恋するピアノ

紗智

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36.時間旅行

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※※※明日生視点です。



朝食後すぐに、諒さんと覚さんは一度家に帰ると言い出した。
ピアノが恋しいそうだ。
昨日の午前中に弾いてからここへ来たはずなんだけど。
「僕、ついて行ってもいいですか?」
「もちろん」
「私も行きます」
貴也先輩が、悲しそうにしてる。
「俺、まだクラシックは聞いたことないんだけど……無理だ。勉強しないと落第する……」
貴也先輩は真面目だ。
中学部なら成績が悪くても落第なんてしないのに。
「夜穂ちゃんと良実ちゃんは?」
諒さんに訊かれて、良実先輩が、唸った。
「今日は暑くなるらしいからなあ……やめとくよ」
「じゃ、俺も行かねえ」
「明日、娯楽室で弾いてよ。また聴きたい」
「いいのかなあ……」
「少しなら構わないだろ」
「うん。じゃ、行って来るね」
二人は、また午後に、と言って手を振って談話室を出た。
午前中ずっとピアノ弾くつもりなのかな。


「何にする?」
やっぱり諒さんが曲を訊いてきて、甲斐さんは僕の好きなものをと言ってくれた。
でも僕は、正直どんな曲でも構わなかった。
「じゃあ、覚さんが今一番弾きたい曲」
「え?」
「どんな曲が弾きたいのか気になります」
「うん」
覚さんが目を伏せた。
手を鍵盤に構える前、息を吐く前なのに、わかった。
『あのひと』だ!
もう目を離すことができない。
どうも調子がいい時と悪い時があるようで不安定なんだろうから、もしかしたらすぐに『あのひと』じゃなくなってしまうかも知れない。
だから余計に、1秒の100分の1だって見逃すものか。
転がるようなピアノの音が気持ちいい。
見蕩れている僕を、重なる音がくすぐっていく。
どこまでもかっこいいあのひとも、こんな明朗な曲だから雰囲気が少し違う。
大人っぽいのに甘いような感じ。
うっとりする。
少しでも長く、少しでも長く、こうして酔わされていたい。
終わらないで、と思うのはいつも同じ。
でも、音楽は必ず時間とともにあるし、時間は流れていってしまう。
どんなに願っても、止まってはくれない。
あのひとはどうして音楽と一緒でないと会えないんだろう。
あのひとがふっと途切れるように消えて覚さんに代わって、やっと僕は曲が終わったのに気付いた。
「……モーツァルト、好きなんだ」
その英語は、確かに覚さんの声だったんだけど、でももしあのひとが喋ってくれたらこうだろうなってイメージそのままだった。
低めで、よく通るのに柔らかく包み込むような不思議な声で、たくさんの出来事を経験してきたような静かな話し方。
もっと喋ってくれないだろうかと思って、話しかけた。
「他に、弾きたい曲、ないんですか?」
自分に言い聞かせているようなあのひとの声が返ってきた。
「たくさんあるよ。でも全部弾くには、時間が足りないんだ」
その声が僕の胸に響いたのを感じた。
「好きな曲を弾いてもいい?」
優しい声が降ってきて、僕はもちろん頷いた。
「はい……お願いします」
やっぱりあのひとだ。
『水の戯れ』にもてあそばれ、『エリーゼのために』に酔わされて、『美しく青きドナウ』に踊らされる。
次にマーチでもきたら行進したっていい。
そう思ってたところにドイツ語が急に聞こえてきて、目が覚めたようにハッとした。
諒さんが覚さんに何か話し、覚さんが立ち上がってしまった。
「ごめん、交替するね」
諒さんがピアノの椅子に座る。
ああ、終わりなのか。
でも今日は長めに会えていた気がする。
ふと腕時計を見て驚いた。
1時間半も僕はあのひとに夢中にさせられていた。
あっという間だった気がするのに……でも4曲聴いたからそれくらいか。
まるで時間旅行に連れていかれていたみたいだ。
「俺、ちょっと写真探してくるね」
覚さんが言った。
「写真?」
甲斐さんの疑問に覚さんはニッコリ笑った。
「明日生が俺たちの昔の写真見たいって言ってたからね」
ちゃんと覚えててくれたんだ。
ありがとうございます、と言った僕に覚さんは微笑んで頷くと隣の部屋に入って行った。
ピアノに目を向けると、諒さんがちょうど弾き始めるところだった。
諒さんのクラシックは初めて聴く。
たしかにすごくかっこいいんだけど、あのひとじゃない。
なぜか諒さんは覚さんが弾いたのと同じ曲を弾いた。
上手い。
目を閉じれば、あのひととのピアノと聞き分けはつかないかもしれない。
覚さんは一体どんな魔法を使ってあのひとに変貌してるんだろう。
3曲目の終盤で、覚さんが防音室に戻ってきて、僕と甲斐さんの間に座った。
覚さんが壁に背を預け腕と脚を組み、目を閉じた。
途端、目を奪われた。
あのひとだ……。
多分、頭の中で諒さんと一緒に弾いてるんだろうけど、それだけであのひとに変わることもあるんだ……。
この人の頭の中に流れている音楽こそを聴いてみたい。
その長い指がかすかに動いている。
爪先まで綺麗だなと気付いて、ドキッとした。
いつもは爪までは見えない。
僕とあのひとの距離がいつもより近いんだ。
ピアノとソファに距離があるから、いつもはこんなに近くで見られない。
次に会う時、もっと近い距離で見る言い訳が何かないだろうか。
もっと近づきたいんだ。
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