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18章
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汗ばむゴールデンウイーク時が来た。その日の関東甲信越は、降水確率なしの快晴だった。キャッチボールウォールの立つグラウンドで、求は、パ・リーグ式の草野球に興じている、小学校高学年から中学一年くらいに見える少年達のプレイを観ていた。少年達のうち一人の父親らしい人物が監督役を務め、「ピッチングフォームが悪い。もっと左膝を高く上げて」「打つ時は、躊躇っちゃ駄目だ」その他の指示を出している。この中には、まだ野球慣れしていない少年もいるようだ。
一夫は変わらず流通センターで働き、知春も依然として、どこで何をしているかは分からない。そして、松村の姿は、あの北小の一件以来、米原では全く見ていない。
知春は、この街に染まることで生き残りを計ろうとしたのだ。それは、山谷、米原という生きることへの難儀が付きまとう街と色を同化させ、時として越法行為に手を染めることで、必死に身を守ろうとしている松村と同じだ。だが、その身の守り方を続ければ、のちに支払うことになる代償は、あまりにも高い。それは一生かかっても支払うことが出来るかどうかも分からぬ、未知数の額だ、と、語彙を成さない思いが、求の頭に巡った。
求には、心で祈っていることがある。それは、暴力沙汰にも関わっていることをすでに知る知春が、先月に目の当たりにした、人の心、それが内包する命を踏み潰すような非行には関わることなく、更生を迎えてほしいと。
バッター役の少年が三振した時、高橋千鶴男が来た。水色の襟つきシャツと、ロサンゼルスTシャツの姿が並んだ。
「今、勉強の合間だ。来月に模試だから、飯と風呂以外の時は、基本、ずっと勉強漬け。ほら、これ見て」千鶴男は言い、右手を求の顔の下にかざし、中指の側面に盛り上がる胼胝を見せ、笑った。求も、弱い笑いを返した。
「四月に、誠一と、尊と三人で、村下で遊んだよ。アスレチックで」「そうだったか」「誠一、全寮制高校、やめちゃって、今、トラックの助手やってるって言ってた。自衛隊、目指してるんだって」「なるほど、根性あるあいつには向いてるだろうな」「尊は、障害の認定っていうのもらって、今、養護学校」「みんな、頑張ってるよな」「俺も、太陽フーズの仕事、行ってるよ」「お前も頑張ってるよな。で、将来のビジョンは立ってるの?」「ロックは、
やめたよ」
求が答えた時、髪をブリーチした二人の少年が、笑い声の混ざるけたたましい会話をしながら石階段を降り、求と千鶴男の前に来た。会話の内容は、金を賭ける徹夜麻雀のものらしかった。二人の手には煙草が持たれている。
それは二月に、求の煙草を囃した同学年の二人だった。「おう、佐藤。まだメロディ吸ってんのか」一人がひゃらついた笑いの声で、求に訊ねた。求は目を伏せ、小さく、いや、とだけ言って、かぶりを振った。
「何だ、吸わねえの? つまんねえよ。あれはお前が吸うからかっこよかったのによ」「そうだよ。ばりばりのロックで不良のお前が吸う、ロック煙草だもんな」「あのおもらいみてえな長髪も、もうやんねえのかよ。あれもお前に似合ってたのによ。上野の地下道でむしろ引いてよ、右や左の旦那様、哀れな乞食にお恵みを、ってな」二人の嘲弄に、求は何も答えなかった。
同学年の二人は、囃し笑いを撒きながら、草野球少年達の脇を通り、外周のほうへ遠ざかった。
「あんな奴らの言うこと、気にしちゃ駄目だ。自分の意志を貫く人間だけが、最後に笑うんだ」千鶴男が言い、求は二人の同学年者を、彼と一緒に目で追った。
「前に着てた変な服、捨てたんだ。それで今、お金、貯めるようにしてる」「ほう、貯金してんのか」「うん。好きな子が出来たから」「なるほど、将来のための貯金か。それはいいことだね。前のお前は、金が入ると、感情に任せて使っちゃうような印象があったけど、もう、心配ねえな。もう、変な奴とも付き合ってねえんだろ?」「うん」求は一寸遅れて頷いた。
「じゃあ、安心だな。俺はさ、大学のランク、上げようと思ってんだ」言った千鶴男を求が見た。
「まあ、頑張ったから、一、二年と、成績の一定水準は保てたよ。だけど、現状維持ばっかりを考えてるようじゃ、どんどん低いレベルの所へ引かれてっちゃうからな。そこで意を決して、セントラルを狙おうって気持ちを据えたんだよ。学部ももう決めてるよ。知ってるはずだけど、俺は理系クラスだからさ、その理系を、大学で究める。理学部さ」「理学部?」「そう。理学部で、地学科がいいと思ってるところだよ。それから、大学院、そのあとは教員免許って考えてる」「俺」求は、少し口籠り加減に言い、千鶴男の目を見た。
「自分の頭が、自分の思い通りにならないことが分かってるから、将来のことって、まだ分からない。だって、俺、勉強出来ないし、体育だって、思うように動けないし、人、怒らしてばっかり」打ち明けた求を、千鶴男は情の籠った目で見ていた。
「分からない。でも今は、そういうのから、自由になりたい」求が言った時、バッターを務める少年の名を、監督役の父親が、正志、と呼び、馬鹿なボールは打つな、とアドバイスした。求は、呻くように、「自由に」と加えた。
「今、あのお父さんが言ったこと、聞き取ったか?」千鶴男の問いに、求は少しきょとんとなった。
「俺、野球はそんなに詳しくはないんだけど、人生ってさ、ある意味、野球みたいなもんじゃねえかって思うのよ。ボールを受ける打者は、へろへろの球は打っちゃいけない。それはキャッチャーが受け止めるものじゃないか。背番号1の、一流の打者が相手にするべき球は、一流の投手が投げる、剛速球だけでいいんだ。時に魔球でもね。求はさ、その人の好さから、たまたま、へろへろのボールに応えちゃっただけなんだよ」千鶴男は言い、二回目の投球で安打を決めた正志が、バットを放り、ホームベースと設定した地点まで走る様子に目を馳せていた。
千鶴男のフォローは嬉しかったが、自分は。
そのへろへろを相手にしたばかりに、周囲に不安、恐怖を与え、その末に、性犯罪の現場にまで居合わせることになった。
その時に見なければならなかった非道な凌辱の絵図は、求の心に傷痕を残し、昼夜を問わず頭に再生され、それを助けられなかったことが、良心を痛める。
金髪パンチパーマの男の指で押し広げられた彼女の膣孔が、傷口の形を取り、いつも蘇る。
「千鶴男」求が呼び掛けると、中学時代にクラスを同じくした親友の一人である少年は、振り返り、真面目な眼を向けてきた。
「俺と、これからも」言った時、瞼が震え、声が上ずっていることを、求は自覚した。
「これからも、いつまでも、俺と友達でいてくれる?」「馬鹿言うな。当たり前だろう」答えた千鶴男が、求の肩を叩いた。
「お前は要領は良くないかもしれないけど、人間がいいことは、俺だけじゃねえ、みんな中学の時から知り尽くしてるよ。ただ、何ていうか、無常の風みたいなものに吹かれて、一時だけ、道を反れちゃったんなもんな。人間がいいから、あんな金髪男みたいな奴の世界には染まれなかったんだ。それで今、こうして立ち直ってくれたじゃないか。それにさ、今、将来の目標を設定するのは、人それぞれさ。お前は、今、太陽フーズの仕事をこつこつ続けてるじゃん。それでいいんだよ」千鶴男は言い、右手を差し出してきた。求は少し躊躇いを見せてから、その手を握った。
日勤帰りの一夫が作ってくれた焼きうどんで夕食を済ませた求は、始点から勝江台行きのバスに乗った。リーベでは、今日もコーラかジュースのみを頼み、尚子に思いを伝えようと決めていた。心地よいカースイングの中で、今日、彼女が出勤していることを祈った。
十八時台の勝江台の街並みには、背広の男達の中に、部活の練習が長引き、その帰りと思われる運動服に通学バッグを持った高校生達の姿が目立った。
カーテンが左右にまとめられたリーベの窓は、今日も灯りがついている。
狭い階段を昇り、店前に来ると、「本日貸切 土屋様」と墨字書きされた看板ポールが立ち、中からは、男のカラオケが聞こえていた。腹から声の出ていない、いかにもな素人唄法で、お世辞にも上手いとは呼べない歌だった。
もしも尚子が出勤しているなら、今日この店を借りている土屋の接待をしていることだろう。
思いだけを伝えて、店を去ろう。求は決めて、強化ガラスのドアを押した。
店の中には、男女均等に数人の人間がいた。テーブルには大皿のオードブルが載り、ウイスキーボトル、ビールの瓶が狭しとばかりに林立している。最近導入されたらしいレーザーカラオケのスタンドでは、ジャケットを脱いでYシャツネクタイの姿になったパーマヘアの男が、チェッカーズの「涙のリクエスト」を唄っていた。テーブルからは一気コールが上がり始め、テクノカットの男が水割りを飲み干している。
カラオケセット脇のテーブル席に、尚子はいた。その日の彼女は、ユニフォームのドレスではなく、白のスカートスーツ姿だった。彼女は、隣に座る、ブラウンのスーツを着た男に腰を抱かれていた。その男が、求と視線を合わせ、やがて、知っている人間を見た顔になった。その顔には、因果な再会への微かな驚きが含まれている。
先月、勝江ストア脇で、ちまちましい苛立ちをぶつけた自分を私人制圧し、警告を残した、若くして自分の城を構えているという風格を持つ、野性味のある風貌をした若者。名を土屋というらしい。
居合わせる、パーマヘアにⅮCブランドスーツの若い大人の男、ソバージュヘアに黒や赤という原色のスカートスーツをまとった女達の間から、誰、どこの子、という囁きが、カラオケの音声に紛れて聞こえた。
「君、誰? 土屋先輩の友達?」底に氷の沈むウイスキーグラスを手にしたテクノカットの男が、求の前に出て訊ねた。
求は目を伏せ、かぶりを振った。
「違うの? じゃあ、駄目だよ。今日は貸切なんだから」男を無視するように、土屋と尚子を見た。求を見る尚子の目には、幸福の瞬きはないが、一切を背負うことを決意し、覚悟した光が見えた。
「尚子に用があって来たのか?」尚子の腰から腕を外し、求の前にこつこつとやってきた土屋が問うた。
「カラオケ、うるせえ。止めろ」威迫の籠った土屋の声が投げられ、誰からリモコンを押し、レーザー映像の画面が消え、音声が切れた。店の中は静まり返り、これからここで何が展開されるのかという不安の気が、着飾った男女達から立ち昇り始めた。
「尚子に用があって来たんだろう? お前と同じ特徴の奴が、ここに来てちょっかい出してたことは、ここのママさんから聞いてるよ」
求は俯いた。俯いた求の肩を、土屋が押した。
「本日貸切 土屋様」のポール看板の前で、土屋の手が、求のロサンゼルスTシャツの襟首を掴んだ。だが、その顔に、土屋の鉄拳は飛ばなかった。
「お前、今から一ヶ月とちょっと前に、勝江ストアの脇で俺に喧嘩売った奴だろ? あん時、俺はお前に警告したけどよ、よく命拾ったな」土屋は求の軽い体を軽く揺さぶりながら言ったが、求の会話中枢は、失語のように店じまいしていた。
「尚子はな、これから俺の女房になる女だけどな、胸にしまっとくことが苦しくて耐えられねんなら、これまであいつに持ってた気持ちを伝えること、許さねえってこともねえぞ。勿論、俺立ち合いの下でな。けど、触れることは許さねえ。あいつは、俺と結婚する女だからだ」土屋は、求のシャツから手を離すことなく述べた。
「仕事、何やってるんですか?」「誰だ。俺か?」「はい」土屋の手がTシャツから離れ、求の体が彼の力から解放された。
「実業家だ」「実業家?」「舟端に軽食喫茶を二号店まで、それと居酒屋、津田沼台にディスコバー、大窪にカレーショップだ。当たりめえだけどよ、楽してここまで来たわけじゃねえよ。今も楽じゃねえ。俺はただのオーナーってもんとは違って、仕事の現場に立って、接客、調理もやってっからさ」土屋は言って、スーツの懐から赤パッケージのラークを出し、箱を振り、フィルターのせり出した一本を求に差し出し、勧めた。
「俺、煙草やめたから」「そっか」土屋はジッポライターをかきんと鳴らして、ラークの先に点火し、窄めた唇から煙を吐き出した。
「俺の勘で言うぞ。お前、片親だろ」フィルターをつまみ、横顔を見せている土屋に訊かれた求は、小さく頷いた。
「俺は親父、お袋、両方の顔を知らねえ孤児院育ちだ。親が片方いるだけでもましだと思えよ。いいか、てめえも、これからの苦労は買ってでもしろよ。でなきゃ、尚子みてえな素直な女は、一生お前のものにならねえぞ。せっかく命を拾ったんだからな、そいつを不意にすんじゃねえ」
店の前に立つ円筒型灰皿にラークをなすり消した土屋は、求の肩を抱き、店に戻った。音声の消えたカラオケセット脇のソファで、尚子は重ねた小さな手を膝に置き、俯いていたが、前に立った求の視線に反応し、顔を上げ、彼を見上げた。
「今日、来てくれて、嬉しい」尚子は言ってソファから腰を上げ、求の前に立った。求は無言で尚子の小さな手を取り、両掌に包んだ。
前回と同じように、抱きすくめたかった。松村から受けた侮辱、岡安から受けた仕打ちへの悔しさに、強くなりたいよ、と言って泣いたあの日のように。だが、彼女の立場は、土屋の妻になる身だ。
素敵な魔法。それは、自分が、土屋のような男になるためにあるものだ。
禁を破った求は、ここで土屋に殴られ、吹っ飛んでも構わないと思った。大の男に殴られ、蹴られる痛みというものは、一ヶ月前、松村による私刑で勉強した。また、この貧弱な頭脳と非力な体でも、人を殴ることに自分以上の長けを見せる相手にも、心を訴えかけ、届けることが可能だと分かった。
顔を寄せ、尚子の頬にキスをした。音が立ち、尚子の柔らかな頬の皮膚が、求の唇を押し返した。それは、あの一件で、松村から浴びた怒りの言葉から、または先の勉強というものから心に据わった覚悟があって出来たことだった。
静けさの中、土屋、彼の後輩達にあたる男女の視線を背中に受けながら、求はそろそろとリーベを出た。
背後に小さな足音を聞き、振り返り、立っている尚子を見た場所は、高層住宅の棟間だった。
尚子は、細く、儚い吐息を漏らし、向き直った求を見上げた。
「佐藤君。土屋さんは、これまで苦しみながら働いてた私の身柄を買って、私をお嫁さんにしてくれる人なの。彼のお陰で、私はもう働く苦しみと悲しみを味わうこともないし、お母さんの借金もなくなるのよ」
求の胸に悟りが落ちた。尚子は土屋に、金でその身を買われた。金の動く結婚。大人の世界というものは、松村が一心に憎む綺麗言で動いているわけではない。たとえいかなる道へ進もうと、その現実を感情の否応なく突きつけられ、それを受け入れていくことが、人の成長。それは社会に染まるということだ。
だが、まっとうな合法の金が動くそれを忌み嫌い、唾棄して拒んだ松村が身を落としたものも、歪みを孕むカーストが支配し、皮膚が割れ、歯が飛び、骨が折れ、血が振り撒かれ、そのストレスが欲望を湛え、非力な者に照準を合わせる穢れの世界。しかし、これもある種の大人社会。
「私と、お母さんを助けてくれたのよ」尚子が言い、求は恥じ入りを覚えた。それは、金というもののことが、分かっているようで分かっていなかった、自分自身を恥じる気持ちだった。それと同時に、金を人生の第一義としてはいけないという思いも芽生えていた。
尚子は母親のために、土屋と結婚するのだ。
「佐藤君、これまでありがとう。会ってお話したのは短い間だったけれど、これまでずっと辛いことばっかりだった私の人生を明るくしてくれたことの感謝、私、一生忘れない」「俺もだよ。尚子さん」「だから、佐藤君も、自分の人生、絶対に投げちゃ駄目だよ」
尚子の言葉が、心、いや、魂に刻まれたように思えた。誓いの念が胸に沸き起こることを、求は感じていた。
この世に唯一つの自分の人生、それを憎しみの感情に飽かせて汚穢に落とした人間は、まさに松村だ。
自分は彼とは違う。
思いが据わった時、尚子の両掌がTシャツの肩に載った。それから、瞑目した尚子の唇が、求の唇をそっと塞いだ。
求は、それをただ受けるだけになった。尚子を抱きしめることは、もう出来ない。彼女は、社会的実力と、金を持つ男の手の中に身柄の収まった女なのだ。
「さようなら」求はそれだけを残し、尚子の立つ高層住宅棟間の広い歩車道を出るべく、車道へ向かって歩き出した。
尾崎豊のアティチュード・スローガンである、愛と自由について、拙い思考にエンジンを掛けた。
土屋は間違いなく、尚子に対して、独善的な関白体制を敷くことだろう。彼女は、これまで自分を苦しめていた社会から自由になったが、これからは土屋がその人生を、彼の持つ店と同様に仕切ることになるだろう。
自分は。自分の夢見ていたものを見限った以上、熱くなるべきものが分からない。だが、この日に会い、変わらぬ友情を互いに確認した千鶴男を始めとする友達はみんな、堅実で現実的な目標へ向かい、着実に進んでいる。
米原へ帰るバスに乗り、何ということなく村下で降りた。尚子が最後に唇を繋ぐキスをしてくれたことにより、恋心が叶わなかったことへの悲憤はそれほどは感じていなかった。
イズミダの側道には、タクシーが一台停まっていた。求はそれを目の端に掃き、イズミダに入った。
アンジェを覗くと、先月、求に他客からの苦情を伝え、退店を要請した鈴木という若いマネージャーが、ベストに蝶ネクタイ、スラックスというウエイター姿で、テーブル席に料理を置く接客業務を行っている様子が目に入った。
それとなく店内を見回したが、ウエイトレスの中に、仁藤りえの姿はなかった。求は、集団凌辱を受けた彼女の傷が、一日でも早く癒えることを心から祈る気持ちで踵を返した。
TⅯ NETWORKの「GET WILD」が流れる二階のレストスペース前に、人だかりが出来ていた。人だかりの中央では、パンチパーマに布ジャンパー、スエットのズボンに金のブレスレット巻きという姿をした男が、二人の制服警備員に両肩を拘束され、不承不承の顔をしている。そのすぐ隣には、もう一人の警備員と、会社制服姿のタクシー運転手が向かい合い、無賃乗車に暴行、脅迫だから110番を、と言っていた。
「俺はただ、ここで仲間と待ち合わせしてただけなんだよ。文句あんのか、おら」「いや、待ち合わせだって、着払いっつったんだから、先に家に行くもんだろ。これは立派な乗り逃げだよ」明らかな嘘の理由をこねるそのやくざ風の男に、運転手が冷静に答えた。
求はその男が、まだ寒い頃、松村同席で能勢に奢られた夜の運転手であることに気づいた。運転手は、目が合った求に、おう、と発音する形に唇を開いた。求は会釈を返した。
彼は求に、奢られる場合も気をつけろ、と呼び掛け、また、今日、数奇な形で再会した土屋と同じく、死ぬぞ、と警告した人間だった。
男は所属すると称する組の名前を叫び、周囲を威嚇していたが、やがてやってきた警察官二人に両肩を固められ、引かれるようにして連れていかれた。
「よう、お前、あれからどうした」警備員二人を背後に、ボンタン風制服スラックスに両手を突っ込んだ運転手が訊き、求はまた頭を下げた。
「あの時、俺に奢ってくれた奴、やっぱり悪い奴だった」「そうだろう。必要以上に愛想がいい奴とか、気前振る舞いをする奴には、たいていが裏があるもんなんだよ」「俺、そいつらと、もう付き合い、やめたから」「そうだよ。それがいい」運転手は言い、ハンドポケットの体を半転させた。
「縁の巡り合わせってもんはよ、その人間を生かすこともありゃ、跡形もなくぶっ潰すことだってあるもんだってことを、前に乗っけた時、俺は言いたかったんだよ」元非行少年で間違いないと思われる若い運転手は、ハンドポケットのまま、肩をいかつく張り、背中を遠ざけた。
野次馬、警備員がいなくなったレストスペースに立ち尽くす求は、宇都宮隆が唄う歌詞に倣うようにして、自分でなければ守れぬ存在を探さなくては、という思いを心に立てた。
それは自由になった今だからこそ出来ることだと。
一夫は変わらず流通センターで働き、知春も依然として、どこで何をしているかは分からない。そして、松村の姿は、あの北小の一件以来、米原では全く見ていない。
知春は、この街に染まることで生き残りを計ろうとしたのだ。それは、山谷、米原という生きることへの難儀が付きまとう街と色を同化させ、時として越法行為に手を染めることで、必死に身を守ろうとしている松村と同じだ。だが、その身の守り方を続ければ、のちに支払うことになる代償は、あまりにも高い。それは一生かかっても支払うことが出来るかどうかも分からぬ、未知数の額だ、と、語彙を成さない思いが、求の頭に巡った。
求には、心で祈っていることがある。それは、暴力沙汰にも関わっていることをすでに知る知春が、先月に目の当たりにした、人の心、それが内包する命を踏み潰すような非行には関わることなく、更生を迎えてほしいと。
バッター役の少年が三振した時、高橋千鶴男が来た。水色の襟つきシャツと、ロサンゼルスTシャツの姿が並んだ。
「今、勉強の合間だ。来月に模試だから、飯と風呂以外の時は、基本、ずっと勉強漬け。ほら、これ見て」千鶴男は言い、右手を求の顔の下にかざし、中指の側面に盛り上がる胼胝を見せ、笑った。求も、弱い笑いを返した。
「四月に、誠一と、尊と三人で、村下で遊んだよ。アスレチックで」「そうだったか」「誠一、全寮制高校、やめちゃって、今、トラックの助手やってるって言ってた。自衛隊、目指してるんだって」「なるほど、根性あるあいつには向いてるだろうな」「尊は、障害の認定っていうのもらって、今、養護学校」「みんな、頑張ってるよな」「俺も、太陽フーズの仕事、行ってるよ」「お前も頑張ってるよな。で、将来のビジョンは立ってるの?」「ロックは、
やめたよ」
求が答えた時、髪をブリーチした二人の少年が、笑い声の混ざるけたたましい会話をしながら石階段を降り、求と千鶴男の前に来た。会話の内容は、金を賭ける徹夜麻雀のものらしかった。二人の手には煙草が持たれている。
それは二月に、求の煙草を囃した同学年の二人だった。「おう、佐藤。まだメロディ吸ってんのか」一人がひゃらついた笑いの声で、求に訊ねた。求は目を伏せ、小さく、いや、とだけ言って、かぶりを振った。
「何だ、吸わねえの? つまんねえよ。あれはお前が吸うからかっこよかったのによ」「そうだよ。ばりばりのロックで不良のお前が吸う、ロック煙草だもんな」「あのおもらいみてえな長髪も、もうやんねえのかよ。あれもお前に似合ってたのによ。上野の地下道でむしろ引いてよ、右や左の旦那様、哀れな乞食にお恵みを、ってな」二人の嘲弄に、求は何も答えなかった。
同学年の二人は、囃し笑いを撒きながら、草野球少年達の脇を通り、外周のほうへ遠ざかった。
「あんな奴らの言うこと、気にしちゃ駄目だ。自分の意志を貫く人間だけが、最後に笑うんだ」千鶴男が言い、求は二人の同学年者を、彼と一緒に目で追った。
「前に着てた変な服、捨てたんだ。それで今、お金、貯めるようにしてる」「ほう、貯金してんのか」「うん。好きな子が出来たから」「なるほど、将来のための貯金か。それはいいことだね。前のお前は、金が入ると、感情に任せて使っちゃうような印象があったけど、もう、心配ねえな。もう、変な奴とも付き合ってねえんだろ?」「うん」求は一寸遅れて頷いた。
「じゃあ、安心だな。俺はさ、大学のランク、上げようと思ってんだ」言った千鶴男を求が見た。
「まあ、頑張ったから、一、二年と、成績の一定水準は保てたよ。だけど、現状維持ばっかりを考えてるようじゃ、どんどん低いレベルの所へ引かれてっちゃうからな。そこで意を決して、セントラルを狙おうって気持ちを据えたんだよ。学部ももう決めてるよ。知ってるはずだけど、俺は理系クラスだからさ、その理系を、大学で究める。理学部さ」「理学部?」「そう。理学部で、地学科がいいと思ってるところだよ。それから、大学院、そのあとは教員免許って考えてる」「俺」求は、少し口籠り加減に言い、千鶴男の目を見た。
「自分の頭が、自分の思い通りにならないことが分かってるから、将来のことって、まだ分からない。だって、俺、勉強出来ないし、体育だって、思うように動けないし、人、怒らしてばっかり」打ち明けた求を、千鶴男は情の籠った目で見ていた。
「分からない。でも今は、そういうのから、自由になりたい」求が言った時、バッターを務める少年の名を、監督役の父親が、正志、と呼び、馬鹿なボールは打つな、とアドバイスした。求は、呻くように、「自由に」と加えた。
「今、あのお父さんが言ったこと、聞き取ったか?」千鶴男の問いに、求は少しきょとんとなった。
「俺、野球はそんなに詳しくはないんだけど、人生ってさ、ある意味、野球みたいなもんじゃねえかって思うのよ。ボールを受ける打者は、へろへろの球は打っちゃいけない。それはキャッチャーが受け止めるものじゃないか。背番号1の、一流の打者が相手にするべき球は、一流の投手が投げる、剛速球だけでいいんだ。時に魔球でもね。求はさ、その人の好さから、たまたま、へろへろのボールに応えちゃっただけなんだよ」千鶴男は言い、二回目の投球で安打を決めた正志が、バットを放り、ホームベースと設定した地点まで走る様子に目を馳せていた。
千鶴男のフォローは嬉しかったが、自分は。
そのへろへろを相手にしたばかりに、周囲に不安、恐怖を与え、その末に、性犯罪の現場にまで居合わせることになった。
その時に見なければならなかった非道な凌辱の絵図は、求の心に傷痕を残し、昼夜を問わず頭に再生され、それを助けられなかったことが、良心を痛める。
金髪パンチパーマの男の指で押し広げられた彼女の膣孔が、傷口の形を取り、いつも蘇る。
「千鶴男」求が呼び掛けると、中学時代にクラスを同じくした親友の一人である少年は、振り返り、真面目な眼を向けてきた。
「俺と、これからも」言った時、瞼が震え、声が上ずっていることを、求は自覚した。
「これからも、いつまでも、俺と友達でいてくれる?」「馬鹿言うな。当たり前だろう」答えた千鶴男が、求の肩を叩いた。
「お前は要領は良くないかもしれないけど、人間がいいことは、俺だけじゃねえ、みんな中学の時から知り尽くしてるよ。ただ、何ていうか、無常の風みたいなものに吹かれて、一時だけ、道を反れちゃったんなもんな。人間がいいから、あんな金髪男みたいな奴の世界には染まれなかったんだ。それで今、こうして立ち直ってくれたじゃないか。それにさ、今、将来の目標を設定するのは、人それぞれさ。お前は、今、太陽フーズの仕事をこつこつ続けてるじゃん。それでいいんだよ」千鶴男は言い、右手を差し出してきた。求は少し躊躇いを見せてから、その手を握った。
日勤帰りの一夫が作ってくれた焼きうどんで夕食を済ませた求は、始点から勝江台行きのバスに乗った。リーベでは、今日もコーラかジュースのみを頼み、尚子に思いを伝えようと決めていた。心地よいカースイングの中で、今日、彼女が出勤していることを祈った。
十八時台の勝江台の街並みには、背広の男達の中に、部活の練習が長引き、その帰りと思われる運動服に通学バッグを持った高校生達の姿が目立った。
カーテンが左右にまとめられたリーベの窓は、今日も灯りがついている。
狭い階段を昇り、店前に来ると、「本日貸切 土屋様」と墨字書きされた看板ポールが立ち、中からは、男のカラオケが聞こえていた。腹から声の出ていない、いかにもな素人唄法で、お世辞にも上手いとは呼べない歌だった。
もしも尚子が出勤しているなら、今日この店を借りている土屋の接待をしていることだろう。
思いだけを伝えて、店を去ろう。求は決めて、強化ガラスのドアを押した。
店の中には、男女均等に数人の人間がいた。テーブルには大皿のオードブルが載り、ウイスキーボトル、ビールの瓶が狭しとばかりに林立している。最近導入されたらしいレーザーカラオケのスタンドでは、ジャケットを脱いでYシャツネクタイの姿になったパーマヘアの男が、チェッカーズの「涙のリクエスト」を唄っていた。テーブルからは一気コールが上がり始め、テクノカットの男が水割りを飲み干している。
カラオケセット脇のテーブル席に、尚子はいた。その日の彼女は、ユニフォームのドレスではなく、白のスカートスーツ姿だった。彼女は、隣に座る、ブラウンのスーツを着た男に腰を抱かれていた。その男が、求と視線を合わせ、やがて、知っている人間を見た顔になった。その顔には、因果な再会への微かな驚きが含まれている。
先月、勝江ストア脇で、ちまちましい苛立ちをぶつけた自分を私人制圧し、警告を残した、若くして自分の城を構えているという風格を持つ、野性味のある風貌をした若者。名を土屋というらしい。
居合わせる、パーマヘアにⅮCブランドスーツの若い大人の男、ソバージュヘアに黒や赤という原色のスカートスーツをまとった女達の間から、誰、どこの子、という囁きが、カラオケの音声に紛れて聞こえた。
「君、誰? 土屋先輩の友達?」底に氷の沈むウイスキーグラスを手にしたテクノカットの男が、求の前に出て訊ねた。
求は目を伏せ、かぶりを振った。
「違うの? じゃあ、駄目だよ。今日は貸切なんだから」男を無視するように、土屋と尚子を見た。求を見る尚子の目には、幸福の瞬きはないが、一切を背負うことを決意し、覚悟した光が見えた。
「尚子に用があって来たのか?」尚子の腰から腕を外し、求の前にこつこつとやってきた土屋が問うた。
「カラオケ、うるせえ。止めろ」威迫の籠った土屋の声が投げられ、誰からリモコンを押し、レーザー映像の画面が消え、音声が切れた。店の中は静まり返り、これからここで何が展開されるのかという不安の気が、着飾った男女達から立ち昇り始めた。
「尚子に用があって来たんだろう? お前と同じ特徴の奴が、ここに来てちょっかい出してたことは、ここのママさんから聞いてるよ」
求は俯いた。俯いた求の肩を、土屋が押した。
「本日貸切 土屋様」のポール看板の前で、土屋の手が、求のロサンゼルスTシャツの襟首を掴んだ。だが、その顔に、土屋の鉄拳は飛ばなかった。
「お前、今から一ヶ月とちょっと前に、勝江ストアの脇で俺に喧嘩売った奴だろ? あん時、俺はお前に警告したけどよ、よく命拾ったな」土屋は求の軽い体を軽く揺さぶりながら言ったが、求の会話中枢は、失語のように店じまいしていた。
「尚子はな、これから俺の女房になる女だけどな、胸にしまっとくことが苦しくて耐えられねんなら、これまであいつに持ってた気持ちを伝えること、許さねえってこともねえぞ。勿論、俺立ち合いの下でな。けど、触れることは許さねえ。あいつは、俺と結婚する女だからだ」土屋は、求のシャツから手を離すことなく述べた。
「仕事、何やってるんですか?」「誰だ。俺か?」「はい」土屋の手がTシャツから離れ、求の体が彼の力から解放された。
「実業家だ」「実業家?」「舟端に軽食喫茶を二号店まで、それと居酒屋、津田沼台にディスコバー、大窪にカレーショップだ。当たりめえだけどよ、楽してここまで来たわけじゃねえよ。今も楽じゃねえ。俺はただのオーナーってもんとは違って、仕事の現場に立って、接客、調理もやってっからさ」土屋は言って、スーツの懐から赤パッケージのラークを出し、箱を振り、フィルターのせり出した一本を求に差し出し、勧めた。
「俺、煙草やめたから」「そっか」土屋はジッポライターをかきんと鳴らして、ラークの先に点火し、窄めた唇から煙を吐き出した。
「俺の勘で言うぞ。お前、片親だろ」フィルターをつまみ、横顔を見せている土屋に訊かれた求は、小さく頷いた。
「俺は親父、お袋、両方の顔を知らねえ孤児院育ちだ。親が片方いるだけでもましだと思えよ。いいか、てめえも、これからの苦労は買ってでもしろよ。でなきゃ、尚子みてえな素直な女は、一生お前のものにならねえぞ。せっかく命を拾ったんだからな、そいつを不意にすんじゃねえ」
店の前に立つ円筒型灰皿にラークをなすり消した土屋は、求の肩を抱き、店に戻った。音声の消えたカラオケセット脇のソファで、尚子は重ねた小さな手を膝に置き、俯いていたが、前に立った求の視線に反応し、顔を上げ、彼を見上げた。
「今日、来てくれて、嬉しい」尚子は言ってソファから腰を上げ、求の前に立った。求は無言で尚子の小さな手を取り、両掌に包んだ。
前回と同じように、抱きすくめたかった。松村から受けた侮辱、岡安から受けた仕打ちへの悔しさに、強くなりたいよ、と言って泣いたあの日のように。だが、彼女の立場は、土屋の妻になる身だ。
素敵な魔法。それは、自分が、土屋のような男になるためにあるものだ。
禁を破った求は、ここで土屋に殴られ、吹っ飛んでも構わないと思った。大の男に殴られ、蹴られる痛みというものは、一ヶ月前、松村による私刑で勉強した。また、この貧弱な頭脳と非力な体でも、人を殴ることに自分以上の長けを見せる相手にも、心を訴えかけ、届けることが可能だと分かった。
顔を寄せ、尚子の頬にキスをした。音が立ち、尚子の柔らかな頬の皮膚が、求の唇を押し返した。それは、あの一件で、松村から浴びた怒りの言葉から、または先の勉強というものから心に据わった覚悟があって出来たことだった。
静けさの中、土屋、彼の後輩達にあたる男女の視線を背中に受けながら、求はそろそろとリーベを出た。
背後に小さな足音を聞き、振り返り、立っている尚子を見た場所は、高層住宅の棟間だった。
尚子は、細く、儚い吐息を漏らし、向き直った求を見上げた。
「佐藤君。土屋さんは、これまで苦しみながら働いてた私の身柄を買って、私をお嫁さんにしてくれる人なの。彼のお陰で、私はもう働く苦しみと悲しみを味わうこともないし、お母さんの借金もなくなるのよ」
求の胸に悟りが落ちた。尚子は土屋に、金でその身を買われた。金の動く結婚。大人の世界というものは、松村が一心に憎む綺麗言で動いているわけではない。たとえいかなる道へ進もうと、その現実を感情の否応なく突きつけられ、それを受け入れていくことが、人の成長。それは社会に染まるということだ。
だが、まっとうな合法の金が動くそれを忌み嫌い、唾棄して拒んだ松村が身を落としたものも、歪みを孕むカーストが支配し、皮膚が割れ、歯が飛び、骨が折れ、血が振り撒かれ、そのストレスが欲望を湛え、非力な者に照準を合わせる穢れの世界。しかし、これもある種の大人社会。
「私と、お母さんを助けてくれたのよ」尚子が言い、求は恥じ入りを覚えた。それは、金というもののことが、分かっているようで分かっていなかった、自分自身を恥じる気持ちだった。それと同時に、金を人生の第一義としてはいけないという思いも芽生えていた。
尚子は母親のために、土屋と結婚するのだ。
「佐藤君、これまでありがとう。会ってお話したのは短い間だったけれど、これまでずっと辛いことばっかりだった私の人生を明るくしてくれたことの感謝、私、一生忘れない」「俺もだよ。尚子さん」「だから、佐藤君も、自分の人生、絶対に投げちゃ駄目だよ」
尚子の言葉が、心、いや、魂に刻まれたように思えた。誓いの念が胸に沸き起こることを、求は感じていた。
この世に唯一つの自分の人生、それを憎しみの感情に飽かせて汚穢に落とした人間は、まさに松村だ。
自分は彼とは違う。
思いが据わった時、尚子の両掌がTシャツの肩に載った。それから、瞑目した尚子の唇が、求の唇をそっと塞いだ。
求は、それをただ受けるだけになった。尚子を抱きしめることは、もう出来ない。彼女は、社会的実力と、金を持つ男の手の中に身柄の収まった女なのだ。
「さようなら」求はそれだけを残し、尚子の立つ高層住宅棟間の広い歩車道を出るべく、車道へ向かって歩き出した。
尾崎豊のアティチュード・スローガンである、愛と自由について、拙い思考にエンジンを掛けた。
土屋は間違いなく、尚子に対して、独善的な関白体制を敷くことだろう。彼女は、これまで自分を苦しめていた社会から自由になったが、これからは土屋がその人生を、彼の持つ店と同様に仕切ることになるだろう。
自分は。自分の夢見ていたものを見限った以上、熱くなるべきものが分からない。だが、この日に会い、変わらぬ友情を互いに確認した千鶴男を始めとする友達はみんな、堅実で現実的な目標へ向かい、着実に進んでいる。
米原へ帰るバスに乗り、何ということなく村下で降りた。尚子が最後に唇を繋ぐキスをしてくれたことにより、恋心が叶わなかったことへの悲憤はそれほどは感じていなかった。
イズミダの側道には、タクシーが一台停まっていた。求はそれを目の端に掃き、イズミダに入った。
アンジェを覗くと、先月、求に他客からの苦情を伝え、退店を要請した鈴木という若いマネージャーが、ベストに蝶ネクタイ、スラックスというウエイター姿で、テーブル席に料理を置く接客業務を行っている様子が目に入った。
それとなく店内を見回したが、ウエイトレスの中に、仁藤りえの姿はなかった。求は、集団凌辱を受けた彼女の傷が、一日でも早く癒えることを心から祈る気持ちで踵を返した。
TⅯ NETWORKの「GET WILD」が流れる二階のレストスペース前に、人だかりが出来ていた。人だかりの中央では、パンチパーマに布ジャンパー、スエットのズボンに金のブレスレット巻きという姿をした男が、二人の制服警備員に両肩を拘束され、不承不承の顔をしている。そのすぐ隣には、もう一人の警備員と、会社制服姿のタクシー運転手が向かい合い、無賃乗車に暴行、脅迫だから110番を、と言っていた。
「俺はただ、ここで仲間と待ち合わせしてただけなんだよ。文句あんのか、おら」「いや、待ち合わせだって、着払いっつったんだから、先に家に行くもんだろ。これは立派な乗り逃げだよ」明らかな嘘の理由をこねるそのやくざ風の男に、運転手が冷静に答えた。
求はその男が、まだ寒い頃、松村同席で能勢に奢られた夜の運転手であることに気づいた。運転手は、目が合った求に、おう、と発音する形に唇を開いた。求は会釈を返した。
彼は求に、奢られる場合も気をつけろ、と呼び掛け、また、今日、数奇な形で再会した土屋と同じく、死ぬぞ、と警告した人間だった。
男は所属すると称する組の名前を叫び、周囲を威嚇していたが、やがてやってきた警察官二人に両肩を固められ、引かれるようにして連れていかれた。
「よう、お前、あれからどうした」警備員二人を背後に、ボンタン風制服スラックスに両手を突っ込んだ運転手が訊き、求はまた頭を下げた。
「あの時、俺に奢ってくれた奴、やっぱり悪い奴だった」「そうだろう。必要以上に愛想がいい奴とか、気前振る舞いをする奴には、たいていが裏があるもんなんだよ」「俺、そいつらと、もう付き合い、やめたから」「そうだよ。それがいい」運転手は言い、ハンドポケットの体を半転させた。
「縁の巡り合わせってもんはよ、その人間を生かすこともありゃ、跡形もなくぶっ潰すことだってあるもんだってことを、前に乗っけた時、俺は言いたかったんだよ」元非行少年で間違いないと思われる若い運転手は、ハンドポケットのまま、肩をいかつく張り、背中を遠ざけた。
野次馬、警備員がいなくなったレストスペースに立ち尽くす求は、宇都宮隆が唄う歌詞に倣うようにして、自分でなければ守れぬ存在を探さなくては、という思いを心に立てた。
それは自由になった今だからこそ出来ることだと。
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