恋するピアノ

紗智

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81.I love you.

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※※※明日生視点です。



イヤホンの外の騒がしい音が聞いたことあるリズムの曲だと思って振り向いた。
歩き続ける人並みの中で、つい立ち止まって見つめた。
『ZOKKOH』のデビュー曲の宣伝カーだ。
車体には『あのひと』の顔。
大きな写真だけど、本物のあの瞳はもっと物言いたげな不思議な色合いなのに。
それが走り去っていくまで、見つめてしまった。
これだけのことでドキドキしてる。
今日、渋谷に来てよかった。
僕のほかにも立ち止まっている人はいた。
きゃあきゃあと女性が騒ぐ声も聞こえる。
ふと見ると、そばの店にも覚さんのポスターが貼ってあった。
とにかく、『若桜覚』は芸能人として大成功してるようだ。
忙しいらしくて、もう長いこと会ってない気がする。
この前会ったのは、ゴールデンウィークの少し前だった。
メールではやり取りしてるんだけど。
話だけでもしたいな。
電話しちゃおうかな。
イヤホンを外して、携帯を取り出したときだった。
手にした携帯がちょうどバイブして驚いた。
『着信 若桜覚』
あれ、僕まだ掛けてないよな……?
通話ボタンを押し、英語で話しかける。
『こんばんは、覚さん?』
掛けようと思ってた時に、向こうからかかってくるなんて!
しかも今日の覚さんは、僕が好きな人のほうだ。
『明日生、久しぶり!!』
『お久しぶりです』
どうしよう、どうしようもなく顔がほころぶ。
『どうしてた? 元気だった? 今大丈夫?』
どうしてたって、ずっとあなたに会いたかったんですよ。
笑いながら、答えた。
『質問攻めですね。今覚さん時間ないんですか?』
『実はすぐ次の録音始まるんだ』
『本当に忙しそうですね。今、渋谷にいるんですけど、ちょうど『ZOKKOH』の宣伝カーが通りましたよ』
『宣伝カー? 俺まだ見たことないなあ。明日生、渋谷に服探しに行ってるの?』
まあ、本人は見ないものなんだろうなあ。
ここに覚さんがいたらきっと大騒ぎだろう。
『うん、まあほかにも本屋とか行きますね』
今日の目的は本当は本屋だ。
最近この人はいろいろな雑誌に載ってるから探しに来た。
芸能人が忙しくなれば、そのファンだって忙しくなるようだ。
『明日生ねえ、明日、空いてる?』
『明日? 特に予定ないですよ……』
言いかけて気付いた。
明日、僕の誕生日じゃないか。
『明日夕方から、俺たち空いてるんだ。明日生、どこか行かない? 食事でも何でも、明日生の好きなところ。どう?』
『え、行きたいけど、好きなところって思いつかない』
『じゃあ、考えといて! 約束だよ、明日俺たちと出掛ける! ね?』
まだ行くとは言ってないけど、覚さんはもう行くって決めたみたいだ。
すごく楽しそう。
『はい。わかりました。楽しみにしてます。どこいくか考えておきますね』
『あっ、呼ばれちゃった、またね』
『はい、頑張ってくださいね。応援してます』
『じゃあ、明日。明日生、愛してる』
早口で言って、電話は切れた。
今、最後に覚さんはなんて言った?
愛してる。
きっと、『あのひと』が『I love you.』って言ったら、こんな感じかなっていう優しくて甘い声だった。
どういう意味で言ったのかな。
ううん、芸術家の息子の欧米人だから、きっとただの挨拶なんだろう。
ただの挨拶のくせに、こんなに人の胸を掻き乱さないでほしい。
苦しい。
でも、もう一度聴きたい。
握り締めていた携帯が、まだバイブして心底驚いた。
しまった、表示も見ずに電話に出てしまった。
「はい、もしもし……?」
『あの……!』
聴きなれた、でも飽きることはない不思議な声。
何か困ったような様子だ。
『あ、覚さん……?』
『ごめん、日本では『I love you.』なんてめったに言わないの忘れてた』
『ああ、そうですね。気にしてないから大丈夫ですよ、覚さん、時間ないんでしょう?』
『んと、俺が気になったから。つい癖で言っちゃっただけなんだ、ごめんね』
『はい、わかってますよ』
わかってるけど、ほかの人にも言ってしまっているんだったらちょっといやかもしれない。
僕って心狭いかもなあ。
『癖で言っちゃったけど、でも俺が明日生のこと大好きなのはほんと』
耳を疑った。
このひとはいったい何を言っているのだろう。
『え?』
『言葉って難しいね』
『まあ、難しいですけど……』
本当に難しいのは言葉じゃなくて、心だと思う。
あるいは、心を伝えることそのものが難しいんだ。
『ごめん、俺自分が何言いたいかわかんないや。久しぶりに話せて舞い上がってるのかも。じゃあ、またね』
舞い上がってるのは僕のほうだろう。
だから、覚さんの『大好き』が自分の都合のいいように聞こえてしまうんだ。
『はい、明日ゆっくり話しましょうね』
最後に、覚さんは日本語で言った。
「大好き!」
聞き返す間もなく、電話は切れた。
驚きすぎて、思わず道端に座り込んだ。
たしかにもう一度聴きたいとは思ったけど、かえってつらい。
大好きだし、愛してる。
僕だってあなたにそう言いたいのに!
いくら言ったって足りないくらい好きで好きで仕方ないのに。
あなたの言う気まぐれな『好き』が逆に切ないくらい、本気で愛してるのに。
そのうち、言ってしまいそうで怖い。
心の底から、あなたを愛してる。
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