恋するピアノ

紗智

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58.初めてのドイツ語

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※※※甲斐視点です。



明日生くんが私の部屋に移動してくることになった。
仲がいい人と同室になるのはすごい偶然だ。
普通は2学年離れた者同士は同室にしないから、繊細な明日生くんを考慮した配置なのかもしれない。
ただ、明日生くんは綺麗好きだから私と一緒で大丈夫なのか不安が残る。
一応明日生くんが来る前に何とか私なりに片付けた。
「お邪魔しまーす。よろしくね、芳くん!」
荷物を抱えて明日生くんがやってきた。
「明日生くん、本当に私と同室で大丈夫ですか?」
明日生くんはきょとんとした。
こういう表情は年相応に見えるのだけれど。
「なにが?」
「私けっこうだらしないですし……」
引き出しを閉めることさえ面倒な性分だ。
カタログのような部屋で暮らしている明日生くんには苦痛だろう。
「そうですか? 部屋の片付けなら僕やりますし、気にしなくていいですよ」
そういう問題でもない気がする。
でも、なんだか明日生くんが嬉しそうに見えるから、とりあえずよしとしよう。
「いっぱい相談に乗ってもらっちゃおうっと!」
ああ……『あのひと』のことか。
明日生くんも面倒な恋をしたものだ。
まこちゃんかさとちゃんかのどちらかを好きになったのなら、両想いだったのに。
年末に突然明日生くんから電話がかかってきて、『あのひと』を好きなことを聞いた。
あれから相談してくることがなかったけど、私と二人きりになる機会がなかっただけのことか。
たくさん話したいことがあるのなら、いくらでも聞こう。
明日生くんは私の憧れのひとの忘れ形見なのだから。
「この箱、どこ置くんだ、明日生?」
「とりあえず机の上へお願いします」
いつの間にか夜穂ちゃんが引っ越しを手伝っていた。
「ああ、私も手伝いますね」
「あ、いえ、もう終わりなのでいいですよ。夜穂先輩もありがとうございました」
「んじゃ、明日生、礼はチューひとつでいいぞ」
箱を開ける手を止めて、明日生くんは夜穂ちゃんをジトッと見た。
「……それ嬉しいんですか、夜穂先輩?」
「嬉しかったら悪いのか?」
夜穂ちゃんは『ほれほれ早く』と口を明日生くんに向け、明日生くんは箱の中身を取り出す作業に移った。
「じゃあ良実先輩がいるところでチューしますよ」
「お前なあ……」
「ああ、荷物整理しててもう着ない服あったんで」
明日生くんは箱から出した中身を夜穂ちゃんに押し付けた。
「お、サンキュ! もらう! じゃあチューいらねえ、またな!」
ウキウキと夜穂ちゃんは部屋を出て行った。
「夜穂ちゃんのあしらいが上手くなりましたねえ……」
「なんですか、それ」
明日生くんは笑った。
でも急に、笑いを止めた。
何かを見つけたような顔。
視線の先を見ると、私の本棚だ。
「……何か気になる本があるなら、好きに読んで構いませんよ?」
特に本棚に入ってる本は、あまり読まないものが多い。
よく読む本は机や床に出しっぱなしになっているからだ。
「それ……」
明日生くんが指差した先にあるものを見て納得した。
『はじめてのドイツ語』
ドイツ語を始める時に読んだ本だ。
もう何年も読んでいない。
本棚に手を伸ばしてそれを取りだし、明日生くんの間の前に差し出した。
「これなら差し上げます。私にはもう用のない本ですから」
すごく驚いた顔をしている。
「甲斐さん、ドイツ語わかるんですか!?」
「日常会話程度なら」
ドイツ語で会話を試したことはないけれど、カントをドイツ語で読めるからこれくらいは言っていいだろう。
「じゃあ……」
「まこちゃんとさとちゃんの会話もわかりますよ」
「…………」
呆然としているようだ。
なかなか受け取ってもらえない本を座卓の上に置いた。
「明日生くん?」
「僕も、勉強すればわかるようになるかなあ?」
「そりゃなるでしょうねえ」
明日生くんは本に手を置いて、ゆっくりと言った。
「ありがとう、甲斐さん。この本、いただきますね」
そのまま明日生くんはそこで本を読みはじめてしまった。
夕食後にやっと部屋の荷物の整理をはじめ、消灯前には片付いた。
クローゼットにワイヤーラックに大きな姿見。
ラックの中には本、カバン、アクセサリーボックス、そして大量の服。
机の上にはノートパソコン、DVDプレーヤー、ペン立のみだ。
服と本を除いたら荷物は少ない。
「ベッドは今まで通り甲斐さんは上で僕は下でいいんですよね?」
「はい」
ベッドの読書灯を付けてまた明日生くんはドイツ語に没頭し始めた。
今頃気付いたが、まこちゃんとさとちゃんは明日生くんを好きなことをドイツ語で話してしまったりしないだろうか。
二人に明日生くんがドイツ語に興味を持ったことを伝えた方がいいのだろうか。
…………ま、いいか。
二人の気持ちが明日生くんに知れても、余計面白いことになるだけだ。
私が明日生くんに二人の気持ちを教えるわけではないからいいはずだ。
どちらにしろ、いつかわかってしまうことだ。
二人はいつも明日生くんばかり見ているのだから。
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