない。まるで、しおれていく花を眺めるような、静かな憐れみが宿っているのだ。
こんなにも献身を捧げているのに。響介は居ても立ってもいられなくなり、絢の後を追った。廊下で彼女の肩を掴み、震える声で、なかば喧嘩腰に問いかける。
「……なぁ。俺の演奏に、何か不満でもあるのか」
彼女は響介を冷ややかに見上げてから、ただ一言、残酷な事実をこぼした。
「色が……以前より薄くなっているんです」
心臓を冷たい手で握りつぶされたような衝撃が、響介を貫いた。黒瀬が嘲笑いながら告げた前任者の末路――精神を吸い尽くされ、空っぽになって捨てられた青年の影が脳裏をよぎる。自分も、ついにかすれ始めてしまったのか。
「……どうすればいい」
響介は必死の形相で詰め寄った。
「どうすれば色が戻るのか、教えてくれ……! 俺にはこれしかねぇんだ!」
しかし、絢は睫毛を伏せ、ゆるゆると首を振るだけだった。
「それを知っているのは私ではなく、あなた自身だと思いますよ」
「は……? 分かんねぇよ!俺は、いつだってあんたのために弾いてる!」
「ええ、分かっていますよ。……分かっています」
絢の微笑は薄く、ひどく遠かった。彼女は再び響介に背を向け、静かな足取りで闇の向こうへ消えていった。
リビングへ戻った響介は、泥のように重い体でピアノの前に崩れ落ちた。両の手のひらを返し、その節くれ立った長い十指をじっと見つめる。本当は、気づいていた。彼女を救済しようと決めたあの時の狂おしいほどの激情が、摩耗し、薄れ始めていることに。いくら血を吐くように鮮やかな「赤」を差し出しても、彼女から返ってくるものは何もない。彼女が吸い取っているのはいつだって彼の「色」であって、彼という人間ではない。
彼女に愛されることは、決してない。その決定的な絶望が、源泉に目詰まりを起こさせている。
このまま枯れ果てれば、自分も前任者と同じように捨てられる――。焦りと恐怖が脳を焼き、平衡感覚を狂わせる。
まだ彼女は「明日までに出ていけ」とは言わない。だが、それは期待されているからではなく、単に残ったインクを最後まで絞り取ろうとしているだけかもしれない。絶え間ない不安に苛まれながら、響介は滑らかな鍵盤を、ただただ虚しくなぞり続けた。
*
十二月二十三日、クリスマスイブ前日。
最近の絢は夕刻になると、家政婦に車を出させてどこかへ出掛けるのが常だった。どこへ行くのかと響介が尋ねても、彼女はただ、霧が掛かったような謎めいた微笑を返すだけ。
今日も彼女は安曇の車に乗って出掛けていった。
一人残された屋敷の中、響介は幽霊のようにふらふらと廊下を彷徨っていた。
無意識に足が、一階西側廊下のある部屋の前で止まる。「Atelier」のプレートが掲げられたその扉は、固く閉ざされたままの、絢の聖域だった。
無駄だと分かっていても、ドアノブに手が伸びる。やはり鍵は掛かっている。
(ここに、あいつのすべてがある……)
衝動が、理性を焼き切った。彼女のすべてを暴いてやりたい。その一念で、響介は屋敷中をひっくり返すようにして鍵を探し回った。だが、用意周到な彼女がそんな分かりやすい場所に残すはずもない。
洗面所の引き出しを漁っていた時、目に留まったのはヘアピンが入ったケースだった。脳裏に、かつて動画で見た「ピッキング」の技術がよぎる。
響介はヘアピンケースごと持ち出しを、再びアトリエの前に戻った。スマホの画面を睨みつけ、震える指先で鍵穴に挑むこと約十分。元より饒舌な音色を紡ぎ出すその器用な指が、カチリと硬質な音を立てた。
神聖な鍵盤を叩くべき指で、禁忌を犯してしまった罪悪感。それが、痺れるような高揚感とともに全身を駆け巡った。
閉ざされていた扉が、重々しく開かれる。
途端、体に纏いつくような不快な湿度と、ツンと鼻を突く油絵具の匂いが彼を襲った。作業机、イーゼル、積み上げられた画材。壁を埋め尽くす油絵の影。床には無数のスケッチブックと描きかけのキャンバスが、地層のように乱雑に積み重なっている。中には狂気を感じさせるほど荒々しく描き殴られたものもあり、もはや作品かゴミかの判別すらつかない。
「なんだ、これ……。すげぇ部屋だな……」
あのモデルルームのような、塵一つないリビングとは対極にある「カオス」。絢という人間の、剥き出しの深淵。
ほとんど足の踏み場のない床を慎重に歩き、部屋の中央で呆然とする。芸術などという高尚な呼び名は、ここには相応しくない。ここは彼女自身が処理しきれなかった精神の『老廃物』だ。
四方の壁を見回せば、脈絡のない色彩が視界を埋め尽くす。びっしりと貼り付けられた油絵の群れ。それは彼女に「色」を吸い尽くされたピアニストたちの「墓標」のように見えた。
以前、彼女が響介に描いてくれたあの万華鏡のような油絵や、ウッドデッキで優雅にワインを傾けながらスケッチしていた抽象画───あれらはすべて、虚飾に過ぎなかったのだと実感させられる。
ふと、画材が散乱するテーブルの端に、メモ書きがされた付箋を見つけた。
彼は飛び付くようにその付箋を手に取った。
そこには、ある「店」の住所が、踊るような筆致で記されていた。
暖炉の焔が爆ぜる音に混じって、リビングにはチャイコフスキーの『くるみ割り人形』が流れていた。
響介は今日も、ひたすらに彼女を救うための「色」を鍵盤に叩きつける。今の彼にとって、絢の空虚を埋めることだけが唯一の生存証明であり、生き甲斐だった。
「ありがとうございました。もう結構ですよ」
しかし、演奏の余韻を味わうこともなく、絢はふらりと席を立った。その拒絶にも似た淡白な背中を見送りながら、響介の胸に、拭い去れない不安が澱のように溜まっていく。 最近の彼女の眼差しには、以前のような魂を吸い寄せる恍惚がない。まるで、しおれていく花を眺めるような、静かな憐れみが宿っているのだ。
こんなにも献身を捧げているのに。響介は居ても立ってもいられなくなり、絢の後を追った。廊下で彼女の肩を掴み、震える声で、なかば喧嘩腰に問いかける。
「……なぁ。俺の演奏に、何か不満でもあるのか」
彼女は響介を冷ややかに見上げてから、ただ一言、残酷な事実をこぼした。
「色が……以前より薄くなっているんです」
心臓を冷たい手で握りつぶされたような衝撃が、響介を貫いた。黒瀬が嘲笑いながら告げた前任者の末路――精神を吸い尽くされ、空っぽになって捨てられた青年の影が脳裏をよぎる。自分も、ついにかすれ始めてしまったのか。
「……どうすればいい」
響介は必死の形相で詰め寄った。
「どうすれば色が戻るのか、教えてくれ……! 俺にはこれしかねぇんだ!」
しかし、絢は睫毛を伏せ、ゆるゆると首を振るだけだった。
「それを知っているのは私ではなく、あなた自身だと思いますよ」
「は……? 分かんねぇよ!俺は、いつだってあんたのために弾いてる!」
「ええ、分かっていますよ。……分かっています」
絢の微笑は薄く、ひどく遠かった。彼女は再び響介に背を向け、静かな足取りで闇の向こうへ消えていった。
リビングへ戻った響介は、泥のように重い体でピアノの前に崩れ落ちた。両の手のひらを返し、その節くれ立った長い十指をじっと見つめる。本当は、気づいていた。彼女を救済しようと決めたあの時の狂おしいほどの激情が、摩耗し、薄れ始めていることに。いくら血を吐くように鮮やかな「赤」を差し出しても、彼女から返ってくるものは何もない。彼女が吸い取っているのはいつだって彼の「色」であって、彼という人間ではない。
彼女に愛されることは、決してない。その決定的な絶望が、源泉に目詰まりを起こさせている。
このまま枯れ果てれば、自分も前任者と同じように捨てられる――。焦りと恐怖が脳を焼き、平衡感覚を狂わせる。
まだ彼女は「明日までに出ていけ」とは言わない。だが、それは期待されているからではなく、単に残ったインクを最後まで絞り取ろうとしているだけかもしれない。絶え間ない不安に苛まれながら、響介は滑らかな鍵盤を、ただただ虚しくなぞり続けた。
*
十二月二十三日、クリスマスイブ前日。
最近の絢は夕刻になると、家政婦に車を出させてどこかへ出掛けるのが常だった。どこへ行くのかと響介が尋ねても、彼女はただ、霧が掛かったような謎めいた微笑を返すだけ。
今日も彼女は安曇の車に乗って出掛けていった。
一人残された屋敷の中、響介は幽霊のようにふらふらと廊下を彷徨っていた。
無意識に足が、一階西側廊下のある部屋の前で止まる。「Atelier」のプレートが掲げられたその扉は、固く閉ざされたままの、絢の聖域だった。
無駄だと分かっていても、ドアノブに手が伸びる。やはり鍵は掛かっている。
(ここに、あいつのすべてがある……)
衝動が、理性を焼き切った。彼女のすべてを暴いてやりたい。その一念で、響介は屋敷中をひっくり返すようにして鍵を探し回った。だが、用意周到な彼女がそんな分かりやすい場所に残すはずもない。
洗面所の引き出しを漁っていた時、目に留まったのはヘアピンが入ったケースだった。脳裏に、かつて動画で見た「ピッキング」の技術がよぎる。
響介はヘアピンケースごと持ち出しを、再びアトリエの前に戻った。スマホの画面を睨みつけ、震える指先で鍵穴に挑むこと約十分。元より饒舌な音色を紡ぎ出すその器用な指が、カチリと硬質な音を立てた。
神聖な鍵盤を叩くべき指で、禁忌を犯してしまった罪悪感。それが、痺れるような高揚感とともに全身を駆け巡った。
閉ざされていた扉が、重々しく開かれる。
途端、体に纏いつくような不快な湿度と、ツンと鼻を突く油絵具の匂いが彼を襲った。作業机、イーゼル、積み上げられた画材。壁を埋め尽くす油絵の影。床には無数のスケッチブックと描きかけのキャンバスが、地層のように乱雑に積み重なっている。中には狂気を感じさせるほど荒々しく描き殴られたものもあり、もはや作品かゴミかの判別すらつかない。
「なんだ、これ……。すげぇ部屋だな……」
あのモデルルームのような、塵一つないリビングとは対極にある「カオス」。絢という人間の、剥き出しの深淵。
ほとんど足の踏み場のない床を慎重に歩き、部屋の中央で呆然とする。芸術などという高尚な呼び名は、ここには相応しくない。ここは彼女自身が処理しきれなかった精神の『老廃物』だ。
四方の壁を見回せば、脈絡のない色彩が視界を埋め尽くす。びっしりと貼り付けられた油絵の群れ。それは彼女に「色」を吸い尽くされたピアニストたちの「墓標」のように見えた。
以前、彼女が響介に描いてくれたあの万華鏡のような油絵や、ウッドデッキで優雅にワインを傾けながらスケッチしていた抽象画───あれらはすべて、虚飾に過ぎなかったのだと実感させられる。
ふと、画材が散乱するテーブルの端に、メモ書きがされた付箋を見つけた。
彼は飛び付くようにその付箋を手に取った。
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