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13章
愚かな母
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二ヶ月前に面接へ行き、やんわりと断られるも、退出際に台詞を決めたイズミダ。その二階にあるテナントの軽食喫茶に、求はいた。席には、先程にレコードショップで購入した、メタリカ、モトリークルーの二本のミュージックテープが袋に入って置かれている。自分が未成年者だという自覚は元から持たない。だから、煙草を吹かし、酒を飲む。
太陽フーズの仕事は、熱を出したという詐病を弄して休んでいた。
オーダーを取りに来た店員は、阿原中学の同学年に在学していたが、お互い顔は知ってはいても、話したことのない女子で、名前を仁藤りえという。接客挨拶の声を掛けてお冷を席に置いたその小柄な女子は、求に顔を凝視され、気まずげに下を向いた。
他者の顔をじっと見つめることは、癖と呼んでいいのか、自分には分かりかねている。それは、商店に入り、ラックの商品を見つめることと同じ感覚で行う。信号待ちする車列の運転席を凝視する時は、ドライバー達が一斉に、故も分からずに自分を見つめる奇異な少年を振り返り、不審なものを見る目を向ける。
メニュー表の文字は空虚なトーンで読み上げられ、それをりえがオーダー伝票に記入していく。オーダーしたものは、瓶ビールとカレー丼だった。
「少々お待ち下さい」残して厨房へ去っていくりえの背中を求はじっと見つめ、それから、睥睨するように、客席の顔を、男女問わず、じろじろと見た。
目が合ううちに、その客の顔がだんだんと曇っていくように思えるが、求はそれが何故か分からない。トレーを持ち、ホールを往来する店員にも視線を這わせた。店員達は、少し困った顔をしているように見える。
求が客達の顔をしげしげと見るうちに、一人の中年女がウエイターを呼び止め、それとなくこちらを見遣りながら、何かを訴えた。それから少しして、困惑を面いっぱいに浮かせた壮年男が、受け渡しカウンターへ行き、ホール係に何かを言っていたが、その言葉までは聞き取れなかった。なお、その男も、不快な顔で求を見た。
先日、彼の加担したことは、何という罪状が付くかは分からないが、法を犯す行為をしたことは間違いない。それが求の心に翳を落としていた。松村との交友初期、能勢と初めて会った時に感じた高揚はなく、今は、自分を囲む世界に、暗い影が挿しているように見え、黒い塊が胸に閊えているように感じる。それを誰に、どう訴えてよいのかが分からない。
松村を疑えない。だから、あれがロックの本質だと思い込む以外に、納得というものの落とし方が分からない。求にも表現可能な語彙の物言いをすれば、不良でなければロックは出来ない。暴力はロックの象徴。
堂々巡りの考えを、情報量に乏しい脳裏に這わせながら、ホールの客達をしげしげと見つめ続けた。店内のBGMは、原曲とキーの違う、歌謡曲のサックスアレンジが流れていた。
なお、その時の服装も、アンドロメダコート、リストバンド、切り裂きジーンズ、髑髏ベルトに蛇柄靴だった。
厨房から、白い厚手の調理服にスラックスという姿をした若者が出てきて、求の座るテーブル席に向かい、まっすぐにやってきた。
「ごめん、ちょっといいかな。俺、ここのマネージャーなんですよ。ちょっと言いづらいんだけどね」清潔に刈った髪をし、鈴木、という名札を付けた調理服の若者は優しい口調を努めて言い、求の目を見た。
「他のお客様から、顔をじろじろ見られて不快だっていう苦情が入ってるんだけど、覚えある? それと、今、ビール、注文したみたいだよね」求は、え、というか細い短い声を発したきり、沈黙する他の態度を取りようがなかった。
「悪いんだけど、かなり怒ってるお客様もいて、トラブルになってもいけないから、帰ってもらえるかな。その煙草だけは目をつぶってあげるから。あと、今はまだ緩いお店もたくさんあるけど、うちは未成年の人には、絶対にお酒出さないことにしてるんだよね。前に高校生がビール飲んで、フロアに吐いちゃったことがあったからさ」
求はミュージックテープの袋を持ち、席を立った。スプリング仕掛けの人形のような動作だった。それから、店の風景、鈴木の顔も見ることなく、早歩きで店を出た。店を出、アンジェ、という立て看板の前から無造作に振り返ると、白いエプロンを擁するドレス調制服に身を包んだ仁藤りえが、不安と戸惑いを刻んだ面持ちで立ち、求を見ていた。
求はそれに何も返さず、逃げる速足で、飲食店が並ぶ廊下を進んだ。すれ違う客達とは視線を合わせなかった。
バスに乗り、勝江台に出た時には、むかつきが心に満ちていた。それを他人から、故を何とするものかと問われたら、そのむかつきを語彙に変換して答えることは出来ない。
強いて言えば、そのむかつきは、他ならぬ佐藤求という人間に向けられていたのだろう。
勝江台駅の立ち食いで、イズミダのアンジェでありつけなかったビールの小瓶を飲み干し、カレーライスを流し込み食い、さまようように街で出た。
高層住宅の一階に店が並ぶ商店街で、自転車に乗った壮年の男と、接触寸前となった。それは求が前方に注意を払っていなかったためだった。
「危ないよ。ちゃんとまっすぐ前を見て歩かなきゃ駄目だよ」「うるせえな!」自転車を止め、優しく注意した老い初めの男に、求は下顎を突き出した。
「てめえこそ、ちゃんと前見て走れよ! この、のろのろチャリンコの糞爺い!」「君は、間違った言葉の遣い方を覚えて育っているね」筋を無視して噛みつく求に、男は涼しい顔をした。
「遣う言葉には注意しなくちゃ駄目だよ。言葉というものは、人の心を殺してしまう兵器の威力を持つこともあるんだからね。本当だよ」「知らねえよ。俺はアナーキーなんだからよ」「自分の足許に注意しながら、一歩一歩を踏みしめて、しっかり人生を歩んでいかなくちゃいけないよ。それは、若いうちにこそ気をつけなくちゃいけないことなんだからね。じゃあね」大東亜戦争経験者と思われる初老の男は言って、駅の方向へ自転車を漕ぎ、痩せた後ろ姿を遠ざけていった。
俺の一歩一歩とは、世界レベルのミュージシャンへの一歩一歩だ。求は心に呟きながら、勝江ストア脇の路上へ歩み進んだ。
前から、男が来た。サラリーマンとはまた違ってファッショナブルな着こなしのネクタイスーツ、リーゼント風にまとめた髪、野性を感じる顔立ちをした、三十前の齢頃に見える長身の若者だった。遊んでいる若者という風ではなく、その若さで、会社なり店なりの一城を構えている人物という感じがする。
大封筒を小脇に抱えたその男と、求が正面に面し、求が左へよけようとすると、男も同じほうへよけようとし、反対側へよけた男の進路を求が塞ぐということが、三回繰り返された。
「邪魔すんじゃねえよ、てめえ」ようやく互いの進路が開きざま、求が言い、男の腰を蹴った。こんなことが出来るようになった自分が恰好いいと思ったが、腰、脚はすでに逃げる準備をしていた。
「おい」飲食街のほうへ進みかけた求の襟首が掴まれ、自分が持ち得ない、男の強い力で体全体が引かれ、踵が後ろへ滑った。
「お前、この地元か?」求のコートの襟と手首を掴んだ男が、声低く問うた。求は腸がどっと冷える感覚を覚えた。自分よりも力で勝る相手の威圧を受ける時にはいつも感じる、惨めな恐怖反応だった。
「このままお前を警察に連れていくことも出来るぞ。警察のお世話になるか、わけを説明して謝るかの、どっちがましだと思うよ。相手によっちゃ、連れてかれる場所が警察よりも怖い所になることだってあるぞ」男は言い、求の片腕を取ったまま、襟首を押し、路面に鼻先が着くまで、彼の上体を沈めた。
通行人がちらほらと見ている気配が伝わってきた。
「その時の機嫌でこういうことをやると、命に関わることがあるんだぞ」「ごめんなさい」目に涙を溜めた求が詫びたことで、男が私人拘束していた彼の体を突き放すように放した。求の体が蛙のように路面に這った。
「お前、本当に死ぬぞ。これ、冗談でも何でもねえぞ」這いつくばる求に、男は肩から残し、背中を遠ざけていった。
身を起こし、座位になった求の頭に、先の若者のような男と、自分のような者との違いを問う思いが浮かんだ。それは、彼に出来、自分に出来ないこと、というものから始まり、彼には何故出来て、自分には出来ないのか、ということを問う思いだった。
立ち上がった時、股間の冷たさに気づいた。股を除き込むと、切り裂きジーンズの鼠径部が染みを作っていた。
この服装に、恐怖によって作られた失禁の染みがあるとなると、不様の極みだ。
目尻、口の端を下げた顔で、米原へ帰るバスに乗った時、バスの運転手、他の乗客が求の股間を見、見てはいけないものを見た、という風に視線を外した。
米原へ戻った時、酒店前で、中齢の主婦二人の立ち話を拾った。それは、米原で暴力事件が起き、被害者は精神薄弱の子だという内容だった。
家に帰り、ズボンとパンツを履き替え、今日に購入したメタリカのカセットテープを聴いている時、特徴のあるノックが鳴った。初めは弱く、叩き終わりが強いノックだった。それから、執拗にブザーが鳴らされた。
来た者が誰かは、求には分かる。
ドアを開けると、家を出奔してだいぶ経つ実母が、隣に男を携えて立っていた。母は四十代後半だが、髪を子供のような二本の三つ編みにし、服装はナイロンジャンパーに腿までの長さのスカートを履いていた。男は、安物の布ジャンパーに、灰色の安スラックスに、マジックテープの運動靴を履いた姿で、心がどこにあるかも分からない表情つきをした、母と同年代者だった。
求は懐かしさなど全く感じなかった。当然、無事を確認したがための喜びもない。
「求」母の久子は、数年ぶりに会う長男の身の丈が伸びていることなどに感慨する様子も、再会を懐かしむ言葉を出すこともなく、息子の名を呼んだ。
「今、お父さん、いないでしょ。知春はいるの?」訊ねた久子に、求は頷きだけを返した。
「ちょっと上がるよ」言った久子は、男ともども、靴を脱いで上がった。男の表情からは、感情というものが全く覗えなかった。部屋のメタリカはつけ放しで、ラーズ・ウルリッヒのドラミングが響き渡っていた。
「お金、ちょっといい? 三万円でいいの」座卓前に座るなり、久子は無心してきた。
「私、この人と二人で、仏様のお参り、やってるのね。それで、お仏壇と、金で出来た、お釈迦様のお人形、買わなくちゃいけないの。他の信徒さん、みんなそれ買ったから、今、幸せになってるんだって支部長さんが言ってるのね。本当は二つで二十万円なんだけど、今回だけ特別に三万円でいいって言うの。だから、三万円、貸してくれる? 今回三万円払うと、正僧正先生の不思議なお力で、お金がたくさん儲かるようになるっていうのよ」
求は立ち、自室へ行き、給料袋から三万円を抜いた。これで残りは一万円になった。久子に金を渡すのは、母親を思う気持ちからではない。渡すまで帰らず、座り込みを続けることが分かっているからだ。
久子の目に見えている世界は、目先と、自分の身の周りだけなのだ。
「ちょっと、こっちに足出さないでよ」求が渡した三万円をくしゃりと握りしめた久子が男に言い、男が、何だよ、と返した。
「出してねえよ。そっちが出してるんだろ」「そっちが先に出したんじゃん!」「出してねえっつってんだろ。ふざけるんじゃねえよ、この野郎!」「あんたがふざけるんじゃないよ!」
同じ言葉を繰り返す応酬が、ぱん、ぱん、という音の立つ、平手でのはたき合いに変わった。男が久子の頭を叩き、久子も肩許を叩き返し、掴み合いになり、男があっと声を上げた。久子が男の下腕に嚙みついたのだ。
てめえ、ああ!と聞こえる声を男が発した時、襖が勢いよく開き、二人の動きが止まった。茶の髪をした知春が出てきて、互いに髪と裾を掴んでいる母と、その恋人である男の前に立った。
「おい」知春が言い、男の胸を踵で蹴った。どかっという聞こえで肋骨が鳴る籠った音とともに、男の体が後頭部からごんと倒れた。
「こんなとこで見苦しいことやんなよ。まして、てめえのガキの前でよ。お前ら二人だけの部屋ででもやれよ」知春が声低く言うと、身を起こした男が、半ば這いながら玄関へ向かい、それを久子がおろおろと言葉なく追った。
「あいつに金、出したの?」ドアが閉まり際、知春が気怠い口調で兄に訊ねた。求は無答だった。
「今日はこれで、ああいうのぶっ飛ばしたの、二回目だよ」知春は言って、ベランダ窓に体を向けた。その口許には嗤いが浮き出している。
「遊歩道に店出してる、白い服着たパン屋の息子いんだろ。あの知恵遅れのくせに生意気な奴」
知春の言う人物は、求にも面識がある。同じ米原北小学校の特殊学級に在学していた二歳上で、悪口を言われたり、囃されたりすると、言い返してくる。馬鹿、と言うと、お前が馬鹿だ、と返してくる、一見障害の分かりづらい見た目をした少年が、求の記憶にもよく残っている。
「綺麗に、鼻にすぱっと入ったぜ。鼻の骨折れんの、はっきり分かったよ。それで鼻血、ぶー、なんてもんじゃねえ、どばどば」愉快げに語る知春の口許には、陰惨な笑いが刻まれていた。
自分自身、また、周囲が、後戻り出来ない坂を転がり落ちている。だが、今日の勝江台での出来事を経ても、人生への回答が、世界レベルのロック、以外のものが見当たらない。
部屋からは、DIE、を連呼する、ジェイムズ・ヘットフィールドのシャウトが響いていた。
太陽フーズの仕事は、熱を出したという詐病を弄して休んでいた。
オーダーを取りに来た店員は、阿原中学の同学年に在学していたが、お互い顔は知ってはいても、話したことのない女子で、名前を仁藤りえという。接客挨拶の声を掛けてお冷を席に置いたその小柄な女子は、求に顔を凝視され、気まずげに下を向いた。
他者の顔をじっと見つめることは、癖と呼んでいいのか、自分には分かりかねている。それは、商店に入り、ラックの商品を見つめることと同じ感覚で行う。信号待ちする車列の運転席を凝視する時は、ドライバー達が一斉に、故も分からずに自分を見つめる奇異な少年を振り返り、不審なものを見る目を向ける。
メニュー表の文字は空虚なトーンで読み上げられ、それをりえがオーダー伝票に記入していく。オーダーしたものは、瓶ビールとカレー丼だった。
「少々お待ち下さい」残して厨房へ去っていくりえの背中を求はじっと見つめ、それから、睥睨するように、客席の顔を、男女問わず、じろじろと見た。
目が合ううちに、その客の顔がだんだんと曇っていくように思えるが、求はそれが何故か分からない。トレーを持ち、ホールを往来する店員にも視線を這わせた。店員達は、少し困った顔をしているように見える。
求が客達の顔をしげしげと見るうちに、一人の中年女がウエイターを呼び止め、それとなくこちらを見遣りながら、何かを訴えた。それから少しして、困惑を面いっぱいに浮かせた壮年男が、受け渡しカウンターへ行き、ホール係に何かを言っていたが、その言葉までは聞き取れなかった。なお、その男も、不快な顔で求を見た。
先日、彼の加担したことは、何という罪状が付くかは分からないが、法を犯す行為をしたことは間違いない。それが求の心に翳を落としていた。松村との交友初期、能勢と初めて会った時に感じた高揚はなく、今は、自分を囲む世界に、暗い影が挿しているように見え、黒い塊が胸に閊えているように感じる。それを誰に、どう訴えてよいのかが分からない。
松村を疑えない。だから、あれがロックの本質だと思い込む以外に、納得というものの落とし方が分からない。求にも表現可能な語彙の物言いをすれば、不良でなければロックは出来ない。暴力はロックの象徴。
堂々巡りの考えを、情報量に乏しい脳裏に這わせながら、ホールの客達をしげしげと見つめ続けた。店内のBGMは、原曲とキーの違う、歌謡曲のサックスアレンジが流れていた。
なお、その時の服装も、アンドロメダコート、リストバンド、切り裂きジーンズ、髑髏ベルトに蛇柄靴だった。
厨房から、白い厚手の調理服にスラックスという姿をした若者が出てきて、求の座るテーブル席に向かい、まっすぐにやってきた。
「ごめん、ちょっといいかな。俺、ここのマネージャーなんですよ。ちょっと言いづらいんだけどね」清潔に刈った髪をし、鈴木、という名札を付けた調理服の若者は優しい口調を努めて言い、求の目を見た。
「他のお客様から、顔をじろじろ見られて不快だっていう苦情が入ってるんだけど、覚えある? それと、今、ビール、注文したみたいだよね」求は、え、というか細い短い声を発したきり、沈黙する他の態度を取りようがなかった。
「悪いんだけど、かなり怒ってるお客様もいて、トラブルになってもいけないから、帰ってもらえるかな。その煙草だけは目をつぶってあげるから。あと、今はまだ緩いお店もたくさんあるけど、うちは未成年の人には、絶対にお酒出さないことにしてるんだよね。前に高校生がビール飲んで、フロアに吐いちゃったことがあったからさ」
求はミュージックテープの袋を持ち、席を立った。スプリング仕掛けの人形のような動作だった。それから、店の風景、鈴木の顔も見ることなく、早歩きで店を出た。店を出、アンジェ、という立て看板の前から無造作に振り返ると、白いエプロンを擁するドレス調制服に身を包んだ仁藤りえが、不安と戸惑いを刻んだ面持ちで立ち、求を見ていた。
求はそれに何も返さず、逃げる速足で、飲食店が並ぶ廊下を進んだ。すれ違う客達とは視線を合わせなかった。
バスに乗り、勝江台に出た時には、むかつきが心に満ちていた。それを他人から、故を何とするものかと問われたら、そのむかつきを語彙に変換して答えることは出来ない。
強いて言えば、そのむかつきは、他ならぬ佐藤求という人間に向けられていたのだろう。
勝江台駅の立ち食いで、イズミダのアンジェでありつけなかったビールの小瓶を飲み干し、カレーライスを流し込み食い、さまようように街で出た。
高層住宅の一階に店が並ぶ商店街で、自転車に乗った壮年の男と、接触寸前となった。それは求が前方に注意を払っていなかったためだった。
「危ないよ。ちゃんとまっすぐ前を見て歩かなきゃ駄目だよ」「うるせえな!」自転車を止め、優しく注意した老い初めの男に、求は下顎を突き出した。
「てめえこそ、ちゃんと前見て走れよ! この、のろのろチャリンコの糞爺い!」「君は、間違った言葉の遣い方を覚えて育っているね」筋を無視して噛みつく求に、男は涼しい顔をした。
「遣う言葉には注意しなくちゃ駄目だよ。言葉というものは、人の心を殺してしまう兵器の威力を持つこともあるんだからね。本当だよ」「知らねえよ。俺はアナーキーなんだからよ」「自分の足許に注意しながら、一歩一歩を踏みしめて、しっかり人生を歩んでいかなくちゃいけないよ。それは、若いうちにこそ気をつけなくちゃいけないことなんだからね。じゃあね」大東亜戦争経験者と思われる初老の男は言って、駅の方向へ自転車を漕ぎ、痩せた後ろ姿を遠ざけていった。
俺の一歩一歩とは、世界レベルのミュージシャンへの一歩一歩だ。求は心に呟きながら、勝江ストア脇の路上へ歩み進んだ。
前から、男が来た。サラリーマンとはまた違ってファッショナブルな着こなしのネクタイスーツ、リーゼント風にまとめた髪、野性を感じる顔立ちをした、三十前の齢頃に見える長身の若者だった。遊んでいる若者という風ではなく、その若さで、会社なり店なりの一城を構えている人物という感じがする。
大封筒を小脇に抱えたその男と、求が正面に面し、求が左へよけようとすると、男も同じほうへよけようとし、反対側へよけた男の進路を求が塞ぐということが、三回繰り返された。
「邪魔すんじゃねえよ、てめえ」ようやく互いの進路が開きざま、求が言い、男の腰を蹴った。こんなことが出来るようになった自分が恰好いいと思ったが、腰、脚はすでに逃げる準備をしていた。
「おい」飲食街のほうへ進みかけた求の襟首が掴まれ、自分が持ち得ない、男の強い力で体全体が引かれ、踵が後ろへ滑った。
「お前、この地元か?」求のコートの襟と手首を掴んだ男が、声低く問うた。求は腸がどっと冷える感覚を覚えた。自分よりも力で勝る相手の威圧を受ける時にはいつも感じる、惨めな恐怖反応だった。
「このままお前を警察に連れていくことも出来るぞ。警察のお世話になるか、わけを説明して謝るかの、どっちがましだと思うよ。相手によっちゃ、連れてかれる場所が警察よりも怖い所になることだってあるぞ」男は言い、求の片腕を取ったまま、襟首を押し、路面に鼻先が着くまで、彼の上体を沈めた。
通行人がちらほらと見ている気配が伝わってきた。
「その時の機嫌でこういうことをやると、命に関わることがあるんだぞ」「ごめんなさい」目に涙を溜めた求が詫びたことで、男が私人拘束していた彼の体を突き放すように放した。求の体が蛙のように路面に這った。
「お前、本当に死ぬぞ。これ、冗談でも何でもねえぞ」這いつくばる求に、男は肩から残し、背中を遠ざけていった。
身を起こし、座位になった求の頭に、先の若者のような男と、自分のような者との違いを問う思いが浮かんだ。それは、彼に出来、自分に出来ないこと、というものから始まり、彼には何故出来て、自分には出来ないのか、ということを問う思いだった。
立ち上がった時、股間の冷たさに気づいた。股を除き込むと、切り裂きジーンズの鼠径部が染みを作っていた。
この服装に、恐怖によって作られた失禁の染みがあるとなると、不様の極みだ。
目尻、口の端を下げた顔で、米原へ帰るバスに乗った時、バスの運転手、他の乗客が求の股間を見、見てはいけないものを見た、という風に視線を外した。
米原へ戻った時、酒店前で、中齢の主婦二人の立ち話を拾った。それは、米原で暴力事件が起き、被害者は精神薄弱の子だという内容だった。
家に帰り、ズボンとパンツを履き替え、今日に購入したメタリカのカセットテープを聴いている時、特徴のあるノックが鳴った。初めは弱く、叩き終わりが強いノックだった。それから、執拗にブザーが鳴らされた。
来た者が誰かは、求には分かる。
ドアを開けると、家を出奔してだいぶ経つ実母が、隣に男を携えて立っていた。母は四十代後半だが、髪を子供のような二本の三つ編みにし、服装はナイロンジャンパーに腿までの長さのスカートを履いていた。男は、安物の布ジャンパーに、灰色の安スラックスに、マジックテープの運動靴を履いた姿で、心がどこにあるかも分からない表情つきをした、母と同年代者だった。
求は懐かしさなど全く感じなかった。当然、無事を確認したがための喜びもない。
「求」母の久子は、数年ぶりに会う長男の身の丈が伸びていることなどに感慨する様子も、再会を懐かしむ言葉を出すこともなく、息子の名を呼んだ。
「今、お父さん、いないでしょ。知春はいるの?」訊ねた久子に、求は頷きだけを返した。
「ちょっと上がるよ」言った久子は、男ともども、靴を脱いで上がった。男の表情からは、感情というものが全く覗えなかった。部屋のメタリカはつけ放しで、ラーズ・ウルリッヒのドラミングが響き渡っていた。
「お金、ちょっといい? 三万円でいいの」座卓前に座るなり、久子は無心してきた。
「私、この人と二人で、仏様のお参り、やってるのね。それで、お仏壇と、金で出来た、お釈迦様のお人形、買わなくちゃいけないの。他の信徒さん、みんなそれ買ったから、今、幸せになってるんだって支部長さんが言ってるのね。本当は二つで二十万円なんだけど、今回だけ特別に三万円でいいって言うの。だから、三万円、貸してくれる? 今回三万円払うと、正僧正先生の不思議なお力で、お金がたくさん儲かるようになるっていうのよ」
求は立ち、自室へ行き、給料袋から三万円を抜いた。これで残りは一万円になった。久子に金を渡すのは、母親を思う気持ちからではない。渡すまで帰らず、座り込みを続けることが分かっているからだ。
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「出してねえよ。そっちが出してるんだろ」「そっちが先に出したんじゃん!」「出してねえっつってんだろ。ふざけるんじゃねえよ、この野郎!」「あんたがふざけるんじゃないよ!」
同じ言葉を繰り返す応酬が、ぱん、ぱん、という音の立つ、平手でのはたき合いに変わった。男が久子の頭を叩き、久子も肩許を叩き返し、掴み合いになり、男があっと声を上げた。久子が男の下腕に嚙みついたのだ。
てめえ、ああ!と聞こえる声を男が発した時、襖が勢いよく開き、二人の動きが止まった。茶の髪をした知春が出てきて、互いに髪と裾を掴んでいる母と、その恋人である男の前に立った。
「おい」知春が言い、男の胸を踵で蹴った。どかっという聞こえで肋骨が鳴る籠った音とともに、男の体が後頭部からごんと倒れた。
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「あいつに金、出したの?」ドアが閉まり際、知春が気怠い口調で兄に訊ねた。求は無答だった。
「今日はこれで、ああいうのぶっ飛ばしたの、二回目だよ」知春は言って、ベランダ窓に体を向けた。その口許には嗤いが浮き出している。
「遊歩道に店出してる、白い服着たパン屋の息子いんだろ。あの知恵遅れのくせに生意気な奴」
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