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♯24「秘めた力を活かす者」
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[豊穣商店街・鳩巣公園]
豊穣商店街の大部分は巨大な半円の屋根に覆われており、プラスチック越しに差した陽光が街灯の役目を果たしている。だが大通りからほんの少し脇道に外れるとそんなものはなくなる。
紡と旭が向かい合って立っている鳩巣公園も同じだ。春先にも関わらずてらてらと光を増す太陽のおかげで、草木はたっぷりと栄養を浴びる事ができている。膝下辺りにまで伸びきった雑草の絨毯と、太く大きく背を伸ばす数十の木々。
公園というか、こんなに殺風景ではもはや空き地だ。昼過ぎという公園の一番の繁忙時に子供どころか人っ子一人見受けられないところを見ると、ますますそう言わざるを得ない。木漏れ日を眼下に納めながら、旭は小さく頷いた。
「うん。ここなら一目につかない。万一纏が暴れても通行人への被害は防げるだろうね」
紡をその場に留まらせ、距離を取るため数メートルほど後退する。雑草を踏み倒す音がやけに大きく耳へ届く。
何故こんな辺鄙な所に来たのかと言えば、先日出現した紡の纏を旭が見たいとせがんだからだ。まあ正直見て…いや診てもらいたくもあったし、別に抵抗はしなかったが。
「じゃあやってみて」
「は、はいっ」
マイナスな思考よりも先に威勢のいい返事が出てから、紡はすぐさま困り果てた。
「えっと。どうすれば……?」
うっすら苦笑いを浮かべると、旭は腕を組んだままがくりと躓きかけた。やれやれと首を振り、白い指先で頬を軽く掻く。
「どうって、君は一回纏を出したんだろう?要領はその時と同じさ」呆れ顔で揶揄うように笑う旭。
ぶっちゃけた話、纏を出した時の感覚や記憶は非常に朧げだった。たい焼きの化け物を倒さなければという一心で、それ以外の事への認知が疎かになっていた。そう考えるのが妥当だろう。
「よく覚えてません。あの時は目の前の纏に夢中だったし…」
旭はふむ…と瞼を閉じて考え込み、数秒の間を置いて返事をした。
「その時の感情は覚えてないか?前にも話したが、纏は感情の増幅が心のキャパを超える事で発生する。
例外は少ながらずあれど、引き金となり得るものの多くは感情だ」
感情…か。霞掛かった奥にちらりと見えるだけだが、紡は必死に掻き分けて記憶を呼び起こした。
「憤怒」ショッピングモールを破壊し、親友や多くの人を危険に晒した纏への怒り。
「絶望」圧倒的な破壊力と威圧感になす術もなく、ガラスと共に砕け散った希望。
「衝撃」今までに見た三人(旭、美久、元リーダー)の纏と明らかに違う「知性のない狂気」。
どれもあの日、紡の心を刺激した感情ばかりだ。あれほどまでに気持ちが右往左往した日はそうそうないだろう。がしかし、旭の問いへの回答として出た言葉は、それらを凌駕するほどに強い想いだった。
「恐怖…」
「恐怖?」
旭は驚いた眼差しで鸚鵡返しに質問した。聞かれたところでそれ以上の答えは出ない。ただただ恐ろしかった。それだけのことだ。
「これまでに何度か纏を見て、どれもパニックに陥るぐらい怖かった。耐性ならついていると思ってたんです」
膨れ上がる羞恥心が顔面を火炙りにする。慢心していたつもりはない。だが実際纏を目の前にした時、心の奥底でそう思っていた事が露呈した。その結果、震え上がるような恐怖が纏を引き起こした、と。なんとも情けない話だ。どうか笑ってくれと顔を上げた時だ。
「耐性なんてつかない」
気落ちする青年に向けて、旭はパリッとした声で告げた。カフェに入る前にタバコを携帯用の吸い殻入れへ捨てたので、吐く息は然程白くない。
「断言しよう。全ての纏に完全に慣れるなんて事はあり得ないよ」
紡はハッと目を丸めた。一番耐性がありそうな人がそれを言うとは、夢にも思わなかった。
「旭さんもですか?」
「ああ。日常的に纏と相対するようになって暫く経つが、微塵も恐ろしくなかった時なんて一度もない」
少し大袈裟…いや、そんな感じではない。彼女の言葉は紛れもない真実だ。少なくとも紡の洞察力はそう囁いている。
信じられないという面持ちで相槌を打つと、旭は返って真面目に返答した。
「そりゃそうだろう。君が鮫や虎の生態にとても詳しかったとして、安易に巣穴に乗り込んだりするか?」
紡はぶんぶん首を振る。言いたい事はなんとなく分かった。
「だろう?防護服を着るなり対抗手段を身につけるなり、念入りに準備をする。その根本はどれも「死ぬかもしれない」という恐怖の感情な訳さ」
押し寄せていた筈の羞恥心が剥がれ落ちていく。彼女の声は掴み所がないようで、何処となく安堵するのが不思議なところだ。
「人間の力じゃどうしようも無いもの、それが纏なんだ。恐れて当然…というか、君はそこんとこすっかり理解してると思ってたよ」
「なんの過信ですか、それ」
そう…過信だ。紡自身の力は、旭には到底及ばない。
発言はしなかったが、「恐怖」が纏の引き金となった理由として思い当たる節がもう一つだけあった。今までに纏と敵対したどの時にも、根底にあった希望。
「きっと旭さんが助けに来てくれる」という絶対的な信頼の喪失が、恐怖を増大させるきっかけとなった…という仮説だ。
「さて。じゃあ恐怖を与えれば纏が現れる訳だ」
………ん?んん?
ほんのり温かくなっていた胸の辺りに、氷の礫が鋭く突き刺さる。今彼女は何と言った?
「いや~簡単で良かったよ。カモン、ネイシャ!」
旭は体の前で纏うものをギュッと掴み、勢いよくそれを引き剥がした。嫌な予感とはこうして心がざわめくことを言うのか。
「ちょ、へ?」
「ボルァァァンッ!」
鯨の鳴き声ように低く唸りながら、白い気に包まれるズニーシャの纏が軌道を描いて現れる。旭はサングラス越しに紺色の肌を摩り、指示を耳打ちした。
「ネイシャ。軽く遊んであげな」
「ボルルル…‼︎」
「ま、ままま待って旭さん!やっぱり恐怖じゃなかったかも!楽しいとか喜びとかだったかもおおぉぉ!」
決死の訴えも虚しく、纏は巨木のような前足をこちらへ振り下ろした。ペシャンコになる寸前、悪魔のような笑みを見せる旭を見て強く思った。
(あの人は希望なんかじゃない。———死神だ)と。
[豊穣商店街・鳩巣公園]
街に溶けていく茜色の夕陽。鴉が「くぁ、くぁ」と繰り返し鳴く様子は、徐々に寒気を帯びる大気と相待って僅かな寂しさを孕んでいる。三方向を建物に囲まれたこの場所は、昼間でなければ碌に太陽光が入ってこない。
どれだけ時間が経ったのだろう。来た時に比べて暗がりを増す草原の真ん中で、紡は仰向けにバタンと倒れ込んだ。空の赤さのみが視界を支配する。
「どうだい青年。纏は出せそう?」
遠くで旭の声がしたため、紡は出来るだけ声を張って「いいえ」と返した。思ったより掠れた声しか出なかったのは、何時間も叫びながら纏から逃げていたからだ。
「うーん。恐怖が足りてないのかな。あと三時間ぐらい追加で…」
「いいですいいです!結構です!」
これ以上は大事な何かに支障をきたすおそれがある。
旭の纏は問答無用で紡を追いかけ回した。単純な追いかけっこならまだマシだが、相手はその体躯を利用して突進やらのしかかりなんかで紡の自由を奪ってくる。
なんとか拘束から這い出たとしても、次に待っているのは長い象鼻による叩きつけか締め付けだ。多少の手加減はされているだろうが、にしてもただの一般中学生が受けて良い火力ではない。
しかし、疲れはしたが不思議と恐怖の感情はイマイチだった。いやまあ無論恐ろしくはあったのだが、纏が初めて現れた時の…芯から震えるような恐怖にはとても敵わなかっのだ。
赤らんだ空の縁から旭が顔を出す。ネイシャは心へ纏わせたようだ。彼女はこちらへ手を差しのべながら己の見解を語った。
「自然発生を人工的に再現するのは難しい、って事だね。自分で纏を出現される他ないよ」
旭の手を取り、よろけながらも必死に立ち上がる。頬に伝った汗を反射的に拭った時、地面が泥や土じゃなくて本当に良かったと思った。
「自分で、ですか」
「ん。まあ特訓には時間が掛かるだろうけど、コツさえ掴めばすぐ出来るようになる…と思うよ」
旭はあえて曖昧な言葉を選んだ。それもそうか。今の所、そんなふうに自分の意思で纏を出現させられる人は彼女意外知らない。見よう見まねで出来るような技じゃないって事だ。
「………あの、旭さん」
「うん?」
旭は分かりきったように目線を逸らした。乱れた呼吸をなんとか整え、曲がらない決意を唇に乗せる。
「僕を…貴方の助手にして下さい」
繁華街から聞こえてくる雑多な音も、風に遊ばれて揺れる草木の音も、何もかもが鼓膜まで届かない。
シンと張り詰めた空気の中で、旭は食らった顔でこちらを見ていた。想像していたものとは少々違う言葉だったらしい。
「これは…驚いたな」
絞り出したセリフはどこか浮ついていて、驚愕の表情の裏に何か別の感情が隠れていた。たじろぎながらも続ける。
「そんなセリフ、逆さにしても出てこないと思ってたよ。君は私を嫌っているとばかり思ってた」
嫌っている?たしかに意見の相違はいくつかあったが、別にそう言い切るほどじゃない。紡はまさか、と肩をすくめた。
「形は別に助手じゃなくたって良いんです。理由はわからないけど、僕の目には纏が映ってしまった。それには、何かしらの意味があるんだと思いました」
本当は今日、真っ先にこの事を伝えようと思っていた。踏ん切りが付かなかったのと、余計な戦闘のせいで曖昧になっていたのだ。
「たとえば?」
「えっと…ありきたりですけど、纏の被害に遭った人を助けるとか……?」
「———っ」
なんとも子供じみた例えだ。旭は押し黙ると途端にふふっと吹き出し、今までにない和かな表情を見せた。それぐらいの幼稚さだったという事か。
「良いねいいね。実に君らしいよ」
「は、はあ」
何処となく馬鹿にされている感じが否めないが…まあ、素直に褒められていると受け取っておこう。
「人を…纏を…救うことが出来るなら、そうするのが僕の役目かなって」
自分の力だけで実行するには無理がある。だが彼女の下であれば、見習いという形で纏に携わる事が出来る。
もう未知の怪物から逃げるのはやめだ。朝日の言う通り自分がイレギュラーだと言うのなら、それを活かすしかないだろう。
「助手の件、正直願ったり叶ったりだよ。今は全くと言っていいほど人手が足りてないんだ」
旭は握り拳を作り、紡の前までピンと突き出した。すぐにグータッチのサインだと気付き、こちらも同じ腕を突き合わせる。
「改めて、よろしくお願います。旭さん」
「ん。よろしく、青年」
定刻を示す鐘が轟々と響き、以前彼女と決別した日を思い出す。あの日見た悲しい無表情とは違い、何処か満足げな笑みが輝かしい陽光を纏っていた。
次回 「根拠なき噂を介す者」
豊穣商店街の大部分は巨大な半円の屋根に覆われており、プラスチック越しに差した陽光が街灯の役目を果たしている。だが大通りからほんの少し脇道に外れるとそんなものはなくなる。
紡と旭が向かい合って立っている鳩巣公園も同じだ。春先にも関わらずてらてらと光を増す太陽のおかげで、草木はたっぷりと栄養を浴びる事ができている。膝下辺りにまで伸びきった雑草の絨毯と、太く大きく背を伸ばす数十の木々。
公園というか、こんなに殺風景ではもはや空き地だ。昼過ぎという公園の一番の繁忙時に子供どころか人っ子一人見受けられないところを見ると、ますますそう言わざるを得ない。木漏れ日を眼下に納めながら、旭は小さく頷いた。
「うん。ここなら一目につかない。万一纏が暴れても通行人への被害は防げるだろうね」
紡をその場に留まらせ、距離を取るため数メートルほど後退する。雑草を踏み倒す音がやけに大きく耳へ届く。
何故こんな辺鄙な所に来たのかと言えば、先日出現した紡の纏を旭が見たいとせがんだからだ。まあ正直見て…いや診てもらいたくもあったし、別に抵抗はしなかったが。
「じゃあやってみて」
「は、はいっ」
マイナスな思考よりも先に威勢のいい返事が出てから、紡はすぐさま困り果てた。
「えっと。どうすれば……?」
うっすら苦笑いを浮かべると、旭は腕を組んだままがくりと躓きかけた。やれやれと首を振り、白い指先で頬を軽く掻く。
「どうって、君は一回纏を出したんだろう?要領はその時と同じさ」呆れ顔で揶揄うように笑う旭。
ぶっちゃけた話、纏を出した時の感覚や記憶は非常に朧げだった。たい焼きの化け物を倒さなければという一心で、それ以外の事への認知が疎かになっていた。そう考えるのが妥当だろう。
「よく覚えてません。あの時は目の前の纏に夢中だったし…」
旭はふむ…と瞼を閉じて考え込み、数秒の間を置いて返事をした。
「その時の感情は覚えてないか?前にも話したが、纏は感情の増幅が心のキャパを超える事で発生する。
例外は少ながらずあれど、引き金となり得るものの多くは感情だ」
感情…か。霞掛かった奥にちらりと見えるだけだが、紡は必死に掻き分けて記憶を呼び起こした。
「憤怒」ショッピングモールを破壊し、親友や多くの人を危険に晒した纏への怒り。
「絶望」圧倒的な破壊力と威圧感になす術もなく、ガラスと共に砕け散った希望。
「衝撃」今までに見た三人(旭、美久、元リーダー)の纏と明らかに違う「知性のない狂気」。
どれもあの日、紡の心を刺激した感情ばかりだ。あれほどまでに気持ちが右往左往した日はそうそうないだろう。がしかし、旭の問いへの回答として出た言葉は、それらを凌駕するほどに強い想いだった。
「恐怖…」
「恐怖?」
旭は驚いた眼差しで鸚鵡返しに質問した。聞かれたところでそれ以上の答えは出ない。ただただ恐ろしかった。それだけのことだ。
「これまでに何度か纏を見て、どれもパニックに陥るぐらい怖かった。耐性ならついていると思ってたんです」
膨れ上がる羞恥心が顔面を火炙りにする。慢心していたつもりはない。だが実際纏を目の前にした時、心の奥底でそう思っていた事が露呈した。その結果、震え上がるような恐怖が纏を引き起こした、と。なんとも情けない話だ。どうか笑ってくれと顔を上げた時だ。
「耐性なんてつかない」
気落ちする青年に向けて、旭はパリッとした声で告げた。カフェに入る前にタバコを携帯用の吸い殻入れへ捨てたので、吐く息は然程白くない。
「断言しよう。全ての纏に完全に慣れるなんて事はあり得ないよ」
紡はハッと目を丸めた。一番耐性がありそうな人がそれを言うとは、夢にも思わなかった。
「旭さんもですか?」
「ああ。日常的に纏と相対するようになって暫く経つが、微塵も恐ろしくなかった時なんて一度もない」
少し大袈裟…いや、そんな感じではない。彼女の言葉は紛れもない真実だ。少なくとも紡の洞察力はそう囁いている。
信じられないという面持ちで相槌を打つと、旭は返って真面目に返答した。
「そりゃそうだろう。君が鮫や虎の生態にとても詳しかったとして、安易に巣穴に乗り込んだりするか?」
紡はぶんぶん首を振る。言いたい事はなんとなく分かった。
「だろう?防護服を着るなり対抗手段を身につけるなり、念入りに準備をする。その根本はどれも「死ぬかもしれない」という恐怖の感情な訳さ」
押し寄せていた筈の羞恥心が剥がれ落ちていく。彼女の声は掴み所がないようで、何処となく安堵するのが不思議なところだ。
「人間の力じゃどうしようも無いもの、それが纏なんだ。恐れて当然…というか、君はそこんとこすっかり理解してると思ってたよ」
「なんの過信ですか、それ」
そう…過信だ。紡自身の力は、旭には到底及ばない。
発言はしなかったが、「恐怖」が纏の引き金となった理由として思い当たる節がもう一つだけあった。今までに纏と敵対したどの時にも、根底にあった希望。
「きっと旭さんが助けに来てくれる」という絶対的な信頼の喪失が、恐怖を増大させるきっかけとなった…という仮説だ。
「さて。じゃあ恐怖を与えれば纏が現れる訳だ」
………ん?んん?
ほんのり温かくなっていた胸の辺りに、氷の礫が鋭く突き刺さる。今彼女は何と言った?
「いや~簡単で良かったよ。カモン、ネイシャ!」
旭は体の前で纏うものをギュッと掴み、勢いよくそれを引き剥がした。嫌な予感とはこうして心がざわめくことを言うのか。
「ちょ、へ?」
「ボルァァァンッ!」
鯨の鳴き声ように低く唸りながら、白い気に包まれるズニーシャの纏が軌道を描いて現れる。旭はサングラス越しに紺色の肌を摩り、指示を耳打ちした。
「ネイシャ。軽く遊んであげな」
「ボルルル…‼︎」
「ま、ままま待って旭さん!やっぱり恐怖じゃなかったかも!楽しいとか喜びとかだったかもおおぉぉ!」
決死の訴えも虚しく、纏は巨木のような前足をこちらへ振り下ろした。ペシャンコになる寸前、悪魔のような笑みを見せる旭を見て強く思った。
(あの人は希望なんかじゃない。———死神だ)と。
[豊穣商店街・鳩巣公園]
街に溶けていく茜色の夕陽。鴉が「くぁ、くぁ」と繰り返し鳴く様子は、徐々に寒気を帯びる大気と相待って僅かな寂しさを孕んでいる。三方向を建物に囲まれたこの場所は、昼間でなければ碌に太陽光が入ってこない。
どれだけ時間が経ったのだろう。来た時に比べて暗がりを増す草原の真ん中で、紡は仰向けにバタンと倒れ込んだ。空の赤さのみが視界を支配する。
「どうだい青年。纏は出せそう?」
遠くで旭の声がしたため、紡は出来るだけ声を張って「いいえ」と返した。思ったより掠れた声しか出なかったのは、何時間も叫びながら纏から逃げていたからだ。
「うーん。恐怖が足りてないのかな。あと三時間ぐらい追加で…」
「いいですいいです!結構です!」
これ以上は大事な何かに支障をきたすおそれがある。
旭の纏は問答無用で紡を追いかけ回した。単純な追いかけっこならまだマシだが、相手はその体躯を利用して突進やらのしかかりなんかで紡の自由を奪ってくる。
なんとか拘束から這い出たとしても、次に待っているのは長い象鼻による叩きつけか締め付けだ。多少の手加減はされているだろうが、にしてもただの一般中学生が受けて良い火力ではない。
しかし、疲れはしたが不思議と恐怖の感情はイマイチだった。いやまあ無論恐ろしくはあったのだが、纏が初めて現れた時の…芯から震えるような恐怖にはとても敵わなかっのだ。
赤らんだ空の縁から旭が顔を出す。ネイシャは心へ纏わせたようだ。彼女はこちらへ手を差しのべながら己の見解を語った。
「自然発生を人工的に再現するのは難しい、って事だね。自分で纏を出現される他ないよ」
旭の手を取り、よろけながらも必死に立ち上がる。頬に伝った汗を反射的に拭った時、地面が泥や土じゃなくて本当に良かったと思った。
「自分で、ですか」
「ん。まあ特訓には時間が掛かるだろうけど、コツさえ掴めばすぐ出来るようになる…と思うよ」
旭はあえて曖昧な言葉を選んだ。それもそうか。今の所、そんなふうに自分の意思で纏を出現させられる人は彼女意外知らない。見よう見まねで出来るような技じゃないって事だ。
「………あの、旭さん」
「うん?」
旭は分かりきったように目線を逸らした。乱れた呼吸をなんとか整え、曲がらない決意を唇に乗せる。
「僕を…貴方の助手にして下さい」
繁華街から聞こえてくる雑多な音も、風に遊ばれて揺れる草木の音も、何もかもが鼓膜まで届かない。
シンと張り詰めた空気の中で、旭は食らった顔でこちらを見ていた。想像していたものとは少々違う言葉だったらしい。
「これは…驚いたな」
絞り出したセリフはどこか浮ついていて、驚愕の表情の裏に何か別の感情が隠れていた。たじろぎながらも続ける。
「そんなセリフ、逆さにしても出てこないと思ってたよ。君は私を嫌っているとばかり思ってた」
嫌っている?たしかに意見の相違はいくつかあったが、別にそう言い切るほどじゃない。紡はまさか、と肩をすくめた。
「形は別に助手じゃなくたって良いんです。理由はわからないけど、僕の目には纏が映ってしまった。それには、何かしらの意味があるんだと思いました」
本当は今日、真っ先にこの事を伝えようと思っていた。踏ん切りが付かなかったのと、余計な戦闘のせいで曖昧になっていたのだ。
「たとえば?」
「えっと…ありきたりですけど、纏の被害に遭った人を助けるとか……?」
「———っ」
なんとも子供じみた例えだ。旭は押し黙ると途端にふふっと吹き出し、今までにない和かな表情を見せた。それぐらいの幼稚さだったという事か。
「良いねいいね。実に君らしいよ」
「は、はあ」
何処となく馬鹿にされている感じが否めないが…まあ、素直に褒められていると受け取っておこう。
「人を…纏を…救うことが出来るなら、そうするのが僕の役目かなって」
自分の力だけで実行するには無理がある。だが彼女の下であれば、見習いという形で纏に携わる事が出来る。
もう未知の怪物から逃げるのはやめだ。朝日の言う通り自分がイレギュラーだと言うのなら、それを活かすしかないだろう。
「助手の件、正直願ったり叶ったりだよ。今は全くと言っていいほど人手が足りてないんだ」
旭は握り拳を作り、紡の前までピンと突き出した。すぐにグータッチのサインだと気付き、こちらも同じ腕を突き合わせる。
「改めて、よろしくお願います。旭さん」
「ん。よろしく、青年」
定刻を示す鐘が轟々と響き、以前彼女と決別した日を思い出す。あの日見た悲しい無表情とは違い、何処か満足げな笑みが輝かしい陽光を纏っていた。
次回 「根拠なき噂を介す者」
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