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9章
未来からの警鐘
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サンドイッチ、弁当を製造する食品工場の仕事は楽しかった。清潔感を象徴するような白い壁、白い天井に囲まれた加工パン室で、コンベアに流れてくるサンドイッチを三角の袋に入れ、それを隣のパートタイマーがテープ留めする。作業動作が、そのまま有酸素運動となり、頭巾にマスクの顔に汗が滲むことが楽しい。このまま、ミュージシャンのレールに乗る夢を見ている。
十代の若い男子ということで、中高年のパートタイマ―達から、求は可愛がられている。
前回、一日で退社することになったクリーニング工場とは違う、仕事の楽しさを感じていた。
仕事そのものが軽運動となり、頭巾とマスクの裏にかく汗が心地よい。このまま、能勢のプロデュースの下、松村とともに、ミュージシャンのコースに乗ることが出来たら、と思う。
この工場には、普通とされる人と比べると、少し様子の違う人がちらほらといるが、それは特には気にならない。
いつも通り、ラインに張り巡らされたロングのラップを食品屑とともに剥がして処理し、アルコールスプレーを掛け、退勤となった。時間は九時から十六時までだ。
タイムカードを押した求は、一夫のお下がりの赤い自転車に跨り、工業団地から米原へ向かった。
「今、カレー作ってるところだ。もうしばらく待ってなさい」家に帰ると、一夫がお玉を回しながら優しい声を掛けた。
知春は、気配を感じないところを見ると不在のようだった。
テレビは、「ニャンニャン」を映し出しており、Tシャツとミニスカートのユニフォーム姿をした素人出身女子グループが、振り付けつきで卒業ソングを唄っていた。
「仕事はどうだ」「上手く行ってる」「そうか」
求が働き始めてから、少しづつ、親子らしい会話が戻ってきている。一夫も、少し笑うようになった。
だが、知春の態度は変わらない。家にいる時には基本的に勉強ばかりの彼は、父親とも兄とも、目も合わせようともしない。
努力によって上を目指す彼にとり、老い先が見えても肉体を使う仕事をしている父、現実乖離した夢を語る兄は、認め難い存在なのだ。
カレーがだいぶ煮詰まり、食欲をそそる香辛料の匂いに部屋が薫った頃に、ドア開閉音と足音がし、帰ってきた知春がリビングに来た。彼は技巧を凝らした髪をし、新しいジャケットに少し値の張るシャツ、黒チェック柄のパンツという姿をしていた。
お帰り、という一夫の声掛けも無視した知春は、コップを取って冷蔵庫を開け、中のコーラを注いで飲み干した。
「再来年、十八になったら、アパート借りてここ出てくからさ」知春が藪から棒に言い、目を見張った一夫は、お玉の柄を持つ手を止めた。
「どうしてそういう無駄なことをするんだ」「こんな町の団地に住んでたって、一生、うだつが上がりっこねえじゃん。ここは、死ぬまで他人から体を使われる、知能が低い人間の部落だからさ。俺がいつまでも棲む場所じゃないって判断しただけだよ」「お前は何を言ってるんだ。俺の職場にいる人達の苦労が、お前に想像つくのか」「俺が今、働いてる会社の仕事だって、糟だよ。だから、十八になり次第、頭脳を使って人を使う仕事に就くんだよ。あんた達みたいな人間を、この俺の手駒として使うんだ」
一夫はガスレンジのレバーを回し、火を止めた。
「そんな思い上がった考えが、世の中で通用すると思ってるのか。お前には感謝の心がないのか。雨風しのげる家があって、三度の飯が食べられることがどれだけありがたいことか、お前には分からないのか」「IQの低い人ほど、そういうありふれた正論で、IQの優れた人間に抗ってくるもんなんだよな」「お前、これまで自分一人で生きてきたつもりなのか」「そんなこと言われたって、こんな家じゃ、早くに自立に目覚めなきゃいけないだろ」「お前は、自立の意味を履き違えてる」
一夫が言った時、知春の横顔に浮いた少しの悲しみの色を、その諍いを案山子のように突っ立ち見ていた求の目が捉えた。
痛い所を突かれたと見える知春は、虚勢のいかり肩を揺すって、自室へ引っ込んだ。襖を閉める勢いは、いつもと比べて弱かった。
翌日、公休の日曜。遊歩道を歩く求に、「先輩」というおどけた調子の声が掛かった。
「お前、仕事始めたの?」二人で腰を下ろしたグラウンド前のベンチで、松村が訊ねた。「朝、よく自転車で走ってっからさ」「うん。太陽フーズっていう食品会社。スーパーに卸すサンドイッチとかホットドッグとか、あと、お弁当とおにぎり、お寿司も作ってる」「月給、いくらだ?」「時給五百円」「何だ、たいしたとこじゃねえじゃん。辞めて、もっとましなとこ行けよ」
松村の頬の皮膚は所々が裂け、左頬には、癒えかけの殴打跡があった。
雀の鳴き声が、側縁帯に緑が茂り始めた団地の壁に反響している。空は晴れているが、時折、雲が翳る。
「探偵社でも一緒にやるか? 給料いいぞ」「俺、今の仕事でいいよ。今、働くことで、自分に落とし前つけてるからさ」求がしれっと言ったその時、松村の眉に少しの皺が寄った。
「探偵社には、メタルもよく働いてたりするんだよ。土木とか印刷は、パンクが混じってることがあるんだよ。メタルはプライド高えから濡れるような仕事はやらねえけど、パンクは何でもやっかんな」松村は言って、白パッケージのマイルドセブンを一本、求に差し出した。求はそれを咥え、自分のライターで点火した。松村は背もたれに預けた背中を反らし、自分の煙草に火を点けた。吐き出された煙が揺れて漂った。
「俺達のバンドはよ、メタル上がりで、すげえいい曲書く奴の手配が付いてるって、能勢さんが言ってるんだ」松村は言って、煙草の身を指で叩いて、新芽の出始めた赤土の地面に灰を落とした。
「これ吸ったら、今日、ちょっと行くんだわ。能勢さんの弟さん、お前も会ったろ?」
松村の口調は軽快だったが、求の心には微かな不安が挿した。それは、その兄はともかく、あのやくざ然とした弟が音楽と関係があるのか、という疑問が呈されたことにより覚えた不安だった。
「浩さんってんだよ。その浩さんに頼まれてることがあってさ、あの人も若い奴の人手、求めてんだよ。だから、おめえにも浩さんの仕事、いつかちょっと手伝ってもらうかもしんねえよ。ちゃんと小遣い出るからさ。俺の友達がハウスのカツアゲ回りしてるって言ってたけど、それよりも割がいいはずだよ」松村は言い、落とした煙草をローファーの靴底で踏み消した。
「じゃあな」立ち上がった松村は求に挙手し、バス停までの方向へ、B1ジャンパーに黒のスリムジーンズの後ろ姿を遠ざけた。
昨日に残った大鍋カレーで昼食を済ませた求は、あてなく団地入口からバスに乗った。働き始めたことだし、レコードでも見に行き、次に買うアルバムの目星でも付けようという気分だった。
私鉄に乗り、谷千代台で降りた。駅は、思い思いのお洒落を決めた若者が往来していた。長髪のメタル者もいた。
東口階段前のグレーの壁に、パンチパーマの男が背中を預け、ジュースの缶を口に当てながら、求を凝視している。求は目を反らした。すれ違い際、頭が痛くなるような臭いがした。階段を降りていく求を、その男が目で追っている気配が伝わってくる。
アピオ谷千代台のエスカレーターを二階へ昇り、「コンパクトディスク、あります」と書かれた紙の貼られたレコード店に入った。
好きなラウドネス、アースシェイカーやブリザード、バウワウや浜田麻里のレコードを手に取って見てがてら、ふと顔を上げると、知っている顔が入ってきて、いらっしゃいませ、という店員の声が掛かった。
それは、同じ阿原中で一学年上に在学していた、どちらかというと不良のほうに属する先輩だった。その先輩は、ブラウンのロングコートのポケットに片手、ムースで撫でつけたパーマヘアをもう片手でいじりながら、求を見て、寄ってきた。
「ねえ」作ったものではない、自然な優しい語り口で話しかけてきた彼に、求はちょんと頭を下げた。
「阿原中だったよね」「そうです。知ってます」求は返した掌で先輩を指し、答えた。顔は少しおどついていると、自分で分かった。
「あの、髪の毛茶色いのと付き合ってるよね」「松村さん?」「そうだ、確か名前は松村だった」先輩は、視線を、詰まれたレコード群に泳がせた。
「あいつと付き合ってて、どう?」「優しいですよ。俺にクレープとラーメンと餃子、奢ってくれたし。これから一緒にバンドやるんですよ」「あいつ、バンドなんかやる気は、本当はないと思うよ。あいつのいいのは能書きだけだって、俺の周りの先輩とか、みんな言ってた」先輩は視線を求に戻した。
「あいつが優しいのは、最初のうちだけだよ。初め優しくして、だんだんいじめてくんだよ」先輩は言い、視線をまたレコードラックに馳せた。
「米原とか睦町のほうじゃ、もう何人もの中学生とか、小学生までが、あいつからカツアゲされてるんだ。親の口座から抜いてこいって脅されて、十万も巻き上げられた子もいるらしいんだ」
求は思い出した。お互い小学生と中学生の時分、松村と近所で顔を合わせるたび、「ちょっと来いよ」と嚇されていたことを。また、友達が金を巻き上げられそうになったという話。
だが、今の松村さんは、という庇いを、求の思考は弾き出していた。
「気をつけなよ。それにあいつ、背後の人間もやばいよ。勝江台を根城にしてる愚連隊に、保護料納めてるって話だからさ」
先輩はコートの裾を翻して、CDのコーナーへ移動した。
求は思考から、先輩からの警告を追い出そうとした。だが、頭の中でもがくほど、浩というらしい能勢の弟の姿、小学校時代のコマが思い出される。
だが、髪型、動作を嗤われ、いじめられ続けた公立義務教育時代の自分から脱却する手立てであるミュージシャンの夢が、その不安を出し抜いても優勢だった。
求は、レコードから手を離し、そのレコード店を出た。
夢が一番。先の先輩が言ったことは誤情報だろう。求は自分に言い聞かせるように、語彙を成さない思いを頭に巡らせた。
Gジャンにデニムスカート、髪にはリボンという姿をした十代の女の子が入れ違いに入り、エスカレーターに続く通路には、ピンクで揃えたモヒカンの髪をした三人組のパンクスが立ち、何かに狙いを定めるような目を周囲に配っていた。
心で松村を庇いながら店外の路地を出た求を囲む、街の風景という世界の中で、求は追い詰められたような孤立感を覚えていた。
タクシーロータリーの斜め後ろに、煙草を指に挟んだ、髪をそれぞれ二グロパーマ、パンチパーマで決め、黒を基調とする上下を着た男が二人立ち、求を見て、にやりとした笑いを浮かべていた。恐怖の闇が心に落ちた求は、その場を逃げ、離れた。
それでも、能勢につき、松村とともにロッカーへの道を歩もうという考えのほうが優位だった。
十代の若い男子ということで、中高年のパートタイマ―達から、求は可愛がられている。
前回、一日で退社することになったクリーニング工場とは違う、仕事の楽しさを感じていた。
仕事そのものが軽運動となり、頭巾とマスクの裏にかく汗が心地よい。このまま、能勢のプロデュースの下、松村とともに、ミュージシャンのコースに乗ることが出来たら、と思う。
この工場には、普通とされる人と比べると、少し様子の違う人がちらほらといるが、それは特には気にならない。
いつも通り、ラインに張り巡らされたロングのラップを食品屑とともに剥がして処理し、アルコールスプレーを掛け、退勤となった。時間は九時から十六時までだ。
タイムカードを押した求は、一夫のお下がりの赤い自転車に跨り、工業団地から米原へ向かった。
「今、カレー作ってるところだ。もうしばらく待ってなさい」家に帰ると、一夫がお玉を回しながら優しい声を掛けた。
知春は、気配を感じないところを見ると不在のようだった。
テレビは、「ニャンニャン」を映し出しており、Tシャツとミニスカートのユニフォーム姿をした素人出身女子グループが、振り付けつきで卒業ソングを唄っていた。
「仕事はどうだ」「上手く行ってる」「そうか」
求が働き始めてから、少しづつ、親子らしい会話が戻ってきている。一夫も、少し笑うようになった。
だが、知春の態度は変わらない。家にいる時には基本的に勉強ばかりの彼は、父親とも兄とも、目も合わせようともしない。
努力によって上を目指す彼にとり、老い先が見えても肉体を使う仕事をしている父、現実乖離した夢を語る兄は、認め難い存在なのだ。
カレーがだいぶ煮詰まり、食欲をそそる香辛料の匂いに部屋が薫った頃に、ドア開閉音と足音がし、帰ってきた知春がリビングに来た。彼は技巧を凝らした髪をし、新しいジャケットに少し値の張るシャツ、黒チェック柄のパンツという姿をしていた。
お帰り、という一夫の声掛けも無視した知春は、コップを取って冷蔵庫を開け、中のコーラを注いで飲み干した。
「再来年、十八になったら、アパート借りてここ出てくからさ」知春が藪から棒に言い、目を見張った一夫は、お玉の柄を持つ手を止めた。
「どうしてそういう無駄なことをするんだ」「こんな町の団地に住んでたって、一生、うだつが上がりっこねえじゃん。ここは、死ぬまで他人から体を使われる、知能が低い人間の部落だからさ。俺がいつまでも棲む場所じゃないって判断しただけだよ」「お前は何を言ってるんだ。俺の職場にいる人達の苦労が、お前に想像つくのか」「俺が今、働いてる会社の仕事だって、糟だよ。だから、十八になり次第、頭脳を使って人を使う仕事に就くんだよ。あんた達みたいな人間を、この俺の手駒として使うんだ」
一夫はガスレンジのレバーを回し、火を止めた。
「そんな思い上がった考えが、世の中で通用すると思ってるのか。お前には感謝の心がないのか。雨風しのげる家があって、三度の飯が食べられることがどれだけありがたいことか、お前には分からないのか」「IQの低い人ほど、そういうありふれた正論で、IQの優れた人間に抗ってくるもんなんだよな」「お前、これまで自分一人で生きてきたつもりなのか」「そんなこと言われたって、こんな家じゃ、早くに自立に目覚めなきゃいけないだろ」「お前は、自立の意味を履き違えてる」
一夫が言った時、知春の横顔に浮いた少しの悲しみの色を、その諍いを案山子のように突っ立ち見ていた求の目が捉えた。
痛い所を突かれたと見える知春は、虚勢のいかり肩を揺すって、自室へ引っ込んだ。襖を閉める勢いは、いつもと比べて弱かった。
翌日、公休の日曜。遊歩道を歩く求に、「先輩」というおどけた調子の声が掛かった。
「お前、仕事始めたの?」二人で腰を下ろしたグラウンド前のベンチで、松村が訊ねた。「朝、よく自転車で走ってっからさ」「うん。太陽フーズっていう食品会社。スーパーに卸すサンドイッチとかホットドッグとか、あと、お弁当とおにぎり、お寿司も作ってる」「月給、いくらだ?」「時給五百円」「何だ、たいしたとこじゃねえじゃん。辞めて、もっとましなとこ行けよ」
松村の頬の皮膚は所々が裂け、左頬には、癒えかけの殴打跡があった。
雀の鳴き声が、側縁帯に緑が茂り始めた団地の壁に反響している。空は晴れているが、時折、雲が翳る。
「探偵社でも一緒にやるか? 給料いいぞ」「俺、今の仕事でいいよ。今、働くことで、自分に落とし前つけてるからさ」求がしれっと言ったその時、松村の眉に少しの皺が寄った。
「探偵社には、メタルもよく働いてたりするんだよ。土木とか印刷は、パンクが混じってることがあるんだよ。メタルはプライド高えから濡れるような仕事はやらねえけど、パンクは何でもやっかんな」松村は言って、白パッケージのマイルドセブンを一本、求に差し出した。求はそれを咥え、自分のライターで点火した。松村は背もたれに預けた背中を反らし、自分の煙草に火を点けた。吐き出された煙が揺れて漂った。
「俺達のバンドはよ、メタル上がりで、すげえいい曲書く奴の手配が付いてるって、能勢さんが言ってるんだ」松村は言って、煙草の身を指で叩いて、新芽の出始めた赤土の地面に灰を落とした。
「これ吸ったら、今日、ちょっと行くんだわ。能勢さんの弟さん、お前も会ったろ?」
松村の口調は軽快だったが、求の心には微かな不安が挿した。それは、その兄はともかく、あのやくざ然とした弟が音楽と関係があるのか、という疑問が呈されたことにより覚えた不安だった。
「浩さんってんだよ。その浩さんに頼まれてることがあってさ、あの人も若い奴の人手、求めてんだよ。だから、おめえにも浩さんの仕事、いつかちょっと手伝ってもらうかもしんねえよ。ちゃんと小遣い出るからさ。俺の友達がハウスのカツアゲ回りしてるって言ってたけど、それよりも割がいいはずだよ」松村は言い、落とした煙草をローファーの靴底で踏み消した。
「じゃあな」立ち上がった松村は求に挙手し、バス停までの方向へ、B1ジャンパーに黒のスリムジーンズの後ろ姿を遠ざけた。
昨日に残った大鍋カレーで昼食を済ませた求は、あてなく団地入口からバスに乗った。働き始めたことだし、レコードでも見に行き、次に買うアルバムの目星でも付けようという気分だった。
私鉄に乗り、谷千代台で降りた。駅は、思い思いのお洒落を決めた若者が往来していた。長髪のメタル者もいた。
東口階段前のグレーの壁に、パンチパーマの男が背中を預け、ジュースの缶を口に当てながら、求を凝視している。求は目を反らした。すれ違い際、頭が痛くなるような臭いがした。階段を降りていく求を、その男が目で追っている気配が伝わってくる。
アピオ谷千代台のエスカレーターを二階へ昇り、「コンパクトディスク、あります」と書かれた紙の貼られたレコード店に入った。
好きなラウドネス、アースシェイカーやブリザード、バウワウや浜田麻里のレコードを手に取って見てがてら、ふと顔を上げると、知っている顔が入ってきて、いらっしゃいませ、という店員の声が掛かった。
それは、同じ阿原中で一学年上に在学していた、どちらかというと不良のほうに属する先輩だった。その先輩は、ブラウンのロングコートのポケットに片手、ムースで撫でつけたパーマヘアをもう片手でいじりながら、求を見て、寄ってきた。
「ねえ」作ったものではない、自然な優しい語り口で話しかけてきた彼に、求はちょんと頭を下げた。
「阿原中だったよね」「そうです。知ってます」求は返した掌で先輩を指し、答えた。顔は少しおどついていると、自分で分かった。
「あの、髪の毛茶色いのと付き合ってるよね」「松村さん?」「そうだ、確か名前は松村だった」先輩は、視線を、詰まれたレコード群に泳がせた。
「あいつと付き合ってて、どう?」「優しいですよ。俺にクレープとラーメンと餃子、奢ってくれたし。これから一緒にバンドやるんですよ」「あいつ、バンドなんかやる気は、本当はないと思うよ。あいつのいいのは能書きだけだって、俺の周りの先輩とか、みんな言ってた」先輩は視線を求に戻した。
「あいつが優しいのは、最初のうちだけだよ。初め優しくして、だんだんいじめてくんだよ」先輩は言い、視線をまたレコードラックに馳せた。
「米原とか睦町のほうじゃ、もう何人もの中学生とか、小学生までが、あいつからカツアゲされてるんだ。親の口座から抜いてこいって脅されて、十万も巻き上げられた子もいるらしいんだ」
求は思い出した。お互い小学生と中学生の時分、松村と近所で顔を合わせるたび、「ちょっと来いよ」と嚇されていたことを。また、友達が金を巻き上げられそうになったという話。
だが、今の松村さんは、という庇いを、求の思考は弾き出していた。
「気をつけなよ。それにあいつ、背後の人間もやばいよ。勝江台を根城にしてる愚連隊に、保護料納めてるって話だからさ」
先輩はコートの裾を翻して、CDのコーナーへ移動した。
求は思考から、先輩からの警告を追い出そうとした。だが、頭の中でもがくほど、浩というらしい能勢の弟の姿、小学校時代のコマが思い出される。
だが、髪型、動作を嗤われ、いじめられ続けた公立義務教育時代の自分から脱却する手立てであるミュージシャンの夢が、その不安を出し抜いても優勢だった。
求は、レコードから手を離し、そのレコード店を出た。
夢が一番。先の先輩が言ったことは誤情報だろう。求は自分に言い聞かせるように、語彙を成さない思いを頭に巡らせた。
Gジャンにデニムスカート、髪にはリボンという姿をした十代の女の子が入れ違いに入り、エスカレーターに続く通路には、ピンクで揃えたモヒカンの髪をした三人組のパンクスが立ち、何かに狙いを定めるような目を周囲に配っていた。
心で松村を庇いながら店外の路地を出た求を囲む、街の風景という世界の中で、求は追い詰められたような孤立感を覚えていた。
タクシーロータリーの斜め後ろに、煙草を指に挟んだ、髪をそれぞれ二グロパーマ、パンチパーマで決め、黒を基調とする上下を着た男が二人立ち、求を見て、にやりとした笑いを浮かべていた。恐怖の闇が心に落ちた求は、その場を逃げ、離れた。
それでも、能勢につき、松村とともにロッカーへの道を歩もうという考えのほうが優位だった。
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