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♯3「掻き立てる者」
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[西唐野中学校・2ー3教室]
急ぎ足で階段を駆け上り、ガヤつく自教室にドタドタと駆け込む。丁度紡が席に着いた時、ホームルームの開始を表すチャイムが耳触りに響いた。
分厚いジャケットに身を包んだ担任は教卓に立つなり、手慣れた手つきで出席簿に在席者の数だけ丸印を書き込む。作業を終えた後で、彼は自前のメモ帳に記入された連絡事項を端的に読み上げた。
間延びした担任の話の最中、彼の脳内を巡っていたのは今や「旭」や「象の化け物」ではない。ほんの数分前に見た、一年生の下駄箱の前で大量の鋏をばら撒いていた女性だ。
(幾つか鋏を落としていたってだけなら、僕だってそう不思議には思わない。けどあれは…明らかに何らかの資料で使うような量じゃなかった)
そして、硬直したこちらを眼鏡越しに見上げるあの冷たい目。経験は無いが、まるで死人に見られているかのような雰囲気があった。アパートで旭が見せた眼光に近いものを感じる。………何か関係があるんだろうか。
(いや。冷静に考えてあんな化け物といち学生が同族な訳ないか)
散々思考した挙句、議題は振り出しに戻る。これ以上の事案は無駄だと見切りをつけ、紡は諦めて今朝の旭の言葉を思い返した。危険度で言えば、何となくあの一年生より彼女の方が限りなく高い気がしている。
『君さ。澁屋 美久って子の事知らないかな』
「……!」
そういえば、旭に見せてもらったあの盗撮まがいの写真。あれに映っていた生徒の曇った表情は、下足箱で見た表情とやけに酷似していた気がする。というか、もしや彼女が澁谷 美久本人なのではないだろうか。………まあ、だから何だという話だが。と———
「おっはよー!。遅刻くん!」バシンッ
「うぐっ⁉︎」
薄い手のひらが繰り出す無加減の打撃が、紡の丸まった背中をしたたか打った。この音、この力……まあ目星は付いている。
「初奈ァ……っ」
うつ伏せの状態からなんとか顔を上げると、想像通りカラッと笑う幼馴染の姿があった。
晴咲 初奈。艶やかな黒いショートカットの髪に、こんがり焼けた赤茶色の肌が同系色に重なって見える。膨らみのない胸元をぴたっと覆うのは、少々時期外れの夏服だ。極度の暑がりである彼女は、小学生時代はいわゆる「年中半袖短パン」なやつだった。
性格はドがつく程のポジティブ。苗字の通り、いるだけで晴れを咲かせられるぐらいの明るさが特徴だ。彼女の気分がマイナスに振り切れている所など、幼稚園児の頃から一度たりも見たことな——
『——うわああああん!。ママぁぁぁ!パパぁぁぁ!』
………訂正。一回だけあったかも。と、それはまた今度って事で。
「どうした遅刻くん。私より遅いなんて、今日は槍でも降るんじゃない⁉︎」
「や、やかましいな…」
特に遅刻くんという呼び方がやかましい。いつもはただの呼び捨てだろ。
「色々あったんだよ。そっちこそ、いつもは遅刻常習犯のくせに今日はやけに早かったな」
「ふふんっ。まあ私が本気出せば?こんぐらい朝飯前な訳ですよ!」
初奈は両手を腰に添え、仰反りながらドヤ顔を見せた。初奈の更に後ろから「よく言うよ」と爽やかなツッコミが飛んでくる。紡は声の主に気付き、チラッとそちらを向いた。
宇部 隼人。彼も紡とは幼馴染であり、日本人の父とイギリス人の母の遺伝子を持つハーフである。それを象徴するように、ブロンドの短髪が整った顔とよく似合っていた。
人当たりがよく人脈も広いため、紡の友人の中では唯一「一軍」というポジションを担っている。それでも幼い頃から仲が良い初奈達と親しくしてくれるのだから、人の良さが現れているというものだ。
「昨日の放課後、『期限切れの提出物を朝一で先生に出さなきやいけない』って騒いでたのは誰だったかな?」
「うぐっ⁉︎」
あー、そういえばそうだった。だから早くに来たと。紡は自身と同じ嘔吐きを喰らったところを側から微笑んだ。
(なんか、全部夢だったみたいだ)
あれだけ恐ろしい思いをしたというのに。この二人といると、どんな不安も風に舞った塵のように何処かへ消えていく。当然緊張感なんてものはなく、教室の外からじっとこちらを見つめる一年生の視線には気付く訳も無かった。
[西唐野中学校・美術室]
———澁谷 美久は絵の具用のバケツいっぱいに重なった鋏の束を見下ろした。ボンドが刃先で固まったせいで切れ味が落ちているものもあれば、テープを剥がしたような跡が柄にくっきり残っているものもある。そしてその大半にはべったりと絵の具が付着していた。つまり、ずっと昔からこの美術室で使われてきた備品なのである。
「………」
最早それを見た所でどうとも思わない。自分のロッカーを開けると大量の鋏が降ってくるという危険極まりないトラップも、四回目となれば大したリアクションも必要無くなる。
ホームルームが終わってから、もう五分は経過している。そろそろ一限目が始まる頃だ。空気のこもった教室から急いで出ようと出入口を振り向く。と——
「ニヒニヒ…よう、澁谷ァ」
痰が絡んだような薄気味悪い声。美久は鋏とバケツをもとの戸棚に置いてから、ただ一つの扉の辺りに佇む男共を一瞥した。
その数は計五人…見るだけで虫唾が走るような面々だ。小学校の頃から問題行動ばかり起こす奴らで、多くの教員を挫折まで追い込んだという妙な実績がある。法を犯していない事だけが唯一の救いという、しょうもない喧嘩グループとでも言おうか。
「………」
「無視すんなよ。ただ感想が聞きたいだけなんだって」
五人のうち、先ほど美久の苗字を呼んだ男が颯爽と前に出る。問題児共のある意味リーダー格…といえば聞こえは良いが、所詮は田舎の学校を牛耳るだけのお山の大将だ。
「……」
「今朝のサプライズプレゼントの感想さ!。ロッカーにいっぱい入ってたろ?。鋏がよ」
鋭く尖った目がとびきりニヤける。後方に立つ仲間らしき者共も、棒立ちする美久をケラケラと嘲笑った。
今朝の鋏雪崩は彼らが仕掛けたものだ。扉が開くと紐で繋がっていたバケツが大きく傾き、中のものがバラバラと目の前に落ちるという算段だ。まったく、その気力は何処か別のことに費やすべきである。
とはいえ、無差別にこんな事をしている訳じゃない。彼らが対象にした人物だけだ。下級生だろうが上級生だろうが関係ない。癪に触った奴は、何が何でもとことんいじめぬく。ただそれだけの事。
「おいおい。嬉しすぎて声も出ねえか」
美久の塩対応に痺れを切らしたのか、男は大きく舌を打った。「対象」の継続と言った所か。
彼らに目をつけられる条件は様々だ。金を貸さなかったとか、自分らに席を譲らなかったとか、日々の行動を注意したとか……酷い時なんかは、小六の頃「不機嫌な時に会釈してきた」とか言って一年生を対象にしたなんて事もあった。
まあそんな対象者が、今は美久なのである。丁度前述した一年生の件をたまたまカメラに収め、先生に提出した所、ちくり魔として認定されてしまったのだ。今日で大体一年か。
「ッチ。しょうもねえ。少しは逃げるとかビビるとかすれば良いのによ」
逃げるも何も、たった一つの出入り口はあんたらが今塞いでるんでしょうが。それに、こんなチンピラにも満たない奴らにビビるなんてありえない。
「………ん?」
取り巻きの一人が、美久の姿を見て眉を顰める。その視線の先には、不自然に膨らんだスカートのポケットがあった。ハンカチやポケットティッシュがそのまま入っているにしてはやや大きすぎる。
「おい澁谷。それ、出してみろ」
「………ッ」
彼らの発言で冷や汗が湧き出たのはこれが初めてだ。しくじった…と美久はさりげなく拳を握りしめた。
「何だなんだ。そんなに見せたくねえもんかよ」
リーダー格の男は両腕を組み、はあっと溜息を吐いた。
本来、普通の感覚なら。他人に知られたくないという者の秘密を強引に聞き出す事は、あまり良くない事だと分かるだろう。だがしかし、彼らの感性は戻りようが無いほどに捻じ曲がっている。
彼は辞めるどころかずけずけと美久の元まで近づいてきた。
「……ッ!」
美久は思わず一歩退いた。上履きの踵に何か硬いものがぶつかる。振り向かなくても、鋏を収納した戸棚が真後ろにある事は理解出来た。まあ、状況は全く良い方向に進んでいないが。
「ははっ。やあっと怖気付いてくれたか。ニヒニヒッ」
獲物が醜く逃げ始めたため、彼はこれまで以上に輝く笑顔を見せた。残る四人の男達も、美久を取り囲むようにぞろぞろと歩いてくる。
逃走経路はほぼ無いに等しい。かろうじて存在するといえる逃げ道は、人と人の間じゃない。警戒薄な壁際と一人の間だ。
一か八かの判断で、美久はその逃走ルートに駆け込んだ。が——
「………ぐっ」
「はい、ざんね~ん。二ヒヒヒヒッ」
反復横跳びの要領で、中央を歩いていた男が急に美久の体を拘束する。振り解こうと踠く程、彼はいじめの実感を帯びて僅かに興奮した。取り巻きのうちの二人に美久の身を流れ渡す。
「どれ、何が入ってんのかなあ?」
スカートの折り目に隠れて見えなかったが、膨らんだポケットからは同系色の紐がだらんと下がっている。それを乱暴に引っ掴んだ途端、美久の目の色がパッと変わった。
「離せ!触れるなっ!離せっ!」
「はははっ!なになに、超必死じゃん」
紐を掴んだ男は高ぶる感情に思わずニヤけ、するりとスカートのポケットからそれを抜き取った。
露出したのは、おそらく手製で編まれたであろう巾着袋だった。チョコチップクッキーの柄が施された可愛らしいデザインの反面、縫い目の細かさや風合いがどこか懐かしさすら思わせる。
「……なんだこれ。ただのポーチじゃねえか」
中身も、ティッシュだのハンカチだの絆創膏だのと大して映えもしないものばかりだ。こんなものにどうして感情を荒げられるのか、不思議でならない。
「離せ!返せッ!」
「………ニヒ。そんなに返して欲しいのかぁ」
男は再度口角を上げ、美久のポーチを自身のポケットに滑り込ませた。
「なら昼休み、校舎裏に取りに来い。もし来なかったら…」
チラッと戸棚の鋏を一瞥する。
「そん時はズッタズタにしてやるよ。ボロ雑巾と見分けがつかないぐらいにな!」
両脇に立つ取り巻きは、その言葉を合図にして美久をその場に放った。彼らは一斉に踵を返し、美術室の入り口に向かって去っていく。殴りかかってでも止めてやりたかったが、不思議と体は動かない。彼らが完全にいなくなったのを確認し、美久はその場にぺたんと膝を突いた。
足が震えている。疲労も酷い。まだ朝方なのに、体力も精神もとっくに擦り切れていた。
「……ふざけんな…ッ!」ゴンッ
大切なものを奪ったあいつらに、そして抵抗すらできなかった自分自身に紛れもない怒りを感じ、意味もなく床の木板に拳を振り下ろす。助けは来ない。来てもどうせ同じだ。
奴らのグループが反省する時など、きっと一生こない。それだけは分かっていた。
そろそろ立ち上がって、自教室に戻らないと。もうじき授業の開始時刻だ。
「———うぐっ⁉︎」
内側から膨れるような痛みが全身を刺激し、美久は心臓を押さえたままその場に跪いた。体を襲ったのは、それまでに感じていた疲れでも恐怖でもない。何かが体の奥底から湧き出るような、妙な感覚だ。
熱い。痛い。彼らが出て行った出入り口を見るが、ニヤニヤとこちらを観察している様子はない。なんの事象なのか判別もつかないまま、眼鏡越しに潤んだ美久の瞳は固く閉ざされた。
ー次回「塵を切り刻む者」
急ぎ足で階段を駆け上り、ガヤつく自教室にドタドタと駆け込む。丁度紡が席に着いた時、ホームルームの開始を表すチャイムが耳触りに響いた。
分厚いジャケットに身を包んだ担任は教卓に立つなり、手慣れた手つきで出席簿に在席者の数だけ丸印を書き込む。作業を終えた後で、彼は自前のメモ帳に記入された連絡事項を端的に読み上げた。
間延びした担任の話の最中、彼の脳内を巡っていたのは今や「旭」や「象の化け物」ではない。ほんの数分前に見た、一年生の下駄箱の前で大量の鋏をばら撒いていた女性だ。
(幾つか鋏を落としていたってだけなら、僕だってそう不思議には思わない。けどあれは…明らかに何らかの資料で使うような量じゃなかった)
そして、硬直したこちらを眼鏡越しに見上げるあの冷たい目。経験は無いが、まるで死人に見られているかのような雰囲気があった。アパートで旭が見せた眼光に近いものを感じる。………何か関係があるんだろうか。
(いや。冷静に考えてあんな化け物といち学生が同族な訳ないか)
散々思考した挙句、議題は振り出しに戻る。これ以上の事案は無駄だと見切りをつけ、紡は諦めて今朝の旭の言葉を思い返した。危険度で言えば、何となくあの一年生より彼女の方が限りなく高い気がしている。
『君さ。澁屋 美久って子の事知らないかな』
「……!」
そういえば、旭に見せてもらったあの盗撮まがいの写真。あれに映っていた生徒の曇った表情は、下足箱で見た表情とやけに酷似していた気がする。というか、もしや彼女が澁谷 美久本人なのではないだろうか。………まあ、だから何だという話だが。と———
「おっはよー!。遅刻くん!」バシンッ
「うぐっ⁉︎」
薄い手のひらが繰り出す無加減の打撃が、紡の丸まった背中をしたたか打った。この音、この力……まあ目星は付いている。
「初奈ァ……っ」
うつ伏せの状態からなんとか顔を上げると、想像通りカラッと笑う幼馴染の姿があった。
晴咲 初奈。艶やかな黒いショートカットの髪に、こんがり焼けた赤茶色の肌が同系色に重なって見える。膨らみのない胸元をぴたっと覆うのは、少々時期外れの夏服だ。極度の暑がりである彼女は、小学生時代はいわゆる「年中半袖短パン」なやつだった。
性格はドがつく程のポジティブ。苗字の通り、いるだけで晴れを咲かせられるぐらいの明るさが特徴だ。彼女の気分がマイナスに振り切れている所など、幼稚園児の頃から一度たりも見たことな——
『——うわああああん!。ママぁぁぁ!パパぁぁぁ!』
………訂正。一回だけあったかも。と、それはまた今度って事で。
「どうした遅刻くん。私より遅いなんて、今日は槍でも降るんじゃない⁉︎」
「や、やかましいな…」
特に遅刻くんという呼び方がやかましい。いつもはただの呼び捨てだろ。
「色々あったんだよ。そっちこそ、いつもは遅刻常習犯のくせに今日はやけに早かったな」
「ふふんっ。まあ私が本気出せば?こんぐらい朝飯前な訳ですよ!」
初奈は両手を腰に添え、仰反りながらドヤ顔を見せた。初奈の更に後ろから「よく言うよ」と爽やかなツッコミが飛んでくる。紡は声の主に気付き、チラッとそちらを向いた。
宇部 隼人。彼も紡とは幼馴染であり、日本人の父とイギリス人の母の遺伝子を持つハーフである。それを象徴するように、ブロンドの短髪が整った顔とよく似合っていた。
人当たりがよく人脈も広いため、紡の友人の中では唯一「一軍」というポジションを担っている。それでも幼い頃から仲が良い初奈達と親しくしてくれるのだから、人の良さが現れているというものだ。
「昨日の放課後、『期限切れの提出物を朝一で先生に出さなきやいけない』って騒いでたのは誰だったかな?」
「うぐっ⁉︎」
あー、そういえばそうだった。だから早くに来たと。紡は自身と同じ嘔吐きを喰らったところを側から微笑んだ。
(なんか、全部夢だったみたいだ)
あれだけ恐ろしい思いをしたというのに。この二人といると、どんな不安も風に舞った塵のように何処かへ消えていく。当然緊張感なんてものはなく、教室の外からじっとこちらを見つめる一年生の視線には気付く訳も無かった。
[西唐野中学校・美術室]
———澁谷 美久は絵の具用のバケツいっぱいに重なった鋏の束を見下ろした。ボンドが刃先で固まったせいで切れ味が落ちているものもあれば、テープを剥がしたような跡が柄にくっきり残っているものもある。そしてその大半にはべったりと絵の具が付着していた。つまり、ずっと昔からこの美術室で使われてきた備品なのである。
「………」
最早それを見た所でどうとも思わない。自分のロッカーを開けると大量の鋏が降ってくるという危険極まりないトラップも、四回目となれば大したリアクションも必要無くなる。
ホームルームが終わってから、もう五分は経過している。そろそろ一限目が始まる頃だ。空気のこもった教室から急いで出ようと出入口を振り向く。と——
「ニヒニヒ…よう、澁谷ァ」
痰が絡んだような薄気味悪い声。美久は鋏とバケツをもとの戸棚に置いてから、ただ一つの扉の辺りに佇む男共を一瞥した。
その数は計五人…見るだけで虫唾が走るような面々だ。小学校の頃から問題行動ばかり起こす奴らで、多くの教員を挫折まで追い込んだという妙な実績がある。法を犯していない事だけが唯一の救いという、しょうもない喧嘩グループとでも言おうか。
「………」
「無視すんなよ。ただ感想が聞きたいだけなんだって」
五人のうち、先ほど美久の苗字を呼んだ男が颯爽と前に出る。問題児共のある意味リーダー格…といえば聞こえは良いが、所詮は田舎の学校を牛耳るだけのお山の大将だ。
「……」
「今朝のサプライズプレゼントの感想さ!。ロッカーにいっぱい入ってたろ?。鋏がよ」
鋭く尖った目がとびきりニヤける。後方に立つ仲間らしき者共も、棒立ちする美久をケラケラと嘲笑った。
今朝の鋏雪崩は彼らが仕掛けたものだ。扉が開くと紐で繋がっていたバケツが大きく傾き、中のものがバラバラと目の前に落ちるという算段だ。まったく、その気力は何処か別のことに費やすべきである。
とはいえ、無差別にこんな事をしている訳じゃない。彼らが対象にした人物だけだ。下級生だろうが上級生だろうが関係ない。癪に触った奴は、何が何でもとことんいじめぬく。ただそれだけの事。
「おいおい。嬉しすぎて声も出ねえか」
美久の塩対応に痺れを切らしたのか、男は大きく舌を打った。「対象」の継続と言った所か。
彼らに目をつけられる条件は様々だ。金を貸さなかったとか、自分らに席を譲らなかったとか、日々の行動を注意したとか……酷い時なんかは、小六の頃「不機嫌な時に会釈してきた」とか言って一年生を対象にしたなんて事もあった。
まあそんな対象者が、今は美久なのである。丁度前述した一年生の件をたまたまカメラに収め、先生に提出した所、ちくり魔として認定されてしまったのだ。今日で大体一年か。
「ッチ。しょうもねえ。少しは逃げるとかビビるとかすれば良いのによ」
逃げるも何も、たった一つの出入り口はあんたらが今塞いでるんでしょうが。それに、こんなチンピラにも満たない奴らにビビるなんてありえない。
「………ん?」
取り巻きの一人が、美久の姿を見て眉を顰める。その視線の先には、不自然に膨らんだスカートのポケットがあった。ハンカチやポケットティッシュがそのまま入っているにしてはやや大きすぎる。
「おい澁谷。それ、出してみろ」
「………ッ」
彼らの発言で冷や汗が湧き出たのはこれが初めてだ。しくじった…と美久はさりげなく拳を握りしめた。
「何だなんだ。そんなに見せたくねえもんかよ」
リーダー格の男は両腕を組み、はあっと溜息を吐いた。
本来、普通の感覚なら。他人に知られたくないという者の秘密を強引に聞き出す事は、あまり良くない事だと分かるだろう。だがしかし、彼らの感性は戻りようが無いほどに捻じ曲がっている。
彼は辞めるどころかずけずけと美久の元まで近づいてきた。
「……ッ!」
美久は思わず一歩退いた。上履きの踵に何か硬いものがぶつかる。振り向かなくても、鋏を収納した戸棚が真後ろにある事は理解出来た。まあ、状況は全く良い方向に進んでいないが。
「ははっ。やあっと怖気付いてくれたか。ニヒニヒッ」
獲物が醜く逃げ始めたため、彼はこれまで以上に輝く笑顔を見せた。残る四人の男達も、美久を取り囲むようにぞろぞろと歩いてくる。
逃走経路はほぼ無いに等しい。かろうじて存在するといえる逃げ道は、人と人の間じゃない。警戒薄な壁際と一人の間だ。
一か八かの判断で、美久はその逃走ルートに駆け込んだ。が——
「………ぐっ」
「はい、ざんね~ん。二ヒヒヒヒッ」
反復横跳びの要領で、中央を歩いていた男が急に美久の体を拘束する。振り解こうと踠く程、彼はいじめの実感を帯びて僅かに興奮した。取り巻きのうちの二人に美久の身を流れ渡す。
「どれ、何が入ってんのかなあ?」
スカートの折り目に隠れて見えなかったが、膨らんだポケットからは同系色の紐がだらんと下がっている。それを乱暴に引っ掴んだ途端、美久の目の色がパッと変わった。
「離せ!触れるなっ!離せっ!」
「はははっ!なになに、超必死じゃん」
紐を掴んだ男は高ぶる感情に思わずニヤけ、するりとスカートのポケットからそれを抜き取った。
露出したのは、おそらく手製で編まれたであろう巾着袋だった。チョコチップクッキーの柄が施された可愛らしいデザインの反面、縫い目の細かさや風合いがどこか懐かしさすら思わせる。
「……なんだこれ。ただのポーチじゃねえか」
中身も、ティッシュだのハンカチだの絆創膏だのと大して映えもしないものばかりだ。こんなものにどうして感情を荒げられるのか、不思議でならない。
「離せ!返せッ!」
「………ニヒ。そんなに返して欲しいのかぁ」
男は再度口角を上げ、美久のポーチを自身のポケットに滑り込ませた。
「なら昼休み、校舎裏に取りに来い。もし来なかったら…」
チラッと戸棚の鋏を一瞥する。
「そん時はズッタズタにしてやるよ。ボロ雑巾と見分けがつかないぐらいにな!」
両脇に立つ取り巻きは、その言葉を合図にして美久をその場に放った。彼らは一斉に踵を返し、美術室の入り口に向かって去っていく。殴りかかってでも止めてやりたかったが、不思議と体は動かない。彼らが完全にいなくなったのを確認し、美久はその場にぺたんと膝を突いた。
足が震えている。疲労も酷い。まだ朝方なのに、体力も精神もとっくに擦り切れていた。
「……ふざけんな…ッ!」ゴンッ
大切なものを奪ったあいつらに、そして抵抗すらできなかった自分自身に紛れもない怒りを感じ、意味もなく床の木板に拳を振り下ろす。助けは来ない。来てもどうせ同じだ。
奴らのグループが反省する時など、きっと一生こない。それだけは分かっていた。
そろそろ立ち上がって、自教室に戻らないと。もうじき授業の開始時刻だ。
「———うぐっ⁉︎」
内側から膨れるような痛みが全身を刺激し、美久は心臓を押さえたままその場に跪いた。体を襲ったのは、それまでに感じていた疲れでも恐怖でもない。何かが体の奥底から湧き出るような、妙な感覚だ。
熱い。痛い。彼らが出て行った出入り口を見るが、ニヤニヤとこちらを観察している様子はない。なんの事象なのか判別もつかないまま、眼鏡越しに潤んだ美久の瞳は固く閉ざされた。
ー次回「塵を切り刻む者」
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