マトイマトワレ

クリオネ

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♯2「途方もなく怪しい者」

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[西唐野街 三番団地・自宅前]

 アパートの廊下は冷えたコンクリートで出来ていて、蝶番が軋むような僅かな音すら砲撃音のように大きく反響する。その実例に則り、紡が開いた鉄扉もカチャンッと可愛らしく鳴いた。
「うおっ、びっくりした」
その声もまた、金属の擦れる音と共に建物内に響いていく。
 声の主は一人の女性だった。肩の上まで伸びた銀の髪に、頭にかけた大きめのサングラス。カサついた唇で挟んだタバコの煙が彼女の肺を燻し、ふうっと白濁した状態で吐き出される。
「ちょうど良かった。その校章、西唐野中だよね?」
雑に切られた爪の先が紡の長袖のシャツを示した。胸元に小さく施された校章の刺繍をチラッと見下ろす。
「え…えと……」
「君さ。澁屋 美久って子の事知らないかな」
言葉を詰まらせる紡の意思に被さるように、新たな質問がポンと飛び出す。幸い理解不能な事態すぎて、思考までも恐怖に支配される間はなかった。ただ一つわかるのは…この人は絶対ヤバいって事だ。
「あの、僕急いでるんで!」
実際そうではあるのだが、一応は誤魔化しの言葉として目線を逸らす。しかし女性は退路にしれっと回り込み、腰に手を当てながら微笑んだ。
「待ってくれ少年。別に取って食おうって訳じゃないんだ」
だとしても変だろ、と心の中で呟く。名乗りもせずいきなり中学生に何かを問いだし、挙句逃げる隙も与えないようにしてくる大人だ。危ないなんてもんじゃない。
 女性は自己紹介を失念していた事に今更気付いたらしく、オーバーサイズのコートの内ポケットから一枚の紙を取り出した。白銀の無地を背景に、墨で書いたような名前が印刷されている。

「怪異事象相談室 室長 月瀬 旭つきのせ あさひ

「はいこれ」
手渡された名刺には小さく住所と電話番号も書かれており、ますます正体が怪しさを増した。
「旭…さん?」
「そう。まあ別に覚えなくても良いよ。その名刺だって、コンビニでプリントした奴だし」
どうりで厚みが無いというか、名刺にしては安っぽいと思ったよ。
「あの、それで僕に何の御用が?」
正直聞きたい事は山積みであるが、あまり深掘りしすぎて面倒ごとに巻き込まれても困る。登校時間が差し迫っているののもあって、紡は早いとこ会話を終わらせる方向に決めた。
「情報を探していてね。君の中学校に澁谷しぶや 美久みくっていう子がいると思うんだ。何か知らないかい?」
その名前は先程の旭の台詞にも出てきた。紡は考える間もなく「いいえ、知りません」と正直に答える。
「少なくとも、同じ学年じゃないと思います。小学校からの繰り上がりがほとんどなんで、大体みんな名前は分かりますが…」
一度も聞いた事がない。二年生の紡にとってそうという事は、先輩か後輩の内の誰かなのだろう。旭は咥えたタバコを指先で掴み、口元からゆっくりと遠ざけた。
「ふむ……一応、コレがその本人なんだけど」
名刺を出したコートの、今度は外側のポケットから大きめの紙を取り出す。それは一枚の写真であり、明らかに藪の中から隠し撮りしたような微ブレが目立つ代物だった。ギリギリ人の顔だと認識出来るような解像度で、暗い雰囲気の女子生徒が街路樹の傍を歩いている。
「え、これ…盗撮なんじゃ…?」
「のんのん。私じゃなくて依頼者が撮った奴だよ」
何がなんだよ。思っきし盗撮しとってんじゃねえか!
「そんな事より。彼女に見覚えは?」
「そんな事って……いや、無いですよ。一体何なんですか」
とうとう腹立たしさが湧き上がり、質問に質問を仕返す。がしかし、旭はなんら気にする事もなく何かを考え込んだ。どうやら紡の「なんなんですか」に対するアンサーを探しているらしい。
「もし見つけたなら、なるべく近づかない方が良い。彼女は恐ろしいを持ってる」
「…はあ、爆弾…?」
意味が分からなくて詳細を尋ねるも、旭はそれ以上を答えてくれなかった。


***
「あ、そういえば…」
彼女の見せた写真をよく見ると、夏服の胸元に赤いリボンが結ばれている事に気付く。うちの学校では青、緑、赤というカラーがその年の学年を表しており、年々ローテンションする形で色と対応する学年が変わる。今の赤色が担っているのは、一個下である一年生の学年だ。
「多分一年生ですよ、この人。写真が今年度撮られたものならですけど」
チラッと旭の方を見上げると、その表情はほんの少しだけ嬉しそうに思えた。多分、知りたいことが分かって満足したのだろう。
「ありがとう。十分すぎる情報を得たよ」
写真をポケットにしまい、ふっとにこやかに微笑む。こうして見ると、顔立ちは中々整っているようだ。アイドルや女優等の美しさとは程遠いが、一目見て「美人だ」と感じさせる風貌である。
「邪魔をしてすまなかったね」
あ、その自覚はあったんだ。
紡は苦笑いで返し、背後に建つ家の鍵をガチャンと閉めた。本来ならとうにこの作業を済ませ、今頃学校との中間地点付近を歩いていただろうに。
「(今朝の夢といい、散々だよ)」
「…………」
紡の小声はどうやら聞こえなかったらしく、旭の眉が少し鋭くなるだけに終わった。
「じゃあ、僕はこれで」
彼女の小傍をせかせかと通り、この場を早く去ろうと足を動かす。だが——
「……待って」
旭は今までに無い低い声で彼を呼び止めた。間延びした溜め息すら吐きかける。
「こっちを向いて、少年」
げんなりと引き攣った顔で、紡は仕方なく振り返る。
 白い瞳を輝かせる旭の背後で、「紺色の何か」がこちらをぬっと見つめた。四足の獣は地面に足をつける事なく、空中に縫い付けられたようにぴたりと静止している。
 全長は約一・五メートル。大きく長い鼻がその三分の一を占めており、付け根のあたりの黒い窪みが何処か空虚な目を表した。鼻の下には鋭利な歯が並ぶ三日月口があり、湾曲して顔の上部までざっくり開かれている。
(象…?いや、にしては特徴的な大きな耳が無いし…)
圧倒的な威圧感が全身の毛を逆立てる。紡は首筋を冷や汗が垂れるのを感じつつ、固唾を静かに飲み込んだ。悲鳴すらあがらず、歯がガチガチと音を鳴らす。

確定だ。この人は本格的に危ない。不審者とか犯罪者とかそういう次元を通り越して、命を脅かす危険性がある。
 何が見えるかなんて、答えられるはずも無い。単純にそれが何なのか分からないのもあるが、もっと根源的に「答えたら殺される」という野生の勘が囁いたのだ。
「し…知りません!」
紡はなんとか絞り出した言葉を最後に、踵を返してコンクリートの廊下を駆け出た。振り返る事は当然無かった。


[西唐野中学校・正門]
 登校時間の終了を示すチャイムが鳴る。紡はなんとかコンマ何秒の差で正門に滑り込み、脳裏に浮かんだ勝利のファンファーレに暫し酔いしれた。
 ジロッ。学校の玄関口に立っていた生徒指導の先生が、いつもの険しい顔でこちらを睨む。遅刻かどうかは最終的に彼がジャッジするのだが、基本的に時間ギリギリに来た生徒には容赦なく遅刻のレッテルを貼る事で知られている。
「遅かったな」
「はい。その…まあ色々ありまして」
先生は自身の猪首を掻き、意外にも少しだけ穏やかな口調で目を閉じた。
「…早く行け。大目に見といてやるよ」
「!。あ、ありがとうございます!」
まさか許されるとは思ってもおらず、素っ頓狂に声が裏返る。多分、珍しく紡が遅れたのには何らかの原因があると勘づいたのだろう。その洞察力、まさに花丸満点。
 正門を抜けて生徒玄関に入ると、学年ごとに分けられた下足箱の棚が来訪者を出迎える。朝は大抵混雑するこのフロアも、遅刻ギリギリの時点で人はほとんどいない。
急いで通学靴を上履きに履き替え、よれたカバンを肩に掛け直す。その一連の動作の中で、紡はついさっきの光景について深く思考した。
 一体あれは何だったんだろう。旭とあの象みたいな化け物が追いかけてくる事は幸いにも無く、ここまでの道のりは比較的安全なものだった。だからこそ、もし家で待ち伏せしていたら…といった煩雑した怯えが脳を支配する。と———ガシャアァァァァンッッ
「っ⁉︎」
狭苦しい空間に歪な高音が反響し、反射的に全身が萎縮する。まるで金属板の上に多くの金属片を溢したような凄まじい轟音だ。
(ま、まさか…⁉︎)
深い青の血色がどくんと脈打ち、紡を探している様子が容易に想像出来る。
「(今の音はガラスか?)」
真っ先に思い付いたのは、透明な窓硝子が何らかの衝撃で割れ、破片となって床に転がり落ちる図だ。まさか、外から強引に侵入したのだろうか。標的を殺すために。
「(もし僕が狙いなら……とりあえず交渉して外に出てもらおう。被害を出す訳にはいかない)」
それに理解するぐらいの理性はあってもらいたい。紡は乾いた下唇を軽く噛み、下足箱の影からそっと顔を出した。
 
「…………」
(ん?)
驚いた事に、音のした方にいたのは旭でも象の化け物でもなかった。ガラスも割れていない。一人の女子生徒が、下駄箱の下に転がった何かを拾い上げているだけだ。さっきの轟音はどうやら彼女が物を落とした音だったらしい。
(び、びっくりしたァ)
不安は拭えないままだが、ひとまずは安心だ。
 自教室へは一年次の下足箱を横切って行く必要がある。そういえば、件の女子生徒がいたのもその下足箱の辺りだ。何をどれだけ落としたらあんな音が鳴るのか無性に気になり、紡は通り過ぎる瞬間、しゃがみ込むその少女にほんの一瞬だけ目を下す。
「………っ‼︎」
彼女が拾っていたものは、全て鋏だった。

ー次回「|掻き立てる者」
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