ラムドリーの未来

楠丸

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10章

素敵な魔法が使えたら

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 土曜日だった。その日、松村からの呼び出しは掛からなかった。 財布には、初めてもらった太陽フーズの給与から、一万円と少しを入れた。不思議か、はたまた別の考えからか、今日は普通の服装を決めた。カットしたばかりの髪にはブラシを入れ、白に茶のマーブル模様が入ったセーター、切り裂いていないジーンズ、それにバスケットシューズという服装で家を出た。

 勝江台行きバスの後部座席に座る求の心は、誠実な気持ちを胸に据えていた。途中から、高校生の集団がどかどかと乗ってきた。主に球具のケースを持った坊主頭での男子達だった。それを松村が見たら何というかは想像の範囲内だが、今日は関係ない。

 勝江台裏手のリーベは、OPENの札が掛かっていた。さっぱりとした髪、服で狭い階段を昇る求の心は、少しの緊張を覚えていた。

 二階の店前に立つと、ポップ調の曲のカラオケが流れていた。扉を押して、弱いレクスの照明に照らされるフロアに入ると、いらっしゃいませ、という声が掛かった。若い会社員達が奥の席に座り、尚子の接待を受けていた。唄っている男は、彼らの同僚だった。あとはカウンターで、壮年の男が一人でウイスキーのグラスを傾け、隣にホステスが座っていた。

 先日と同じテーブル席に座ると、寒々しく、痛々しいドレス姿の尚子が求を目に留め、席の女が交代した。

「いらっしゃいませ。来てくれたんだね」求におしぼりを渡した尚子が、どんぐりのような目を潤ませて言い、求は不器用に頷いた。

「ビールでいい?」「いや、今日は、コーラ」「コーラでいいの?」「うん」

 照れて憚るようなやり取りのあとで、ミニボトルのコーラとコップが席に運ばれた。コーラは、尚子が注いで、求に進めてくれた。

「ありがとう」求は礼を言って、両手に持ったコップでコーラを飲み干した。今日は酒は頼まず、ここでは煙草も吸うまいと決めていた。

 尚子と席で二人になっては、粛々とした気分になるだけで、先日までのような振り撒いたような奇異な振る舞いをすることは出来ない。

 舟端のもも八でも、面識もないような不特定多数の人達の前で演じ、真摯な警告を受けた振る舞い。今日の粛とした居住まい。どちらが本当の自分であるのかが分からない。

「仕事、始めたんだ。食品工場で働いてる。それで、給料もらったから、会いに来たんだ」「ありがとう」

 そのやり取りののち、二人は沈黙した。だが、気まずさはなかった。

 カラオケは、歌手の唄い方をそっくり真似した「たいやきくん」に変わり、席からは爆笑が上がっていた。

「私、高校卒業してから、いろいろな仕事してきたのね。だけど、みんな、アルバイトとかばっかりで、要領悪いから、辞めさせられたりしてきたの。それで、お金に困ってる時に、知り合いの紹介で、ここで働き始めたんだ。私は、その知り合いの人に、助けられたのよ。お母さんと二人で暮らしてるんだけど、お母さんの借金もまだ残ってるからね」「そうなの?」「うん」空になった求のコップに、尚子がコーラを注いでくれた。

「俺、小学校、中学で、登校拒否だったんだ。その、いじめに遭ってて、中一の秋から、中三の夏休み明けまで、学校行ってなくて。それで、ロックだけが、何っていうか、心の」「支えだったのね」「うん」「だから、音楽で飯、食えるようになりたくて」

 求がコップのコーラを飲み、二人はまた黙した。ドレス越しに、尚子の冷えた体温までが伝わってくる感じがする。この体を、自分の体に抱きしめてやれたら。それこそ、互いの胸で鼓動を交換出来るまでに。

 だが、自分の体は細く、薄く、あまりにも非力だ。


「俺、どうしても、世界レベルのミュージシャンになりたいんだ。それ以外に、人生、やり直す手段が」「佐藤君だったら、人生なんて、いくらでもやり直せるよ。今、いくつ?」「十七。今年、八になる」「私、二十歳なの」尚子は自分が求の二歳上であることを明かした。

「洗い物が溜まってるよ」カウンターからきつい調子の声が飛んできた。

「ごめんね。ちょっと待ってて」尚子が言って求の隣を立った。カウンターからは、声を圧した詰りが微かに聞こえてくる。その詰りを発している者は同僚のホステスのはずだが、ヤンキー言葉の命令口調が混じっている。求の耳は、てめえ、という言葉を聞き取っていた。

 十分ほどの時間が経ち、尚子がカウンターから出てきた。尚子は、カウンター席に着いた男二人の隣に、おしぼりを持って座った。会話がてら、求のほうを見て笑ってくれた。求も笑みを返した。やがて、求の隣に別の女が座った。

「こないだの、ロックのお兄さんだよね」「そうだけど」「私、みえ。よろしくね」「うん」テンションを削がれた求は、気のない返事をした。

 これがおそらく、カウンター内で尚子を罵っていた女だ。

「ねえ、コーラじゃつまんないでしょ? おビールでも注文しない? おつまみもあるよ。ママが作るポテトサラダと餃子、美味しいって評判なんだよ」「いや、今日は、これだけで」「そう。残念」「また来るから」

 手書きの会計用紙には、¥1000とあった。コーラ本体が五百円で、席台が五百円だろうと思われた。

 レジカウンターで千円きっかりを支払った求は、尚子のいるカウンター席を振り返り見た。尚子も求を振り返った。求は挙手し、また来る、と言い、それを読唇したらしい尚子が頷いた。

 その眼は、確かに自分に縋る光を宿していた。それを印象に留め、求は店を出た。

 勝江台駅の立ち食いで天玉うどんを食い、それから米原団地行きのバスに乗った。バスにスイングされながら、尚子とのことを思った。

 自分は粉うことなく彼女を好いているが、彼女を幸せに出来るだけのものを、果たして自分は未来において携えることが出来るものなのか。

 自分には、具体的意味での力も、言うなれば社会力もまだない。それを得るためには、どういう経緯をかい潜らなければいけないのだろう。

 そこで、松村とともに育てる未来と、尚子と歩む未来が別物だという思いが生じてくる。

 バスが米原に着き、住宅街である米原二街区を歩いていると、前から、影形で松村と分かる人間が歩いてくる様子が目に入った。

 佐藤、と声を掛けてきた彼と、彼の来た方向へ引き返し、二街区にある第二公園のベンチに座った。

「どこ行ってきたんだよ」「勝江台に用事があって」「おめえに女、紹介してやろうか?」「どんな人?」「婆あ」松村は言い、笑った。

「松村さんには、彼女はいないの?」「俺は特定の女と付き合った時期はねえけどな、かなり遊んだよ」「その中で、本気で好きになった人とかっている? 俺、中学の時、手紙で告白した子、いるんだけど」「おめえ、童貞かよ」「うん、女はまだ」「おい、男が童貞捨てるなんて、十六とかでも遅えぐれえだぜ」「そうかな」「そうだよ」

 松村は咥えた煙草を夜空に伸ばすようにして、ベンチに反り返った。

「おめえの齢で童貞の野郎なんて、将来結婚した時に、不倫に走って、家庭を破滅させちまうのが落ちだよ。俺はここが遊び時だって時に遊んだから、その心配はねえけどな。だから、おめえも、さっさとその辺の女捕まえてやっちまえよ。孕ませたら逃げりゃいいんだからよ」松村が笑い、求は顔を俯けた。

 その時、自分に縋る目をしていた尚子の顔が思い出された。

 素敵な魔法が、もしも自分に遣えるならば、という思いが胸に巡った。松村の言ったことは、今の自分の気持ちに、間違いなく相反することだった。

 彼が概念する男女関係には、相手を想う愛というものの要素がないからだ。

 求は、登校拒否の頃に観ていた午前放送の、三面記事番組を思い出した。幼い子供が、親の心のない親、または愛人の手に掛かり、大人の力で、いささかの容赦もない折檻を受け、死に追いやられる事件。

 松村の言ったことが本心ではないと庇いたかった。だが、そういったことを口にする人間ほど、本当にそういうことを行うものであるという世の中の真実を、まだ稚い求には分かるべくもなかった。

 勿論、子供が犠牲になるそれらの事件に、その親や愛人の持つ、生まれの愚が大きく関わっていることも。

「ムードがどうのこうのとかって抜かす女は、服、引っ剝いで、無理矢理挿れちまえばいいんだよ」公園に松村の哄笑が響いた。

「おめえが理想とするような、貞淑な女なんてもんは、この世にいはしねえんだからな」松村が言い足し、求は、自分に一心に縋ってくるような、尚子の目と、寒いドレス姿を思い出した。

「そんなものはありゃしねえんだよ」松村の呟きは、深い寂寥が籠って求の耳に届いた。

 

 

 

 

 

 
 

 


 
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