ラムドリーの未来

楠丸

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最終章

ラムドリーの未来

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 手にしている64式小銃は元より、着用しているⅯ1ヘルメットさえも、自分には重いと感じていた。

 3等陸曹の吹き鳴らすホイッスルがリズムを刻み、十人の班が、肘の力のみで、関東ローム層赤土の演習場を前進している。


 着隊期間はすでに終わり、本格的な訓練を受ける段階に入り、すでに一ヶ月が経っていた。


 30メートルの匍匐前進が終われば、銃を置き、5.5キロの集団走。

 求は、200メーターほど走ったところで、自分の顔に泣きが入っていることが分かった。リズムを刻むホイッスルの音に、何泣いてんだ! 走れ、と、区隊長の叱咤が重なる。


 採用面接の自己PRでは、勇気のあるところが長所、と答え、短所は、気が弱いところ、と正直に答えた。面接担当の尉官は、求の体格を見、重たそうだし、大丈夫だろう、とジョークを言って笑い、二日後に採用通知が送られてきた。

 志望動機では、「自分を変えたい。強くなりたい」と、本当の気持ちを包み隠さず答えていた。

 尉官は、自信がつくぞ、と励ましてくれた。その言葉に、希望を繋ごうと思った。

 駐屯地体育館で、日本拳法式の格闘訓練が始まった。面、胴、手にはグローブ、身長163センチ、体重47キロの体に股当てを着けた求は、自分よりも頭一つ高い相手と組まされ、突きで果敢に攻撃を仕掛けたが、体を捌かれて腕を取られて、脚を払われ、背中から転がったところで胸部への踏み込みを決められ、勝敗があっけなく決まった。

 二回目の立ち合いでは、面に先制攻撃の突きを決められ、腹部に胴当て越しの横蹴りを食らって、海老の恰好で尻から吹き飛び、転がった。

 昨日の実弾演習では、64式の反動に銃口が跳ね上がるばかりで、それじゃ敵を撃つ前に、お前が撃たれて死ぬことになるぞ!と曹長から怒鳴られ、指摘された。

 おめえは訓練をこなせるだけの基礎体力が足りねえ! 寝る間も惜しんで、そいつを養え! 分かったか、この鼻でかキリギリス!と、その曹長は求を喝破した。

「佐藤二等陸士」国旗がポールから下がり、官舎へ戻る時、区隊長の1尉が求を呼び止めた。

「お前は幸いだ」求は、区隊長に言われていることの意味が掴めず、ぽかんとなった。

「お前みたいな奴が大正辺りの頃に生まれて、大東亜戦争の頃に丙種合格したら、内地の当番兵に回されたことだろうよ。それはお前を前線に送れば、仲間の命が危険に晒されるからだ。それで、内地の空襲か機銃掃射で死んでたと思うぞ」

「はい。上杉1尉」「頑張れよ」1尉は残して、幹部宿舎へ踵を向けた。

 それからの求は、消灯前の腕立て伏せ、腹筋運動を欠かさず行った。初めは五回しか出来なかった腕立て伏せ、十回とこなせなかった腹筋、それが連続四十回、百回と出来るようになったのは、入隊から十二年が経過した、三十一歳の時だった。その頃、隊内教習で普通自動車免許も取得し、階級は、ぎりぎりの線で3曹試験に合格し、若干名の部下を持つことになった。その頃には、上官である2尉の紹介で見合いをし、結婚、一粒種の長男を設けた。

 なお、格闘訓練は、どれだけ年数を経ても勝つことはなかった。

 カンボジアPKOでは、武装勢力の襲撃に遭う不安の中で、給水施設の設営に従事し、阪神淡路大震災の災害派遣では、余震が続く中、瓦礫の下に埋もれた人々を救出し、東日本大震災派遣時には、被災した仙台市民にカレーの炊き出し、入浴設備を提供し、恐怖と不安に慄く人達を「頑張りましょう」と励ました。その他、熊本地震、水害、台風、能登半島地震の現場にも派遣され、班を指揮し、救護活動に身を挺した。

 1尉の「頑張れよ」という、シンプルな励ましが、心の指針となり、幾多の艱難辛苦を踏み越える力となったのだ。

 精強さを保つための早い定年退官を迎えた時は、五十代も半ばになっていた。その時には、松村や能勢兄弟のような人間達は、求の記憶の中で、埋もれた過去の一点に過ぎない存在となっていた。それに、尚子も。

 知春は、あの金の一件以来、髪を黒く染め直し、大学入学資格検定の勉強を始め、試験に合格し、短期大学に入学、その後、市職員になり、県職員となった。彼もまた結婚し、すでに高校生と中学生の二人の子を持つ人の親となっている。

 友達は、結婚や転勤などの事情で散りじりになったが、千鶴男にはすでに孫が誕生していることは知っている。

 
 令和八年三月。求が3等陸曹として在籍していた師団は、アメリカ、イスラエルの攻撃により戦火の上がったイランへ、邦人保護のため、派遣が検討されている。第二次政権を発足させた史上初の女性総理は、その攻撃を支持するか否やかには、公的には言及してはいない。だが、判断は迅速だった。

 イラン側の報復も熾烈を極めている。ウクライナの戦火も、消える兆しは見えない。キーウへのミサイル攻撃は続き、侵攻側であるロシアの戦力、経済も疲弊している。

 中国は、台湾を囲む形の軍事演習、自衛隊機へのレーダー照射などの示威行為を繰り返している。だが、その中国も、経済ショック、相次ぐ内部粛清などで、すでに足許が危うい。

 あの頃とは時代が違い、平和の値段が高いことを、国民の多くが知っている。

「雅夢、コンビニへ行こうか」髪が見事な銀となった求は、二十五歳の一粒種長男に声を掛けた。結婚後、中古で購入した二階建ての家だった。年上妻は、昼食の支度をしている。

 雅夢とともに目鼻先のローソンへ行き、彼のコーラ、スナック菓子、漫画雑誌を籠に入れた時、置かれている週刊文秋の見出しが目に留まった。その見出しには、昨年暮れに横浜の河川敷で発生した男性焼殺事件の被害者の過去が、取材によって突き止められた、という旨が打たれていた。

 被害者、加害者の双方が、過去の求と浅からぬ関わりをした人間であることは、ニュース報道によって、すでに知っている。犯人は、犯行動機について「長い間の恨みがあった」とのみ供述していることも。

 求は、その文秋を籠に入れ、スリランカ人らしい若者の店員が立つレジカウンターで会計をした。ビニール袋を雅夢が持ち、店を出たところ、駐車スペースに停まったワンボックスカーの運転席から男が降り、スライドドアを開け、杖を曳いた中年の女性を介助して降ろした。

 その女性は、仁藤りえだった。

 夫で間違いないと思われる人物に肩を抱かれた彼女の顔には、微笑が浮かんでいた。りえは目が合った求に会釈をし、求も返した。

 りえは、支えの人を得たのだ。

 問題の解決手段に腕力の行使を選ぶ人間には、脳筋という蔑称が付けられるようになった。「ぼこぼこ」という意味も、別の意味で使われるようになり、昔の暴力、犯罪武勇伝を語る人間は、人の輪において、片隅のラックに置かれる世の中だ。

 犯罪を収益手段に選ぶ人間達を、恰好いいと言う者はいない。誰もが蛇蝎を見る目で見るだけだ。

 だが、依然として、非人道的な事件は、毎日のように報道されている。悪人も、一向にいなくならない。

「ちらし寿司、美味しく出来そうよ」「親父にも食ってもらおう」求は、二歳年上で還暦前の妻に答えた。

 雅夢は無口な息子だ。そのやり取りを、微笑の顔で見守っている。

 求は、妻の作ったちらし寿司を、小さな碗に持って、微笑む小さな遺影が置かれた仏壇に供え、合掌した。

 ちらし寿司を親子三人で食べ終え、妻の淹れたコーヒーを飲みながら、週刊文秋を開いた。特集ページには、求が知る、羽振りの良い頃の能勢政也が、後ろに彫物の上半身を晒した男達を従え、愉悦の笑みを湛えた顔で立つ写真が掲載されていた。

 記事によると、その後の能勢は、株式の不正取引の他、手下と呼べる者達を使って、SNSで募った全国の生活保護受給者から向精神内服薬を安く買い叩き、それを高値で密売することで財を成し、都内の高級マンションに愛人と使用人、護衛を囲い、高級車を乗り回す派手な暮らしを送っていたが、それらの財を、昔に手下として使っていた人間から嵌められることで奪われ、ホームレスに転落した。松村容疑者は、能勢のマンションで長年飼い殺しにされていた使用人であったことが、取材により判明したのだ、とあった。

 週刊文秋を閉じた求は、瞑目した。自らの生を紡ぐ手段を悪徳のみに見出し、金、女、車、自分に従う人間達の全てから捨てられ、滅亡した男と、獄の中で死ぬかもしれない人間の未来を弔う思いが、その心の中にあった。

 同時に、遠い昔のほの甘いクレープと、二人で公園通りを歩きながら、ロックと松村さん、同じぐらい好き、と言った時の純粋な思いの記憶が、求の胸に去来した。あの時のあの言葉には、確かに嘘はなかったのだ、と、求は今も思う。

 ちらし寿司で昼の団欒をする一組の一家を、遺影の父が、微笑ながら見守っているように見えた。

 完。

 作者注:この小説はフィクションであり、登場する人物、団体、会社は、実在のものとは関係ありません。

 

 

 
 

 

 

 

 

 



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