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19章
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太陽フーズの仕事は、朝のパニック症状によって行けなくなり、退職した。求の知能は、国民の義務というものをまだ理解していない。中学と同じく、感情のまま、行きたくないのであれば行かない、というものを履行しているのだが、仁藤りえの凌辱現場を見、その際に思い知らなくてはいけなかった自分の無力さがトラウマとなり、また、金を稼ぐ目標を失ったことが大きく響いているのだ。それにより、昼夜問わず、不安発作が起こる。
目の前に押し広げられた膣孔が、傷口の形を取り、痛みの感覚とともに、自分の意思に関係なく再生されるのだ。
自分は、尚子に会いに行く金を稼ぐために働いていた。しかし彼女は、若い実業家の土屋に、その身柄を事実上買い取られた。
今は、一夫の給与から月三千円だけを渡され、無職の生活を送っている。だが、千鶴男を始めとする友達は、休むことで苦しみが癒えるのなら、と、求を理解し、仲間の集まりには呼んでくれている。
その暮らしは、もう半年続き、1987年はもう師走に入ろうとしている。学校は冬休みで、駅前では正月用の注連縄などが売られ、街は年末ムードだ。
臨時ニュースです! 現在、東京ベイエリアにて、恋が大量発生しております! 緊迫した口調を装っているが、映る俳優、女優の顔がのほほんとしているオープニング。高視聴率を叩き出している「キミこそ大スター!」の主題歌が流れている時、黒電話が鳴り響いた。
変わらず、知春の所在は分からず、今週、一夫は遅番のシフトだった。
黒電話の通話口から繰り返し流れる、もしもし、という声は、憔悴しきった、泣き声混じりの男の声だった。その後ろからは、さっさと言え、おら、という低い嚇し声も聞こえた。
「佐藤か。俺、松村」「松村さん?」「今すぐ、勝江台のZE’Zに来てくれるか。頼む。でなきゃ、俺」
電話が切られた。求は、通話終了のコールを鳴らし続ける受話器を持ったまま立ち尽くした。
受話器をフックに置いた求は、少し躊躇った末にコートを羽織った。それから広告の裏紙に「勝江台のZE’Zにいる」と一夫宛てに書き残し、財布を持ち、家を出た。
バスのスイングの中で考えた。松村は、四月のあの夜、校庭花壇のサルビアを引きちぎったあと、求に対して、お前と組みたい一心でギターを一生懸命練習しているのだ、と涙を流しながら語った。
それから、二人の間に連絡が交わされることはなかった。求は、金を持ってこいと言われた場所に、その時刻に行かなかった。これは松村との絶縁の意思を固めたことの証しだった。彼が口頭提示した金額は法外で、アンドロメダコートその他の物は、どこからどう見ても売値などつかない、せいぜいくれてやるというところが妥当の代物であり、代金の請求などは不当なことであることを、自分で判断したのだ。その後、松村からの電話はなく、彼の姿を米原で見ることもなく、半年が過ぎた。
運転席近くの単座席に座る求の脳裏には、あの制裁の夜に松村が流していた涙があった。コードを押さえる指から血。それはお前と演りたいから。
そう訴えた人間が窮地に立たされている。行って何をするべきかは分からない。だが、行かなくてはいけない。求が生まれて初めて心に覚えている不文律、義務の感覚だった。それはサルビアが引きちぎられたあの夜、松村が自分に浴びせた怒りの言葉にも一つの理があったと思えるためでもあった。
発達不全のメンタルが起こす衝動に任せ、他人の前で恥を振り撒いていた自分への反省も。谷千代ランチの社長が言ったことは、しごく真っ当なことだった。もも八のアメリカ人から、そのあとで店長から受けた警告も、忠告も。イズミダの面接が、あれで受かるはずはなく、同じく、仁藤りえがアルバイトしていたアンジェの若いマネージャーも、自分の襟を正してくれたと思う。
松村のために何が出来るかなど、全く分からない。深夜の獣道を一人、灯りも持たずに歩いているようなものだ。
だが、行かなくてはならない。
勝江ストアの脇を通り、何組かの酔漢とすれ違いながら、飲食街へ歩を進めた。空は曇り、星は出ていなかった。
吐く息は白い。
螺旋階段を擁する三階建てビルの壁面の、MUSIC HOLE ZE’Z、の内照看板は、灯りを暗く消している。
地下に降りた求は、本日は閉店しました、という札の掛かる鉄製のドアを押した。洋酒のボトルが並ぶバースペースのカウンターチェアに、デザイナーブランドのトレーナーにパンツという姿の能勢政也が座り、悠然とコーヒーを飲みながら、煙草を燻らせていた。
「佐藤君、久しぶり」能勢が穏やかな声を掛け、求は会釈を省略した。この男の正体、素性は、自分も目の当たりにし、また、松村の話を聞き、すでに知っている。
「松村君は今、ホールで、うちの弟とお話をしてるんだ。君にも聞いてもらいたいお話だから、君も呼ばれたみたいだね」言い、チェアを立った能勢が、ホールのドアを開けた。求が入ると同時に、ドアは閉まった。
アンプ、スピーカー、ドラムセットが並ぶステージの上に、トランクス一枚の姿にされた松村が、両手首、足首を拘束されて横たわり、それを能勢浩、迷彩服を着た、恰幅の良い体つきをした二人の男が見下ろしていた。
浩の肩には一本の鉄パイプが担がれ、迷彩服のうち、一人がアイスピックを持ち、もう一人の拳にはメリケンサックが嵌まっている。松村の顔は青黒く鬱血し、瞼は腫れ、ぱっと顔を見ただけでは、もはや誰かも分からない。体にも痣がある。流れ出した鼻血は、胸まで滴っている。
これまでの時間で、松村がどれだけの私刑を受けたかは瞭然だ。
「おう。よく来たな。こいつがお前を呼べっつうから、電話、掛けさせて呼んだんだ。来い」浩が言い、求はステージに上がった。
「お前が自分の身代わりになるからって、こいつが言ってんだよ」「どういう話なの?」「こいつはな、月十五、俺らに納めなきゃいけねえ上がりを納めなかったんだ。払う、払うっつって、延々と先延ばしにしてな。それで話聞いたらよ、これまで巻き上げてた奴らに、その金を返してたとからしいんだよ」浩は言うと、横たわる松村の頬に革靴の踵を載せた。腫れた頬が、踵に押されてたわんだ。
ホールのドアが開き、能勢政也が入ってきて、求の隣に立った。
「説明不足だったことは率直に詫びるよ」言った能勢が求の顔を振り返り見た。
「僕らの世界にはね、決して破ってはいけない決まりがあるんだ。その決まりを、彼は破ってきたんだよ。こちらに世話になっている恩を忘れてね。それで、こちらなりの毅然とした対応をしてるところなんだ」
能勢が言った時、迷彩服の男が、松村の髪を掴み、上体を引き起こした。もう一人の迷彩服の男が、おら、とも、うら、とも聞こえる嚇し声を発し、メリケンサックの拳を、松村の頬に、肩口から打ち下ろすフックと、フルスイングの裏拳を二発、叩きつけた。頬肉の潰れる陰惨な音が鳴り、口から赤い唾液を垂らした松村の上体が揺れた。そこへもう片割れの男が、松村の首を掌で固定し、鳩尾に膝を入れた。松村はステージ床に崩れ、這った。血の唾液が、床に塗りつけられた。
「人様から奢られるっていうことの社会的な意味って、分かる?」圧し殺された呻きの中で、能勢が求に問うた。
「奢りっていうのは、実は無償じゃないんだ。お歳暮返しと同じで、奢ってもらった分を何かで返すことを前提に行われるものなんだよ。これまでお世話になりました、または、今後よろしくお願いいたしますっていう、契約的な意味があって成り立つんだ。僕が何を言いたいのか、分かるかな」「これが三月の飲み代だ。見ろ」能勢に次いで浩が言い、端のアンプを、手の鉄パイプで指した。
求はアンプに寄った。アンプの家には、十枚あまりのポラロイド写真が、トランプカードのように並べられていた。
それはいずれも、年端も行かない少女の写真。まず目に入ったものは、下半身裸で四つ這いの体勢にされた、十二歳くらいに見える少女が、露わにされた肛門と性器をファインダーに向け、男の手で髪を掴まれ、顔を向けさせられている写真だった。写真の少女は、泣きに泣いて、そのあとで一切を諦めきった顔をしていた。全裸で大きく脚を開かされ、性器と一緒に剥きだしにされた肛門に浣腸を挿入されている全裸の少女がいた。その少女は歯を食いしばった顔をし、涙を流していた。下から膣、後ろから肛門を貫かれ、前からフェラチオを強いられ、三人の男の相手をさせられている、小さく、幼い体。いずれも、大の男が少女を凌辱している写真で、辱められる子供の悲しみと、薄汚い男達の暗い欲望を、求は一枚づつから感じ取った。
「来年の正月明けに、池袋ムーンプラザで、元山アリスっつう十歳のロリータアイドルのサイン会、握手会があるんだよ。無修正の、毛が生えてねえあそこ丸見えの写真集出して、それを四十、五十のいい齢ぶっこいたおっさんが挙って買い漁ってんだ。その握手会に詰めかけるおっさんどもによ、てめえら二人で、そいつを一枚、だいたい五つから六つで捌いてこい。出来ねえっつうんなら、こっちにも考えがあるからな」浩は言い、格子柄ブルゾンの懐から、一枚の写真を出した。
かざされた写真には、退勤途中と思われる、紙バッグを提げ、冬着姿で歩道を歩いている一夫が写っていた。
「お前の親父だろ。名前は佐藤一夫。流通センターで働いてんだよな。あの辺りは交通が激しいよな。この親父が、トラックに突っかけられて、脳味噌ぶちまけた死体になって転がってもおかしくはねえよな。トラックに、ぐしゃっと頭、踏まれるかもしんねえぜ。どうするよ。交通事故の死人が増えてることは、お前もニュースぐれえ見て知ってんだろ」浩は薄笑いを浮かべた顔で、ぴたぴたと求の頬を嬲るように掌で叩いた。
「もう一つ、ついでに見てほしい写真があるんだ」能勢は穏当な口調で言って、デザイナーズパンツの尻ポケットから、二枚の写真を出し、これまたトランプカードのように、Ⅴ字型につまんだそれを求に見せた。
勝江台のレストランでの不動産業者の恐喝、仁藤りえの輪姦に中心的に加わった、赤髪パンチパーマの男。その男の大写しの顔には、鼻がなかった。顔の中心には、逆ハート型の赤い穴が開き、上唇から、あんぐりと口を開いた顎下まで血が滴っている。大きく見開かれた目からは何本もの筋を引いた涙が流れ、その時に発した命乞いの言葉までが聞こえんばかりの写真だった。
もう一枚。荒れ果てた中学校のトルエン売りに同行し、同じく、りえをレイプした、おそらく充てる漢字は照尾、であると思われる男。写真の中で彼は、彫物露わな全裸で、どこかの草叢に横たわり、手首を切断された下腕を持ち、絶叫を振り撒いている。
「この二匹は、売上をちょんぼして、埼玉へ逃げたところを捕まえたんだよ。勿論このあとは、火葬場の竈に放り込まれて、生きたまま骨になったよ。こちらは、君の顔ももう、写真に収めて押さえてるんだ。逃げられはしないよ。絶対にね」能勢は穏やかな雑談の調子で言って、揃えた下腕に顔を埋めて頽れ突っ伏している松村を見た。
「この写真捌きの仕事、よろしくね。売上の二割が君達にバックされるからね。それから、また、君らのデビューの話を進めよう」
この男が音楽会社の社長などではないことは、求にもすでに分かりきっており、その証拠は、すでに目の前に存在している。
「松村さんのこと、離してあげて!」求が叫ぶように言うと、意外な言葉を聞いたように、居合わせた男達が彼を見た。
それは松村が、彼に出来るやり方で、彼自身の罪を贖おうとしていたことを、浩の口上で知ったことにより、求の中に芽生えた殊勝な心から出た言葉だった。
「何だ。じゃあ、てめえがこいつの代わりにヤキ食らう覚悟あんのか」浩が言った時、突っ伏しから顔を上げた松村が、ひっという声を上げた。
「お願いです、俺のことはもう殴らないで。殴るなら、 こいつ、やって下さい。お願いします」
涙声で叫んだ松村を、求は情けないと思う気持ちさえも失せていた。この男への庇いはすでに解け、多くの履き違えパンクスと同様に、彼が最後に帰り着く場所は、所詮は保身なのだ。それは松村同様にこの兄弟の飼犬になることに喜々とし、自分が利用されていることにすら気づかぬ岡安のような男とて同じだ。
みんな同じだ。盛んに自分の武勇伝や暴力自慢を強調して語り、必要以上に男の看板を人前で張ろうとする人間は。
その時、ホールのドアが開き、一人の人間が、静かに肚を据えた居住まいで入ってきて、ステージ前に来た。どこの中年男かと思ったその人間は、求の父、一夫だった。迷彩服の男二人の顔に、場違いな人間を見る驚きが浮かんだが、能勢の表情、態度は動かなかった。
「お父さん」求が小声で言い、浩がせせら笑いを顔に浮かせた。
「おいおい、おめえの親父は何しに来たんだろうな。まさか俺達と実力でかち合って、てめえのガキを連れ戻す気で来たのかな」浩は嗤いを強めた。
迷彩服の男二人は、酷薄な微笑を口許に刻み、小柄な一夫を見下ろしているだけだった。
「私の子供を返してくれ」「何だ、そりゃ。まるで俺達に息子をさらわれたみてえな言い方だな。息子はよ、てめえの意思で、俺達に近づいてきたんだよ。それをよ、こっちが盗人みてえな言い方すんなよ、おっさん」訴える一夫に、浩は歯を剥き出した。そばに立つ能勢政也の表情、姿勢に動きはない。変わらず、身なりの清潔保持に気を配る、若い文化人然とした微笑を湛え、すっと立っているだけだ。
一夫は目を伏せた顔で、ステージに昇った。
「息子は、何かの落とし前を君達につけられようとしてるのかね」一夫の目が、迷彩服の男が手にしているアイスピックに向いた。
「落とし前とやらは、このガキの態度次第だね」「なら、落とし前は、代わりに私がつける」
一夫が言った時、確かに浩の眉が動いた。迷彩服の男達も固唾を呑む顔つきになった。能勢の態度は変わらない。彼は、優しげな眼の中に冷えた光を湛え、事の進行具合を見ているだけだ。
「刃物はないのか。君達は、暴力団だろう。私の指でよければ」「お父さん!」求が叫んだ。
「そら、こいつがあっからよ」浩が言い、手下の持つアイスピックを顎でしゃくった。迷彩服の男からアイスピックを受け取った一夫は、少女達の凌辱写真が並ぶアンプに左手を置いた。
「お父さん、やめて!」「この落とし前の代わりに、そこの彼の身柄も解放してはもらえないか」求が叫び、一夫は自分の左手甲の上にアイスピックの先端を当てながら、語勢は弱いが、中身のしっかりとした言葉を投げた。
「構わねえぜ。言っとくけどよ、硬えもんが骨砕くのは、痛えぞ。おっさん、てめえ、この場で気が狂っちまって、倅を助けるどこじゃなくなっかもしんねえな」浩の言葉に、一夫は振り向かなかった。
アイスピックが、一夫の頭上脇にまで振り上げられた。求は泣いていた。
アイスピックが骨を貫通する音は、キャベツの芯、あるいは生の人参を包丁で断つ音に似ていた。
一夫は、掌からピックの先端を覗かせ、唇を震わせながら、アンプの前に跪いた。振り返った顔の一面が、みるみるうちに、脂汗で濡れ始めた。
「お父さん!」求は叫び、父親に取り縋った。
父親が苦悶を懸命に圧し、求がその体を抱きしめ、泣きじゃくる時間が、三、四分ほど過ぎた。
「約束を、守ってくれ」震える右手で、血を滴らせて震える左手からアイスピックを抜き、床に落とした一夫が、チョークの呼吸に載せた言葉に、迷彩服の男達は懸命に動揺を隠し、浩は露骨にうろたえた顔と体恰好になっていた。
一夫を見る能勢の目色は、どこかが微妙に変わっているように見えたが、彼だけが、迷彩服の二人のような動揺、浩のようなうろたえを見せてはいない。
「約束だ。息子を返してくれ。それと、松村君っていう、そっちの彼も、離してやってくれ」一夫のビブラートする声に何かを圧されたように、迷彩服の二人が、松村の手首と足首の縄を解き始めた。
「帰るぞ。タクシーを待たせてる」一夫は、泣き続ける求の肩を抱き、ステージを降りた。パンツ一枚の松村がそのあとを追い、父子の隣に並び、屈み歩きでドアへ向かって進み始めた。求は後ろを振り返らなかったが、能勢、浩、迷彩服の二人からの視線に背中を打たれていることを感じた。能勢はなおも、微笑の気さえある顔で、自分の背中を見ていることだろう、と、啜り泣きながら思った。
「救急車を呼んでやる」タクシーの前で一夫が言ったが、松村は、トランクス姿のまま、上体を深く屈め、膝の間が外側へ開いた、まるで老人のような歩き方、速度で、駅とは正反対の方角へ、その姿をフェイドさせていった。
「松村さん!」「求」松村を呼び止めかけた息子に、一夫が言い、隣り合わせの顔を向けた。
「これでいいんだ。彼には彼の行き先がある。彼の、行き着く場所だ。彼は、そこでこれからも生きて、その場所で死んでいくんだよ。それが」一夫は言葉を区切った。
「落とし前?」訊いた息子に、一夫は二寸ほど遅れて頷いた。
タクシーは停車ランプを点滅させていた。求には、その点滅具合が、明と暗が交互に訪れる、人の一生に重なってならなかった。
求は、松村が手渡してくれたクレープの味と、食事の箸遣いを正してくれた時の優しい眼差しを思い出していた。それがまた、止みかけた涙を溢れさせた。
タクシーの料金を支払い、一夫に肩を貸し、三階へ昇ると、家の鍵が開錠されていた。玄関には、膝までの長さを持つ黒いブーツが脱ぎ置かれている。
家には見知らぬ男がいた。茶のスーパーリーゼントの髪をし、背中に昇り竜と髑髏、牡丹が刺繍されたブルゾンを着、腿部の膨らんだカーキ色の戦闘服風ズボンという姿をした男が、茶箪笥の引き出しをがさがさと検めている。空き巣をやるには目立ちすぎの見た目をした姿を見た求には、それが何者であるのかを一目瞭然に理解した。それは隣の一夫とて同じだろう。
眉を剃り落とした顔が、二人のほうを向いた。
「何だよ、こらぁ」完全なチンピラ姿の知春が、兄、父、どちらにともなく、眉のない眉間に皺を寄せ、舌を巻き立てた。
「知春」「あ?」父に名を呼ばれた、姿、形相の変貌した次男は下顎を突き出した。
三人の間に、しばしの黙が流れた。
「何が言いてえんだよ、今さらよ」「知春、今、話しに応じられるか」先に黙を破った次男に、父の一夫が呼びかけた。
「てめえになんかに話すことは何もねえよ」「聞け」一夫は、家の財布から抜いた二万円を手に、肩をいからせて立つ知春に歩を詰めた。
「今、俺は、お前がなりたがってた、支配者っていう奴らと交渉してきた。その証しが、この手だ」一夫は言い、血に濡れている左手の甲をかざした。
「だがな、お前がこれまで散々侮ってきた、IQが低いために倉庫でしか働けない、この公団から抜け出せない、ださい親爺は、息子一人を助けるために、奴らには頭を下げなかったぞ。銭金で決着を付けようともしなかったぞ。そこで訊くぞ。お前は、今、引き出しから抜いたその金で何を買うんだ。ギャンブルか。それとも飲み食いか」
知春の顔に、唇を歪める嘲笑が浮き出した。
「その金はな、俺が流通センターの倉庫で、自分の子供みたいな男達から怒鳴られながら積み込みやって、一日中這いずり回って稼いだ分の一部だ。そういう社会生活を送る人間を笑えるほど、お前は立派な支配者になったつもりでいるのか」「その考えは崩しちゃいねえよ。ただ、前に考えてたものとは道が違えだけだよ。それは、今、そこに突っ立ってるその馬鹿みてえに、無駄に素直で純粋なだけが取り柄で、他人の分までのババ引く人生を送るよりは、いっそのこと、ぶん奪る側に回って、てめえの実力本位で人生を回そうとしてるだけだぜ」知春は求を顎でしゃくり、馬鹿、を罵倒風に強調して述べた。
「求を笑うな」一夫が低い喝を放った。
「こいつはな、今日、自分を散々卑しめて、貶めてきた人間を助けるために、愚連隊のアジトっていう地獄へ一人で乗り込んでいって、その地獄から、自分の足で帰ってきたんだ。ペーパーテストの成績だけを根拠に、これまで他人を見下してきたお前なんかよりも、今のこいつはずっと強く賢くなってるんだ。それがお前は、怠け者の無法者の誘惑に乗って、自分を焼く火の中に、ほいほい吸い寄せられてる」「てめえに関係ねえだろ」「関係ねえで埒が明くと思ってるのか、知春」一夫の声に迫力が籠った。知春の目が泳いだことを、求の目は見逃さなかった。
数秒の黙の間、知春は視線の泳ぎを隠すように俯いていた。そのチンピラ然とした髪、服には全く似合わぬ態度だった。
「金は、抜いたその二万で間に合うのか」一夫に問われた知春は、項を垂れた体恰好を変えることはなかった。
一夫は、居間へ移動し、茶箪笥の引き出しから出した通帳と銀行印を持ち、長男と次男の前に戻ってきた。
「この中に三百万入ってる。取れ」知春は、目の下に差し出された預金通帳と、父親の顔を、どこか訝しげな面持ちで、交互に見た。
「この中の金はな、お前達がそれこそ赤ん坊の頃から、お前達の将来に備えて俺が貯めてきたものだ。この貯金のために、俺は楽しみだった晩酌もやめて、ここ十幾年、酒を一滴も飲んでない。お前達のために、ただ一つの楽しみを削って、今日までやってきたんだ。全ては、お前達の幸せのためだよ」
知春の目が、激しい泳ぎと瞬きを見せた。足許の居加減は、すでにその場から逃げる体勢を作っている。
「だから、今日は、この痛みにも耐えることが出来たんだ」一夫が言って、流れた血が乾き始めた左手甲を掲げた時、知春の喉口から、喘鳴のような呼吸が漏れ出した。
やがて、そのチンピラ姿が、高熱に浮かされたように震え、開いた右手から、二枚の福沢諭吉札がはらはらと舞い落ちた。
「何だ。まだいらないのか。じゃあ、肉と野菜もあることだし、これから三人で、久しぶりに鍋でも囲もうか」一夫は言うと、求に財布の二千円を手渡した。
「十何年ぶりに酒が欲しくなった。松本酒店で、ビールの樽のやつを一つな。それを三人で飲もう」求が頷いた時、跪き、肘を床に着けた知春は、紅潮した横顔を見せ、大粒の涙滴を落として、低い咽びを上げていた。
二千円を持ち、玄関を出た時、ドア越しに、堰を切ったような号泣が求の背中を打ってきた。
左手に包帯を巻いた一夫が具材を入れ、三人で、豚肉、白菜、豆腐、葱、卵の入った味噌味の鍋を囲み、2ℓのアサヒを酌み交わした。長男、次男ともに未成年だが、今日は特別という雰囲気だった。知春は、ビールの入ったコップを前に、無心の顔で食った。悪人を演出した眉のない顔の表情には、幼い頃以来の素直さが戻っていた。
鍋は、ことことと温かく煮えていた。
「二人とも、仕事はゆっくり探せ。探してる間は、お前達の食う分は、俺の稼ぎと預金で何とかなる」「仕事」一夫の言葉に、箸を止めた知春が呟き落とした。
「でも、俺、もう、体に彫っちゃったし。筋だけど」「それを見せびらかしたりしない限り、世間はそんなに狭くはないさ」一夫は言って、コップのビールを味わうようにして飲み、鍋具を啜り込んだ。
「俺、もう決めたよ」求が言うと、一夫が彼を見、知春が、俯けていた顔を上げた。
「俺、自分のこと、甘やかす癖がある。だから、厳しい所、入りたい」「得度するのか」「とくどって何?」「巷じゃあまり聞かれない言葉だから、知らんのは無理もない」一夫は笑って、峰に点火した。
「頭を剃って、坊さんになることだ。なりたければ、浄土真宗の知り合い、紹介するぞ」言った一夫は、かかっと笑った。
「お坊さんじゃないよ」求は呟いて、父親の顔を見た。それからまた視線を外し、やがて、唇をぽつっと開かせた。
「その、自衛隊」
鍋の煮える音を残し、三人の間に黙が落ちた。
一夫は、決意を伝えた長男のコップにビールを注いだ。覚悟がまだ中途な顔を俯けた求を、父親がふんだんな情、弟が、少しの驚きを含んだ目で見た。
鍋の音は、一組の父子を、一つのものとすべく優しく溶解するように、テレビを消した居間に鳴り続けていた。
目の前に押し広げられた膣孔が、傷口の形を取り、痛みの感覚とともに、自分の意思に関係なく再生されるのだ。
自分は、尚子に会いに行く金を稼ぐために働いていた。しかし彼女は、若い実業家の土屋に、その身柄を事実上買い取られた。
今は、一夫の給与から月三千円だけを渡され、無職の生活を送っている。だが、千鶴男を始めとする友達は、休むことで苦しみが癒えるのなら、と、求を理解し、仲間の集まりには呼んでくれている。
その暮らしは、もう半年続き、1987年はもう師走に入ろうとしている。学校は冬休みで、駅前では正月用の注連縄などが売られ、街は年末ムードだ。
臨時ニュースです! 現在、東京ベイエリアにて、恋が大量発生しております! 緊迫した口調を装っているが、映る俳優、女優の顔がのほほんとしているオープニング。高視聴率を叩き出している「キミこそ大スター!」の主題歌が流れている時、黒電話が鳴り響いた。
変わらず、知春の所在は分からず、今週、一夫は遅番のシフトだった。
黒電話の通話口から繰り返し流れる、もしもし、という声は、憔悴しきった、泣き声混じりの男の声だった。その後ろからは、さっさと言え、おら、という低い嚇し声も聞こえた。
「佐藤か。俺、松村」「松村さん?」「今すぐ、勝江台のZE’Zに来てくれるか。頼む。でなきゃ、俺」
電話が切られた。求は、通話終了のコールを鳴らし続ける受話器を持ったまま立ち尽くした。
受話器をフックに置いた求は、少し躊躇った末にコートを羽織った。それから広告の裏紙に「勝江台のZE’Zにいる」と一夫宛てに書き残し、財布を持ち、家を出た。
バスのスイングの中で考えた。松村は、四月のあの夜、校庭花壇のサルビアを引きちぎったあと、求に対して、お前と組みたい一心でギターを一生懸命練習しているのだ、と涙を流しながら語った。
それから、二人の間に連絡が交わされることはなかった。求は、金を持ってこいと言われた場所に、その時刻に行かなかった。これは松村との絶縁の意思を固めたことの証しだった。彼が口頭提示した金額は法外で、アンドロメダコートその他の物は、どこからどう見ても売値などつかない、せいぜいくれてやるというところが妥当の代物であり、代金の請求などは不当なことであることを、自分で判断したのだ。その後、松村からの電話はなく、彼の姿を米原で見ることもなく、半年が過ぎた。
運転席近くの単座席に座る求の脳裏には、あの制裁の夜に松村が流していた涙があった。コードを押さえる指から血。それはお前と演りたいから。
そう訴えた人間が窮地に立たされている。行って何をするべきかは分からない。だが、行かなくてはいけない。求が生まれて初めて心に覚えている不文律、義務の感覚だった。それはサルビアが引きちぎられたあの夜、松村が自分に浴びせた怒りの言葉にも一つの理があったと思えるためでもあった。
発達不全のメンタルが起こす衝動に任せ、他人の前で恥を振り撒いていた自分への反省も。谷千代ランチの社長が言ったことは、しごく真っ当なことだった。もも八のアメリカ人から、そのあとで店長から受けた警告も、忠告も。イズミダの面接が、あれで受かるはずはなく、同じく、仁藤りえがアルバイトしていたアンジェの若いマネージャーも、自分の襟を正してくれたと思う。
松村のために何が出来るかなど、全く分からない。深夜の獣道を一人、灯りも持たずに歩いているようなものだ。
だが、行かなくてはならない。
勝江ストアの脇を通り、何組かの酔漢とすれ違いながら、飲食街へ歩を進めた。空は曇り、星は出ていなかった。
吐く息は白い。
螺旋階段を擁する三階建てビルの壁面の、MUSIC HOLE ZE’Z、の内照看板は、灯りを暗く消している。
地下に降りた求は、本日は閉店しました、という札の掛かる鉄製のドアを押した。洋酒のボトルが並ぶバースペースのカウンターチェアに、デザイナーブランドのトレーナーにパンツという姿の能勢政也が座り、悠然とコーヒーを飲みながら、煙草を燻らせていた。
「佐藤君、久しぶり」能勢が穏やかな声を掛け、求は会釈を省略した。この男の正体、素性は、自分も目の当たりにし、また、松村の話を聞き、すでに知っている。
「松村君は今、ホールで、うちの弟とお話をしてるんだ。君にも聞いてもらいたいお話だから、君も呼ばれたみたいだね」言い、チェアを立った能勢が、ホールのドアを開けた。求が入ると同時に、ドアは閉まった。
アンプ、スピーカー、ドラムセットが並ぶステージの上に、トランクス一枚の姿にされた松村が、両手首、足首を拘束されて横たわり、それを能勢浩、迷彩服を着た、恰幅の良い体つきをした二人の男が見下ろしていた。
浩の肩には一本の鉄パイプが担がれ、迷彩服のうち、一人がアイスピックを持ち、もう一人の拳にはメリケンサックが嵌まっている。松村の顔は青黒く鬱血し、瞼は腫れ、ぱっと顔を見ただけでは、もはや誰かも分からない。体にも痣がある。流れ出した鼻血は、胸まで滴っている。
これまでの時間で、松村がどれだけの私刑を受けたかは瞭然だ。
「おう。よく来たな。こいつがお前を呼べっつうから、電話、掛けさせて呼んだんだ。来い」浩が言い、求はステージに上がった。
「お前が自分の身代わりになるからって、こいつが言ってんだよ」「どういう話なの?」「こいつはな、月十五、俺らに納めなきゃいけねえ上がりを納めなかったんだ。払う、払うっつって、延々と先延ばしにしてな。それで話聞いたらよ、これまで巻き上げてた奴らに、その金を返してたとからしいんだよ」浩は言うと、横たわる松村の頬に革靴の踵を載せた。腫れた頬が、踵に押されてたわんだ。
ホールのドアが開き、能勢政也が入ってきて、求の隣に立った。
「説明不足だったことは率直に詫びるよ」言った能勢が求の顔を振り返り見た。
「僕らの世界にはね、決して破ってはいけない決まりがあるんだ。その決まりを、彼は破ってきたんだよ。こちらに世話になっている恩を忘れてね。それで、こちらなりの毅然とした対応をしてるところなんだ」
能勢が言った時、迷彩服の男が、松村の髪を掴み、上体を引き起こした。もう一人の迷彩服の男が、おら、とも、うら、とも聞こえる嚇し声を発し、メリケンサックの拳を、松村の頬に、肩口から打ち下ろすフックと、フルスイングの裏拳を二発、叩きつけた。頬肉の潰れる陰惨な音が鳴り、口から赤い唾液を垂らした松村の上体が揺れた。そこへもう片割れの男が、松村の首を掌で固定し、鳩尾に膝を入れた。松村はステージ床に崩れ、這った。血の唾液が、床に塗りつけられた。
「人様から奢られるっていうことの社会的な意味って、分かる?」圧し殺された呻きの中で、能勢が求に問うた。
「奢りっていうのは、実は無償じゃないんだ。お歳暮返しと同じで、奢ってもらった分を何かで返すことを前提に行われるものなんだよ。これまでお世話になりました、または、今後よろしくお願いいたしますっていう、契約的な意味があって成り立つんだ。僕が何を言いたいのか、分かるかな」「これが三月の飲み代だ。見ろ」能勢に次いで浩が言い、端のアンプを、手の鉄パイプで指した。
求はアンプに寄った。アンプの家には、十枚あまりのポラロイド写真が、トランプカードのように並べられていた。
それはいずれも、年端も行かない少女の写真。まず目に入ったものは、下半身裸で四つ這いの体勢にされた、十二歳くらいに見える少女が、露わにされた肛門と性器をファインダーに向け、男の手で髪を掴まれ、顔を向けさせられている写真だった。写真の少女は、泣きに泣いて、そのあとで一切を諦めきった顔をしていた。全裸で大きく脚を開かされ、性器と一緒に剥きだしにされた肛門に浣腸を挿入されている全裸の少女がいた。その少女は歯を食いしばった顔をし、涙を流していた。下から膣、後ろから肛門を貫かれ、前からフェラチオを強いられ、三人の男の相手をさせられている、小さく、幼い体。いずれも、大の男が少女を凌辱している写真で、辱められる子供の悲しみと、薄汚い男達の暗い欲望を、求は一枚づつから感じ取った。
「来年の正月明けに、池袋ムーンプラザで、元山アリスっつう十歳のロリータアイドルのサイン会、握手会があるんだよ。無修正の、毛が生えてねえあそこ丸見えの写真集出して、それを四十、五十のいい齢ぶっこいたおっさんが挙って買い漁ってんだ。その握手会に詰めかけるおっさんどもによ、てめえら二人で、そいつを一枚、だいたい五つから六つで捌いてこい。出来ねえっつうんなら、こっちにも考えがあるからな」浩は言い、格子柄ブルゾンの懐から、一枚の写真を出した。
かざされた写真には、退勤途中と思われる、紙バッグを提げ、冬着姿で歩道を歩いている一夫が写っていた。
「お前の親父だろ。名前は佐藤一夫。流通センターで働いてんだよな。あの辺りは交通が激しいよな。この親父が、トラックに突っかけられて、脳味噌ぶちまけた死体になって転がってもおかしくはねえよな。トラックに、ぐしゃっと頭、踏まれるかもしんねえぜ。どうするよ。交通事故の死人が増えてることは、お前もニュースぐれえ見て知ってんだろ」浩は薄笑いを浮かべた顔で、ぴたぴたと求の頬を嬲るように掌で叩いた。
「もう一つ、ついでに見てほしい写真があるんだ」能勢は穏当な口調で言って、デザイナーズパンツの尻ポケットから、二枚の写真を出し、これまたトランプカードのように、Ⅴ字型につまんだそれを求に見せた。
勝江台のレストランでの不動産業者の恐喝、仁藤りえの輪姦に中心的に加わった、赤髪パンチパーマの男。その男の大写しの顔には、鼻がなかった。顔の中心には、逆ハート型の赤い穴が開き、上唇から、あんぐりと口を開いた顎下まで血が滴っている。大きく見開かれた目からは何本もの筋を引いた涙が流れ、その時に発した命乞いの言葉までが聞こえんばかりの写真だった。
もう一枚。荒れ果てた中学校のトルエン売りに同行し、同じく、りえをレイプした、おそらく充てる漢字は照尾、であると思われる男。写真の中で彼は、彫物露わな全裸で、どこかの草叢に横たわり、手首を切断された下腕を持ち、絶叫を振り撒いている。
「この二匹は、売上をちょんぼして、埼玉へ逃げたところを捕まえたんだよ。勿論このあとは、火葬場の竈に放り込まれて、生きたまま骨になったよ。こちらは、君の顔ももう、写真に収めて押さえてるんだ。逃げられはしないよ。絶対にね」能勢は穏やかな雑談の調子で言って、揃えた下腕に顔を埋めて頽れ突っ伏している松村を見た。
「この写真捌きの仕事、よろしくね。売上の二割が君達にバックされるからね。それから、また、君らのデビューの話を進めよう」
この男が音楽会社の社長などではないことは、求にもすでに分かりきっており、その証拠は、すでに目の前に存在している。
「松村さんのこと、離してあげて!」求が叫ぶように言うと、意外な言葉を聞いたように、居合わせた男達が彼を見た。
それは松村が、彼に出来るやり方で、彼自身の罪を贖おうとしていたことを、浩の口上で知ったことにより、求の中に芽生えた殊勝な心から出た言葉だった。
「何だ。じゃあ、てめえがこいつの代わりにヤキ食らう覚悟あんのか」浩が言った時、突っ伏しから顔を上げた松村が、ひっという声を上げた。
「お願いです、俺のことはもう殴らないで。殴るなら、 こいつ、やって下さい。お願いします」
涙声で叫んだ松村を、求は情けないと思う気持ちさえも失せていた。この男への庇いはすでに解け、多くの履き違えパンクスと同様に、彼が最後に帰り着く場所は、所詮は保身なのだ。それは松村同様にこの兄弟の飼犬になることに喜々とし、自分が利用されていることにすら気づかぬ岡安のような男とて同じだ。
みんな同じだ。盛んに自分の武勇伝や暴力自慢を強調して語り、必要以上に男の看板を人前で張ろうとする人間は。
その時、ホールのドアが開き、一人の人間が、静かに肚を据えた居住まいで入ってきて、ステージ前に来た。どこの中年男かと思ったその人間は、求の父、一夫だった。迷彩服の男二人の顔に、場違いな人間を見る驚きが浮かんだが、能勢の表情、態度は動かなかった。
「お父さん」求が小声で言い、浩がせせら笑いを顔に浮かせた。
「おいおい、おめえの親父は何しに来たんだろうな。まさか俺達と実力でかち合って、てめえのガキを連れ戻す気で来たのかな」浩は嗤いを強めた。
迷彩服の男二人は、酷薄な微笑を口許に刻み、小柄な一夫を見下ろしているだけだった。
「私の子供を返してくれ」「何だ、そりゃ。まるで俺達に息子をさらわれたみてえな言い方だな。息子はよ、てめえの意思で、俺達に近づいてきたんだよ。それをよ、こっちが盗人みてえな言い方すんなよ、おっさん」訴える一夫に、浩は歯を剥き出した。そばに立つ能勢政也の表情、姿勢に動きはない。変わらず、身なりの清潔保持に気を配る、若い文化人然とした微笑を湛え、すっと立っているだけだ。
一夫は目を伏せた顔で、ステージに昇った。
「息子は、何かの落とし前を君達につけられようとしてるのかね」一夫の目が、迷彩服の男が手にしているアイスピックに向いた。
「落とし前とやらは、このガキの態度次第だね」「なら、落とし前は、代わりに私がつける」
一夫が言った時、確かに浩の眉が動いた。迷彩服の男達も固唾を呑む顔つきになった。能勢の態度は変わらない。彼は、優しげな眼の中に冷えた光を湛え、事の進行具合を見ているだけだ。
「刃物はないのか。君達は、暴力団だろう。私の指でよければ」「お父さん!」求が叫んだ。
「そら、こいつがあっからよ」浩が言い、手下の持つアイスピックを顎でしゃくった。迷彩服の男からアイスピックを受け取った一夫は、少女達の凌辱写真が並ぶアンプに左手を置いた。
「お父さん、やめて!」「この落とし前の代わりに、そこの彼の身柄も解放してはもらえないか」求が叫び、一夫は自分の左手甲の上にアイスピックの先端を当てながら、語勢は弱いが、中身のしっかりとした言葉を投げた。
「構わねえぜ。言っとくけどよ、硬えもんが骨砕くのは、痛えぞ。おっさん、てめえ、この場で気が狂っちまって、倅を助けるどこじゃなくなっかもしんねえな」浩の言葉に、一夫は振り向かなかった。
アイスピックが、一夫の頭上脇にまで振り上げられた。求は泣いていた。
アイスピックが骨を貫通する音は、キャベツの芯、あるいは生の人参を包丁で断つ音に似ていた。
一夫は、掌からピックの先端を覗かせ、唇を震わせながら、アンプの前に跪いた。振り返った顔の一面が、みるみるうちに、脂汗で濡れ始めた。
「お父さん!」求は叫び、父親に取り縋った。
父親が苦悶を懸命に圧し、求がその体を抱きしめ、泣きじゃくる時間が、三、四分ほど過ぎた。
「約束を、守ってくれ」震える右手で、血を滴らせて震える左手からアイスピックを抜き、床に落とした一夫が、チョークの呼吸に載せた言葉に、迷彩服の男達は懸命に動揺を隠し、浩は露骨にうろたえた顔と体恰好になっていた。
一夫を見る能勢の目色は、どこかが微妙に変わっているように見えたが、彼だけが、迷彩服の二人のような動揺、浩のようなうろたえを見せてはいない。
「約束だ。息子を返してくれ。それと、松村君っていう、そっちの彼も、離してやってくれ」一夫のビブラートする声に何かを圧されたように、迷彩服の二人が、松村の手首と足首の縄を解き始めた。
「帰るぞ。タクシーを待たせてる」一夫は、泣き続ける求の肩を抱き、ステージを降りた。パンツ一枚の松村がそのあとを追い、父子の隣に並び、屈み歩きでドアへ向かって進み始めた。求は後ろを振り返らなかったが、能勢、浩、迷彩服の二人からの視線に背中を打たれていることを感じた。能勢はなおも、微笑の気さえある顔で、自分の背中を見ていることだろう、と、啜り泣きながら思った。
「救急車を呼んでやる」タクシーの前で一夫が言ったが、松村は、トランクス姿のまま、上体を深く屈め、膝の間が外側へ開いた、まるで老人のような歩き方、速度で、駅とは正反対の方角へ、その姿をフェイドさせていった。
「松村さん!」「求」松村を呼び止めかけた息子に、一夫が言い、隣り合わせの顔を向けた。
「これでいいんだ。彼には彼の行き先がある。彼の、行き着く場所だ。彼は、そこでこれからも生きて、その場所で死んでいくんだよ。それが」一夫は言葉を区切った。
「落とし前?」訊いた息子に、一夫は二寸ほど遅れて頷いた。
タクシーは停車ランプを点滅させていた。求には、その点滅具合が、明と暗が交互に訪れる、人の一生に重なってならなかった。
求は、松村が手渡してくれたクレープの味と、食事の箸遣いを正してくれた時の優しい眼差しを思い出していた。それがまた、止みかけた涙を溢れさせた。
タクシーの料金を支払い、一夫に肩を貸し、三階へ昇ると、家の鍵が開錠されていた。玄関には、膝までの長さを持つ黒いブーツが脱ぎ置かれている。
家には見知らぬ男がいた。茶のスーパーリーゼントの髪をし、背中に昇り竜と髑髏、牡丹が刺繍されたブルゾンを着、腿部の膨らんだカーキ色の戦闘服風ズボンという姿をした男が、茶箪笥の引き出しをがさがさと検めている。空き巣をやるには目立ちすぎの見た目をした姿を見た求には、それが何者であるのかを一目瞭然に理解した。それは隣の一夫とて同じだろう。
眉を剃り落とした顔が、二人のほうを向いた。
「何だよ、こらぁ」完全なチンピラ姿の知春が、兄、父、どちらにともなく、眉のない眉間に皺を寄せ、舌を巻き立てた。
「知春」「あ?」父に名を呼ばれた、姿、形相の変貌した次男は下顎を突き出した。
三人の間に、しばしの黙が流れた。
「何が言いてえんだよ、今さらよ」「知春、今、話しに応じられるか」先に黙を破った次男に、父の一夫が呼びかけた。
「てめえになんかに話すことは何もねえよ」「聞け」一夫は、家の財布から抜いた二万円を手に、肩をいからせて立つ知春に歩を詰めた。
「今、俺は、お前がなりたがってた、支配者っていう奴らと交渉してきた。その証しが、この手だ」一夫は言い、血に濡れている左手の甲をかざした。
「だがな、お前がこれまで散々侮ってきた、IQが低いために倉庫でしか働けない、この公団から抜け出せない、ださい親爺は、息子一人を助けるために、奴らには頭を下げなかったぞ。銭金で決着を付けようともしなかったぞ。そこで訊くぞ。お前は、今、引き出しから抜いたその金で何を買うんだ。ギャンブルか。それとも飲み食いか」
知春の顔に、唇を歪める嘲笑が浮き出した。
「その金はな、俺が流通センターの倉庫で、自分の子供みたいな男達から怒鳴られながら積み込みやって、一日中這いずり回って稼いだ分の一部だ。そういう社会生活を送る人間を笑えるほど、お前は立派な支配者になったつもりでいるのか」「その考えは崩しちゃいねえよ。ただ、前に考えてたものとは道が違えだけだよ。それは、今、そこに突っ立ってるその馬鹿みてえに、無駄に素直で純粋なだけが取り柄で、他人の分までのババ引く人生を送るよりは、いっそのこと、ぶん奪る側に回って、てめえの実力本位で人生を回そうとしてるだけだぜ」知春は求を顎でしゃくり、馬鹿、を罵倒風に強調して述べた。
「求を笑うな」一夫が低い喝を放った。
「こいつはな、今日、自分を散々卑しめて、貶めてきた人間を助けるために、愚連隊のアジトっていう地獄へ一人で乗り込んでいって、その地獄から、自分の足で帰ってきたんだ。ペーパーテストの成績だけを根拠に、これまで他人を見下してきたお前なんかよりも、今のこいつはずっと強く賢くなってるんだ。それがお前は、怠け者の無法者の誘惑に乗って、自分を焼く火の中に、ほいほい吸い寄せられてる」「てめえに関係ねえだろ」「関係ねえで埒が明くと思ってるのか、知春」一夫の声に迫力が籠った。知春の目が泳いだことを、求の目は見逃さなかった。
数秒の黙の間、知春は視線の泳ぎを隠すように俯いていた。そのチンピラ然とした髪、服には全く似合わぬ態度だった。
「金は、抜いたその二万で間に合うのか」一夫に問われた知春は、項を垂れた体恰好を変えることはなかった。
一夫は、居間へ移動し、茶箪笥の引き出しから出した通帳と銀行印を持ち、長男と次男の前に戻ってきた。
「この中に三百万入ってる。取れ」知春は、目の下に差し出された預金通帳と、父親の顔を、どこか訝しげな面持ちで、交互に見た。
「この中の金はな、お前達がそれこそ赤ん坊の頃から、お前達の将来に備えて俺が貯めてきたものだ。この貯金のために、俺は楽しみだった晩酌もやめて、ここ十幾年、酒を一滴も飲んでない。お前達のために、ただ一つの楽しみを削って、今日までやってきたんだ。全ては、お前達の幸せのためだよ」
知春の目が、激しい泳ぎと瞬きを見せた。足許の居加減は、すでにその場から逃げる体勢を作っている。
「だから、今日は、この痛みにも耐えることが出来たんだ」一夫が言って、流れた血が乾き始めた左手甲を掲げた時、知春の喉口から、喘鳴のような呼吸が漏れ出した。
やがて、そのチンピラ姿が、高熱に浮かされたように震え、開いた右手から、二枚の福沢諭吉札がはらはらと舞い落ちた。
「何だ。まだいらないのか。じゃあ、肉と野菜もあることだし、これから三人で、久しぶりに鍋でも囲もうか」一夫は言うと、求に財布の二千円を手渡した。
「十何年ぶりに酒が欲しくなった。松本酒店で、ビールの樽のやつを一つな。それを三人で飲もう」求が頷いた時、跪き、肘を床に着けた知春は、紅潮した横顔を見せ、大粒の涙滴を落として、低い咽びを上げていた。
二千円を持ち、玄関を出た時、ドア越しに、堰を切ったような号泣が求の背中を打ってきた。
左手に包帯を巻いた一夫が具材を入れ、三人で、豚肉、白菜、豆腐、葱、卵の入った味噌味の鍋を囲み、2ℓのアサヒを酌み交わした。長男、次男ともに未成年だが、今日は特別という雰囲気だった。知春は、ビールの入ったコップを前に、無心の顔で食った。悪人を演出した眉のない顔の表情には、幼い頃以来の素直さが戻っていた。
鍋は、ことことと温かく煮えていた。
「二人とも、仕事はゆっくり探せ。探してる間は、お前達の食う分は、俺の稼ぎと預金で何とかなる」「仕事」一夫の言葉に、箸を止めた知春が呟き落とした。
「でも、俺、もう、体に彫っちゃったし。筋だけど」「それを見せびらかしたりしない限り、世間はそんなに狭くはないさ」一夫は言って、コップのビールを味わうようにして飲み、鍋具を啜り込んだ。
「俺、もう決めたよ」求が言うと、一夫が彼を見、知春が、俯けていた顔を上げた。
「俺、自分のこと、甘やかす癖がある。だから、厳しい所、入りたい」「得度するのか」「とくどって何?」「巷じゃあまり聞かれない言葉だから、知らんのは無理もない」一夫は笑って、峰に点火した。
「頭を剃って、坊さんになることだ。なりたければ、浄土真宗の知り合い、紹介するぞ」言った一夫は、かかっと笑った。
「お坊さんじゃないよ」求は呟いて、父親の顔を見た。それからまた視線を外し、やがて、唇をぽつっと開かせた。
「その、自衛隊」
鍋の煮える音を残し、三人の間に黙が落ちた。
一夫は、決意を伝えた長男のコップにビールを注いだ。覚悟がまだ中途な顔を俯けた求を、父親がふんだんな情、弟が、少しの驚きを含んだ目で見た。
鍋の音は、一組の父子を、一つのものとすべく優しく溶解するように、テレビを消した居間に鳴り続けていた。
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