マトイマトワレ

クリオネ

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♯1「いまだ見えぬ者」

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 手に入れたい「物」がある。乗り越えたい「壁」がある。
 噛みつきたい「敵」がいる。君と叶えたい「夢」がある。
生命ある者が等しく持つを構成するのは、そう言った煩悩や物欲がほとんどだそうだ。
だからこそ人は心で願い、心で祈り、心に誓う。
貴方は、自分の心に何を纏うのだろうか?


[???・蒼み掛かった深淵]

 気が付いた時、紡はその場にぼうっと突っ立っていた。自分が何処にいるのかと辺りを見回すも、視界に飛び込んで来る情報は暗黒の一言に尽きた。
 何故こんな場所にいるのかは、正直なんら問題にも思わない。違和感というんだろうか、身の毛がよだつような嫌な雰囲気は感じるが、どうにもまともに頭が働かなかった。
 目の前を覆う深淵は途方もなく広がっており、出口の無いトンネルに迷い込んでいるという錯覚すら覚えた。
 実際という点において、それは間違いとも言い切れない。暗闇は気を抜けば呑み込まれそうな程に大きく、だれだけ目を凝らしても突き当たりは見当たらなかった。
 痛いほどの孤独が紡の手足を啄み、その一部ずつを闇の中と取り込んでいく。足裏はその場に縫いついたように動かず、体の自由が徐々に奪われていくのをただ黙って見ているしかなかった。
 と、その時。始めて暗闇以外のものが目に入った。
(りん……兄…ちゃん…?)
光の射さない程の深淵の向こうで、見覚えのある人影が何故だかくっきりと見えた。特徴的な蒼の挿し色が入った前髪を見る限り、やっぱり彼だ。
(待って…!。いかな……い…で…)
慌てて片手を伸ばすが、急に重量を増した暗闇にギュッと押さえつけられる。声を上げようとしたら今度は闇が口を覆い、最後に一目見ようと顔を上げると、うねるような漆黒の何かに視界を遮られた。


[白凪家・自室]
 朝六時四十分。紡は弾かれたように飛び起きた。悪夢からの目覚めを祝福するように、ちょうど枕元の目覚まし時計がけたたましく鳴り響く。鶏鳴…いやこの場合、時計鳴が暁を告げたらしい。時計の上部にあるボタンを押し、耳障りな警告音をなんとか停止させる。
「……はあ、はあ…」
珍しく息が上がっている。やはり悪夢に魘されていたからだろうか。たしかに、あんな夢はこれまでに見た覚えがない。大抵の夢は何処か見覚えのある風景を断片的に映し出すような印象だが、は特になにもないがらんとした場所だった。
「嫌な夢だったな」
寝癖でボサボサになった髪越しに頭を掻き、欠伸混じりに窓を見る。カーテンで隠れてはいるが、もうとうに朝日は仕事を始めているらしい。布の隙間から溢れた陽光は壁を伝い、所々に皺の寄った制服のシルエットを浮かべた。
「ねっむ…」
半開きの目つきでそう愚痴りつつ、彼は手早く毛布の呪縛から脱した。

 白凪 紡しろなぎ つむぐは自室の戸を開け、まずは蛍光灯の切れたキッチンに向かった。彼にとって朝のコップ一杯の水は、その日のコンディションを決める大切な指針だ。これなくして一日は始まらない。
 年季の入った蛇口を捻り、流れ出した水道水を空のコップに注ぐ。常温の水は時期的に少し温いぐらいだが、それでも喉がすっきりする事に違いはない。
「ゴク…ゴク…」
ふう、と一息つき、そろそろと朝食の準備に取り掛かる。
(今日は…まあ普通に目玉焼きとベーコンでいっか)
普段ならトーストを焼くなりサラダを添えるなり一手間加えたくなる紡だが、今日はいかんせん眠気と夢のせいで気分があまり晴れない。
 冷蔵庫から目ぼしい食材を取り出し、使い込まれたフライパンの隣に仮置きしておく。米は昨日の夜に買ってきたパックのものがあったから、先に電子レンジに入れておいあ。
 熱したフライパンの上で踊る卵とベーコンを見ながら、紡はさっきの夢について少し思考していた。いや正確には、さっきの夢に出てきた「少年」についてだ。
(やっぱあれ、りん兄ちゃんだよな)
まだ幼稚園児だった頃。一歳か二歳か上の兄のような存在としてよく遊んでくれた子だ。顔も服装も朧げにしか覚えていないし、本名に至ってはよく知らない。りん兄ちゃんは、昔からずっと「りん兄ちゃん」なのだ。
 ある日突然姿を消し、それからいくら街中を探しても見つからなかった。何も言わずに引っ越したのだろうと母さんは諭してくれたが、当時の紡少年はもちろんそんな結論で納得しなかった。とはいえ何かが出来る訳でもなく、結局九年もの月日が流れるうちにすっかり忘れ去っていたのだ。
(まあ、所詮は夢だし。気にする事でも無いんだろうけど)
久しぶりに思い出した事もあって、何となく考えてしまう。夢の内容は自分の精神状態を表すとか、そういうのはよく聞く話だ。だとすれば、昨日まですっかり記憶に無かった過去の友人が突然出てくるというのは一体どういう精神の表れなんだろう。
「熱っ」
跳ねたベーコンの油が指先にかかり、紡は反射的に顔を顰めた。思い出したように目を開く。暫く放置していた間に、眼下の目玉焼きはすっかり火が通って食べ頃を迎えている。ベーコンも端々に焦げが付き、個人的にはまずまずの出来栄えをしていた。ホッと胸を撫で下ろす。

 完成した料理たちをテーブルに運び、紡は迎え合わせの椅子の片側に着席した。静かに両掌を合わせ、小豆色の箸を利き手に構える。
 まずはタンパク質に満ちた白身からだ。箸先で一口大に切り取り、先んじてまぶしておいた塩胡椒と共に口に放る。醤油やソースで食べるのも勿論美味いが、白身にはよりスパイシーな味わいを楽しめる胡椒の方が紡の一押しだ。
 特にベーコンに至っては、塩味が豚本来の味を際立てるため絶対に欠かす事は出来ない。揚げ焼きにされてカリカリになったその食感は、旨みはさることながら幸福感も兼ね備えているという極上ぶりだ。
 ラストは完熟の黄身を白米と共にかき込む。長々と説明したにしては至って普通の朝食で申し訳ないが、結局のところこうして自分流儀で喰う朝飯に外れはない……と思っている。

[西唐野街・三番団地付近]

 一台の黒い大型バイクが、海沿いに乱立する団地群の合間を勢いよく駆けていく。ヘルメットの下に隠れた三白眼は高低差のある丘に建つ団地を一瞥した。
「オーマイ…」
思わずため息が出てしまう。一、ニ、三……目に入るだけで六棟の建物がある。一体全部で何号室あるというんだ、こんな量。
などと泣き言を本気で言うほど、そのバイク乗りは落ちぶれていない。依頼はこなしてこそなんぼだ。実際この程度の障壁、過去の経験に比べれば受難でもなんでもない。
 駐車場の端に愛車を停め、その場に初めて降り立つ。バイクと同系色のヘルメットを外すと、燦々と照りつける朝日の元に玉肌の素顔が露出した。長い銀髪が風に揺れる。黒のタンクトップに焦茶色のコートというダークな色味が、彼女のシルバーの髪色をより強調させた。
「さあて、じゃあ探しますか」
その女性は薄手のコートのポケットに手を突っ込んだ。白く細い指が引っ張り出したのは、一枚の写真である。今回の依頼人から請け負った標的ターゲットが、通学路を歩いているというだけの写真だ。
 標的は…黒髪をたなびかせる中学生の少女。素性は名前と学校名しか分かっていないが、それさえあれば充分である。女性は胸ポケットからライターと紙巻き煙草を一箱取り出した。


[白凪家・居間]

 時刻は七時過ぎ。食器の片付けやら着替えやらを済ませているうちに、あっという間に登校時間が差し迫っていた。これ以上の滞在は遅刻の原因になりかねない。
 靴箱の脇にある姿見鏡で制服を見直す。少しだけ曲がっていた襟元の校章を正し、長袖のボタンをきちんと止める。
本来ならこのまま登校しても良いのだが、紡にはまだ一つやるべきことがある。正確にはというより、いつもなのだが。
 居間から直通で行ける、ある部屋の前にて。紡は戸をノックしようかと片手を上げ、すぐ思い至るように手を下げた。
「…行ってきます。母さん」
扉を隔てた先にあるのは、畳床が敷かれた実母の寝室だ。夜勤明けでくたくたになった彼女を強引に起こしてまで、「いってらっしゃい」の送り出しが欲しいとは当然思わない。多少肝っ玉ではあるが、息子の顔を見ただけで疲労が全快する程単純な体はしていないはずだ。
—と、いけないいけない。そろそろ本当に出なければ。居間の時計を見上げると、もう出発予定時刻を大幅にオーバーしていた。
「お疲れ様」
戸越しにそう微笑んだあとで、紡は玄関に向けて歩を進めた。

ガチャッ。
「うおっ、びっくりした」
 塗装が部分的に剥げた鉄扉。ビターな香水と煙草が入り混じった匂い。重々しいその入り口を押し開けた瞬間、彼の物語は必然的に始まった。


ー次回「途方もなく怪しい者」
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