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第二章 濃赤の葬送曲
第十八話 葬送の「鐘」
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ダイニングバー『フルラージュ』は、歓楽街の喧騒から逃れた路地裏にひっそりと佇んでいた。
ステンドグラスの扉を押し開ければ、軽やかなドアベルの音が出迎えてくれる。温かみのあるオーク材の家具に、柔らかなペンダントライトの光。店奥のピアノから、ラヴェルの『水の戯れ』が流れている。弾いているのは、線の細い優男だった。
帽子とマスクで顔を隠した響介は、壁際の席に身を潜め、カウンターで赤ワインを傾ける絢をじっと見ていた。
絢の視線は、ピアノを奏でる男に向けられている。 彼女の目には、あの音色がどう映っているのか。響介の脳裏に、冷酷なまでに鮮やかな幻影が浮かぶ。
揺蕩う水面を跳ねる飛沫。ほどける天光。溢れ出す七色の宝石――。粉砕された結晶は微光の粒子となり、彼女の意識の奥底へと、静かに、けれど確実に熱を残していく。
演奏が終わると、すかさず絢は奏者を呼び止めた。
「素晴らしい演奏でした。少しお話してもよろしいですか?」
男は鼻の下を伸ばし、隣に座る。彼は気づいていない。人形のように美しいその瞳に宿るのが、獲物を見定めた「捕食者」の光であることを。
「あなたの音色、とても澄んだ綺麗な水色ですね。よければ今度、もっと音質の良いピアノで、私に聴かせていただけませんか?」
黒瀬の警告は、残酷な現実となって響介を打ちのめした。
『あなたしかいない』
あの時、心に深く突き刺さった甘美な呪いが、今や滑稽なほど軽い嘘として足蹴にされる。存在意義の完全な否定。最大の裏切り。
(──俺には、あんたしかいなかったのに……!)
捧げ続けた祈りを使い捨て、インクを交換するように新しい奏者へ手を伸ばす女。
その瞬間、響介の中で「純粋な祈り」が死に、代わりにドロドロとした「支配欲」が産声を上げた。枯渇寸前だった源泉から、マグマのような毒々しい濃い赤色が止めどなく溢れ出す。
(……俺はまだ、色を出せる。誰にも真似できない、濃密な赤色を)
帰宅した響介は、深夜のリビングでその激情をラフマニノフの『鐘』へとぶつけていた。 紡ぎ出されるのは、もはや聖なる「祈り」の赤ではない。どろりと粘りつく、執着と支配に塗れた「濃赤」だ。
やがて、絢が帰宅した。響介は地の底を揺らすような重低音を叩き出す。 かつて姉の安息を願って弾いた「祈り」の鐘は、今、絢の血管一本一本に毒を流し込むような、「葬送」の鐘へと変貌していた。
密度の高すぎる、粘着質なその赤を吸い込んだ瞬間、絢は溺れるように小さく咳き込んだ。だが、その表情は即座に、蕩けるような恍惚へと塗り替えられる。 響介に向けられていた、あの全てを奪い去るような渇望の眼差しが、再び彼を捉えた。
「ああ……色が、戻りましたね。いえ、以前よりもずっと濃い──深いガーネットのような素晴らしい色ですね」
響介は鍵盤から手を離し、獲物を縛るように絢を見据えた。
「……これでもう、俺をクビにして、新しい奴に乗り換えようなんて思わないよな?」
「何の話ですか?」
絢は惚けたように首を傾げる。その瞳は明らかに、響介の変質を悦んでいるようだった。
「こんな良い色を出すあなたを、私が手放すはずがないでしょう」
響介は満足げに微笑んだ。彼女はまだ、気付いていない。 彼が新しく産み出した、その妖しいまでの濃赤が、彼女のヒビ割れた白いキャンバスを密かにハッキングしていたことに。
吸い取られているのは、もはや響介だけではない。彼の音を介して流し込まれた「甘美な毒」が、今度は彼女の内側を、逃れられない色で侵食し始めていた────
ステンドグラスの扉を押し開ければ、軽やかなドアベルの音が出迎えてくれる。温かみのあるオーク材の家具に、柔らかなペンダントライトの光。店奥のピアノから、ラヴェルの『水の戯れ』が流れている。弾いているのは、線の細い優男だった。
帽子とマスクで顔を隠した響介は、壁際の席に身を潜め、カウンターで赤ワインを傾ける絢をじっと見ていた。
絢の視線は、ピアノを奏でる男に向けられている。 彼女の目には、あの音色がどう映っているのか。響介の脳裏に、冷酷なまでに鮮やかな幻影が浮かぶ。
揺蕩う水面を跳ねる飛沫。ほどける天光。溢れ出す七色の宝石――。粉砕された結晶は微光の粒子となり、彼女の意識の奥底へと、静かに、けれど確実に熱を残していく。
演奏が終わると、すかさず絢は奏者を呼び止めた。
「素晴らしい演奏でした。少しお話してもよろしいですか?」
男は鼻の下を伸ばし、隣に座る。彼は気づいていない。人形のように美しいその瞳に宿るのが、獲物を見定めた「捕食者」の光であることを。
「あなたの音色、とても澄んだ綺麗な水色ですね。よければ今度、もっと音質の良いピアノで、私に聴かせていただけませんか?」
黒瀬の警告は、残酷な現実となって響介を打ちのめした。
『あなたしかいない』
あの時、心に深く突き刺さった甘美な呪いが、今や滑稽なほど軽い嘘として足蹴にされる。存在意義の完全な否定。最大の裏切り。
(──俺には、あんたしかいなかったのに……!)
捧げ続けた祈りを使い捨て、インクを交換するように新しい奏者へ手を伸ばす女。
その瞬間、響介の中で「純粋な祈り」が死に、代わりにドロドロとした「支配欲」が産声を上げた。枯渇寸前だった源泉から、マグマのような毒々しい濃い赤色が止めどなく溢れ出す。
(……俺はまだ、色を出せる。誰にも真似できない、濃密な赤色を)
帰宅した響介は、深夜のリビングでその激情をラフマニノフの『鐘』へとぶつけていた。 紡ぎ出されるのは、もはや聖なる「祈り」の赤ではない。どろりと粘りつく、執着と支配に塗れた「濃赤」だ。
やがて、絢が帰宅した。響介は地の底を揺らすような重低音を叩き出す。 かつて姉の安息を願って弾いた「祈り」の鐘は、今、絢の血管一本一本に毒を流し込むような、「葬送」の鐘へと変貌していた。
密度の高すぎる、粘着質なその赤を吸い込んだ瞬間、絢は溺れるように小さく咳き込んだ。だが、その表情は即座に、蕩けるような恍惚へと塗り替えられる。 響介に向けられていた、あの全てを奪い去るような渇望の眼差しが、再び彼を捉えた。
「ああ……色が、戻りましたね。いえ、以前よりもずっと濃い──深いガーネットのような素晴らしい色ですね」
響介は鍵盤から手を離し、獲物を縛るように絢を見据えた。
「……これでもう、俺をクビにして、新しい奴に乗り換えようなんて思わないよな?」
「何の話ですか?」
絢は惚けたように首を傾げる。その瞳は明らかに、響介の変質を悦んでいるようだった。
「こんな良い色を出すあなたを、私が手放すはずがないでしょう」
響介は満足げに微笑んだ。彼女はまだ、気付いていない。 彼が新しく産み出した、その妖しいまでの濃赤が、彼女のヒビ割れた白いキャンバスを密かにハッキングしていたことに。
吸い取られているのは、もはや響介だけではない。彼の音を介して流し込まれた「甘美な毒」が、今度は彼女の内側を、逃れられない色で侵食し始めていた────
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