ラムドリーの未来

楠丸

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17章

雨とサルビア

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 太陽フーズの仕事から帰ってきた時、家には誰もいなかった。一夫は今週は夕勤のシフトで、知春は、勿論、どこで何をしているかが分からない。

 一週間前、松村とは、人一人の人生を躙り潰す罪の現場を共有した。求は涙で拒んだ。だが、松村はその罪に与した。その行為が終わったあとで、彼の落とす涙滴を、求は確かに見た。

 松村についていくことが、自分の夢見るロックに繋がるものではないことは、ようやく納得しかけている。だが、それでも、彼を庇う気持ちはまだ捨てきれてはいない。

 それは、いたいけな、求と同学年の少女を、暴力の威力を背景にする力で集団蹂躙することに加わった自分自身を悔い入るような心が、彼にあの涙を流させていたのかと、決して思えなくないから。

 少なくとも、松村が概念するロックは、それをする者の中に動かざるカーストが存在し、下、という位置にある者は、暴力を伴う威迫、侮蔑を、上から威張り腐る者達から、ただ受け続けることだけが宿命づけられている。

 それは、彼の嫌悪、いや、憎悪する背広通勤族の中年男達と、教師、学校校則、生徒手帳の敷いたレールを歩む子供、若者達の目前にある世界と比べ、良いとされる点が、今の求には分からなくなっている。

 これを表現する時、松村は「綺麗言」だという。ここで敢えて求が彼のような人間を表現すれば、「格好つけの嘘つき」か。


 そして、その格好つけ嘘つきは、腐った外道に堕ちた。彼の中にある憤りは、最後には、何処へその照準が向けられるのだろう。

 黒電話が鳴った。求には、不穏な鳴り方に聞こえた。十回ほどのコールで、その受話器は取られた。

 時計台前の松村は、黒のシャツ、ブルーのジーンズ、底厚のローファーという姿で、悲しみを湛えた眼を北の方角へ向けていた。

 無言のうちに、求の母校である米原北小学校の方向へ、二人で歩き出した。求が松村の背中を追う形だった。その背中一面に、鬱悲が浮き出している。

 夏には幼児達の声が交差する、底の浅いプールは、今はシーズンオフだ。

「こないだバスで見た金髪の人、カッコいい♡」字角の丸い少女文字が、黒のマーカーで、二人で座ったベンチの台座部分に書かれていた。

「これ、俺のことかな」そのハートマーク入り短文を読み上げた松村が、短い笑いを吐いた。

 隣から差し出されたマイルドセブンを、求は震え加減の指で抜き、その先に松村が点火した。

「二月に、服と靴と、三点ばかし、俺、お前に売ったよな」松村は自分の煙草の煙を吐きながら、藪棒加減に振り出した。それは雑談調の口調で、それほど詰問している風でもなかった。

「うん」「代金、いつぐらいに払える? お前、働き出して、もう一ヶ月は経ってるから、給料はもらってるはずじゃねえのか。その会社、遅配とかやんのか」「ちはいって何?」「お前、そんなのことも知らねえのか。給料の支払いが遅れるってことだよ。おい、払えって、お前に念を捺したこと、もう忘れたのか?」

 求はその時になり、松村の感情が怒りに傾き始めていることを察した。口調が静かな分だけ、内にあるそれの激しさを知らされる思いがした。

 本来、その支払いに充てるべきだった金は、母親に渡してしまった。それは、場所がどこで、誰の許にいるかを問わず、要求が通るまで座り込み続けるあの母に、一分でも早く帰ってもらいたいという一心からだった。

 数秒の口籠りののち、求の髪が掴まれ、左頬に熱が押しつけられた。煙草だった。求は、頭の中が白濁するようなその熱さに、がっという声を発し、体を緊縮させた。

「こういうのが、人の命に関わることだってあんだよ!」怒号した松村は、立ち上がって、まだ火の消えきっていない煙草を投げ捨て、頬を押さえる求の前に立ちはだかり、おもむろに中指を立てた。指を立てたまま、鼻からの荒い吐息を鳴らしながら、しばし、立っていた。肩はその呼吸に合わせて上下し、眼白には網目のような毛細血管が浮き出している。

「俺はな、この指一本で、てめえを倒すことが出来るんだぜ」松村は中指を求の右頬に当て、体重を掛け、彼の体を強く傾がせた。頬にまだ火傷の痛みが残る求は、松村に体を押されながら顔をしかめた。

 求の心にあったものは、恐怖よりも困惑だった。

「北小の校庭、来い。てめえ、ぶちのめすからよ」声に凄みを混ぜた松村は、求のGジャンの襟を取り、立たせると、北小学校へ求を引いて歩き出した。

「てめえは白痴なんだもんな。だから、人に奢られても礼も言えねえし、金の支払いも先延ばしにすんだよな。これまで、俺の話だって、右左流しだったんだもんな」求を引きずった校庭で、松村は彼の背中を蹴り、校庭の土の上に這わせた。手を着き、よろよろと立ち上がった求の胸にローファーシューズのキックが飛んだ。それから、よろめいた彼の髪が鷲掴みにされた。

「おい、てめえ、これまで散々俺の前で言ってきたことに、これからどうやって責任取るつもりだよ」求の髪を握った松村は、彼の頭を揺さぶりながら、歯を剥き出しにした顔を寄せた。

「ロックはスピリットだとかよ、俺達のサウンドで今時のだせえロック界を侵略してやるだとかよ、大人が作った腐った社会と全面戦争だとかよ! 最低のけじめもつけねえで、人の命、危険に晒す野郎がよ!」「何のことだか分からないよ」「分からねえだと? てめえ、分かってるくせにとぼけんじゃねえよ! いつもいつも、頭に思い浮かんだことばっかり並べ立てやがってよ!」怒号した松村は、求の髪を背中側へ引き、体を海老反りにした。

「何が腐れ腑抜けた能面行列だよ! 腐った能面はてめえじゃねえか!」松村に脚を払われた求の体が、また這った。「ふざけんな、てめえ、この野郎!」倒れた腰に、二発のキックが入った。胸も蹴り上げられた。肋骨が軋み、肺臓が籠った音を立てた。その時になり、それまで鈍く認識していた恐怖が、思考の中ではっきりとした形を表した。分かっているくせに、という句が、求の中にある負い目を突いたためでもあった。

 外周からは、マフラーオフのバイクのエンジン音が聞こえていた。

「ロックが手に職だとか、筋が通ってりゃどうのだとかてめえは言ってるけどな、ああいうパンチパーマとかリーゼントしたような奴らのほうが、まだ筋通ってるよ。こっちが死ぬかもしれねえっつうのに、間抜けな声で、何のことだか分かりません、とかって抜かしてる野郎なんかよりもよ! おら、立てよ、この野郎!   てめえ!」屈んだ松村の両手がGジャンの襟を掴み、求の体が引き起こされた。

「てめえにはずっと溜まってたんだよ。何? 働くことで落とし前つけてる? その言葉の意味もろくすっぽ分かってねえくせに、思いつきだけでものを言うもんじゃねえよ。てめえ、本当の落とし前の時の音とか声とか、一回でも聞いたことがあんのか! あれは、体のどこかがなくなる時の言葉なんだぞ! それは、人間が生きてく上で、大事な部分が飛ぶってことなんだぞ! それをやられる奴の気持ちが、てめえに想像出来んのか!」怒号した松村のフックが、求の頬に飛んだ。拳を受けた顔と、体が傾いだ。

 ばちっという音を確かに立てた、杭を打たれたような痛みが、求の頬に走った。口の中の肉が切れる感触を覚えた。信じられない痛さだった。口蓋いっぱいに鉄の味が満ち、泣気が肚から顔に伝わった。

 傾いだ体の腹に膝が入った。背中に肘の連打が落ちた。求は土の上にうずくまった。うずくまり、泣き声を圧す彼の体が、ローファーの踵で仰向けにされた。

「泣きゃいいってもんじゃねえんだよ。泣きゃ何でも許されるようには、世の中、出来てねえんだよ。泣いて赦されんのは、聖子だけなんだからな! てめえが今日ここでどれだけ泣いたってな、俺が的から外されることはねえんだぞ!」松村が言い、咽びを抑える求の脇腹を蹴った。

「ロックっていうはな、そこいらのガキが、俺、メタルだよ、メタルだよ、とかって抜かして回って成り立つもんじゃねえんだよ。てめえみてえな野郎には、何べん説明しても分かんねえだろうけどよ」松村が履いているローファーの厚い踵が、求の腹部にどかっと落ちた。

「てめえ、自分が生きてる世界の主人公になってるつもりでいるんだろ? 自分中心に地球が回ってるようなよ。いつもその面に書いてあったぜ。自分が一番かっこいいんだっていう、自己陶酔の思い込みがな。それで、誰のことも考えねえで、言いたいことを、頭に思いつくままに抜かした挙句に人の命を崖っぷちから落とそうとしてるんだもんな」踵で求の腹を押し下す松村は、声のトーンを低めた。

「言っとくけどな、俺達を囲むこの世界はよ、そんな風には出来てねえんだぜ。それが分かってりゃ、曲がりなりにも、一緒に組んで演ろうって約束した人間を、こんな命の危険に晒すとこはねえはずだろ。立てよ」松村の手が、Gジャンの襟と求の髪を掴み、彼の体を腰曲げの体勢にした。求の鼻と口からは、怯えた仔犬のような声呼吸が漏れ、頬にはすでに涙が伝っている。

 髪を掴まれた求の体は、プール前に建つ。ゴールネットの下がるバスケットウォールの前まで引きずられた。

 頭部がのけ反る衝撃とともに、鼻の奥に鉄分の味を感じた時、松村の拳が自分の鼻に叩きつけられたことを悟った。打たれた鼻を右掌で押さえた求の下腹に、ローファーの踵が食い込んだ。睾丸にも衝撃を受けた求の体が、バスケットウォールに背中を擦過させながら崩れかけた。

「ごめんなさい。すみませんでした」「てめえ、もう遅えんだよ、この野郎!」涙の声に詫びを載せた求の胸に、踵のキックが入った。求は体を螺旋状に躍らせ、尻を土に着けた。「赦して下さい!」「赦せるわけがねえだろうが! 
 俺はてめえのために片輪の体にされるかもしれねえし、身柄を消されるかもしれねえんだぞ!」「お母さんが来て、お金がないっていうから、渡しちゃったんだ」「男のために、子供を捨てて出てったお袋だろう! そんな女が酒飲む金と、俺の命、どっちが大事なんだよ! 明後日までに、指定した額を収めねえと、俺は死ぬんだぞ! おめえ、どうすんだよ!」上から降る松村の声を浴びながら、求は指の股から溢れ出す鼻血を押さえていた。

「どうすんだよ! てめえ、何とか言えよ!」松村の両掌が、求の髪を掴み、抜かんばかりに引いた。求の体が引きずられた。土の上に放られた求の腹部と腰に、ローファーの爪先が入った。求は体を丸めた。体を丸めた求の尻が蹴り上げられた。

 腹を庇う求の頭に、土下座というものが浮かんだ。だが、これは今、自分を感情任せに制裁している、すでに人間の全うな道から遥かに外れた、卑劣なことにも手を染めている男の下になってしまうと、自分で認めることになるという気づきが落ちた。

 彼は、蛆が湧き、金蠅がたかる腐敗の悪臭を放つ穢れに、自分の保身感情から魂を売った人間なのだ。あの日に彼が流していた涙で、彼を含む数人もの男に、寄ってたかって辱められた仁藤りえの心が救われるわけではない。

「てめえ、両方の目ん玉、抉り出してやろうか。それとも、ケツの穴から腸、引きずり出してやろうか。それとも、てめえの家潰してやろうか。それか、下だけ裸にして、ふるちんにして、靴だけ履かせた恰好にして、その辺、引きずり回してやろうか」松村が言い、また尻を蹴った。

「前に家、一軒ぶっ潰してやったんだよ。カメラ壊して謝らねえからよ、二百万請求してやったらよ、そこの親父が首吊って、そこの婆あは気が狂って電車に飛び込んでよ、その野郎は乞食になってよ、妹はシャブ漬けにされて、泡風呂に売られたんだよ。それで一家が破滅だぜ。俺がやろうと思えば、それぐらいのこと、いくらでも出来んだぜ。てめえは今日、そういう男を怒らせたんだよ」

 その時に蘇ったものは、川沿いの草叢に体液塗れの姿で放られたりえの号哭だった。その時の、固く目を瞑り、口を大きく開けた、涙、洟、涎に塗れた顔であり、何の用があってか、たまたまあの小路を自転車で走っていたばかりに、惨く、悲しい形で迎えなくてはならなかった破瓜の血で汚れたズロースの赤だった。

 倫理の概念がその思考界に存在しない男達の力で、抗うべくもなく露わにされ、玩ばれた陰部、乳房。それに重なる、低く、濁った笑い声、囃し。その数人の男達が顔に浮かべていた、醜濁な笑い。

 それに加えて、あの紫ルージュを塗ったくられた日に浴びた、福澤のお友達、原宿で袋、に代表される蔑みの言葉。

 鼻からは血が流れている。胸、腹部、腰、尻の疼痛は去らない。頬の着く土は冷たい。松村の暴力もさることながら、浴びせられた言葉への恐怖も、胸を塞いでいる。

 それでも、体を立たせる動きの司令が、求の脳から発せられ、それはまず、腕に力を与えた。それから座位になり、よろつきながらも、辛く、立位になった。

「何だ、やる気かよ。てめえに俺がのせるのかよ。やれんならやってみろよ。今のおめえの目は、やる目だぜ」松村は言いながら、軽く両拳を握ってステップバックした。

「言っとくけどよ、俺の喧嘩は半端じゃねえぞ。俺は阿原中の時な、佐倉西中の副番ぶっ潰して、詫び入れさせたんだぜ。おめえも名前ぐれえ知ってんだろうけどよ、前に阿原スペクトラーの頭張ってた、今西もぶちのめしたんだぞ。あの、谷千代の中学全部まとめてた総番だよ。さっきも言ったけどよ、この俺なら、てめえみてえな奴、小指一本で倒せんだぜ」松村は言いながら、人差し指を夜空に向かって立てた。

「これ一本で、てめえの腹には激痛が走り」次に、親指を畳み、四本の指を揃えた手を、顔の脇に立てた。「これで鳩尾一発、てめえは血反吐に塗れてのたうち回るんだ。久しぶりに血が燃えるぜ」

 求は、まっすぐに松村に向き直った。肉体を使う喧嘩闘争の術は、その頭脳、神経にはプログラミングされていない。だから、勝江台の路上で、小さな城の主と思われる若者にそれらしきものを試みた時にはあえなく制圧され、小便を漏らす破目になった。

 知っている限りの見よう見真似だった。左拳を脇に構え、握った右拳を松村の顔に向かって突いた。

 松村は顔を捌いて、求の第一撃をかわすと、彼の胸を蹴った。それから、体育館前の側溝へ走り、鉄の蓋を外した。縦に投げられた蓋は、求の顔面に飛んできた。求はそれを下腕でブロックした。骨に痛みが響いた。

「喧嘩は素手でやれなんていうのはな、大人の綺麗言なんだよ。敵を潰すためには、手段を選ばねえのが喧嘩ってものなんだよ。俺の体には、そいつが刻み込まれてるんだよ。ガキの頃から、山谷のバックストリートで、殴り殴られ、十六の頃にはもう、刺せば監獄、刺されりゃ地獄って世界にいたんだからな」

 松村は言ったが、彼は口でそう言うほど、喧嘩の腕に自信を持っているわけではないということが察せられた。だが、恫喝や暴力で自分を畳もうとする人間は、求には依然として怖い。それこそ、彼の自称とは違い、幼稚園の時から慣れてはいない。それはそういった人間の多くが、骨皮の自分よりも太い腕をし、厚い胸を持ち、運動会、体育祭の競争では、最低でも三位を走るからだ。

 かん、という音を、求は信じ難い心地で聞いた。能書き垂れの隙を突いたか、彼の拳が、松村の顎を突き上げていた。それから、正中線ががら空きになったところで、バスケットシューズの踵が、横蹴り加減に彼の鳩尾に入った。

 ごうお、という響きを持っていた、互いに顔を知る少女の号咽を思い出しながら、尻から転げ、体を折る松村の脳天に、拾った側溝の蓋を振り上げた。それは、松村のスカルを割ることの出来る、縦構えだった。

 松村は、校庭の土に鼻を押しつけ、呻きを抑え殺している。

 求はだいぶ逡巡してから、振り上げた鉄板を投げ捨てた。このままでは、逆上した松村から、もっと酷く殴られ、蹴られ、踏まれることは分かる気がする。だが、何故か、その場から逃走する気持ちにもなれなかった。

 二人が呼吸を交わらせたのち、松村が立ち上がった。そのまま、また殴られてもいいと思った心の理由は。

 語彙にして表せば、彼への憐憫だった。

 松村は、抜けた腰姿もそのままに、バスケットウォール脇の花壇へ歩き、赤い煉瓦で作られた縁を握り、上体を前へ深く傾がせた。

 ここを突いて、パンチ、キックで叩きのめすことも出来るが、求の中に、その気持ちは起こらなかった。

 花壇には、小さな赤い花が植えられ、煉瓦の下にはプラスチックのプレートが貼られ、「卒業生のお兄さん、お姉さんたちがうえてくれたサルビアの花です。みんなで大切にそだてましょう」とフェルトペン書きされている。

 求が案山子のような棒立ちの体勢を取り、松村が煉瓦を掴んで項を落とす時間は、数分続いた。

 求の短期記憶には、まだ、濡れて歪んだりえの顔が映し出され、彼を苛んでいる。自分はあのレイプには加わらなかったとは言え、彼女を助けることは出来なかった。自覚する非力さ、気の弱さから。

「教えてやるよ」松村が、片手を煉瓦から離し、項垂れたまま呟いた。求は案山子立ちのままだった。

「あの能勢さんはよ、舟端第二中の裏番だった人なんだ。あの人が裏から、喧嘩とか盗みとか、輪姦しの指示を出して、浩さんがその実行部隊を率いてたんだよ」語り始めた松村の顔は、求には向けられなかった。少し上ずった声には微かな震えが含まれている。

「中学ん時から鉄砲玉みてえなことやってて、事務所に火炎瓶投げ込んだり、本物のチャカ持って、カジノ荒らしたりしてた人なんだよ。輪姦しの裏ビデオ撮って、販売業者に売り捌いたりもしてたんだ。それで、今はやくざ上等の愚連隊だ」

 求は頬と体の痛みの中、息を呑み込んだ。手の甲で鼻の下を拭うと、その関節の付け根には、血が塗りつけられた。

「何でなんだろうな。俺は、何が間違ってるんだろ」松村の声が詰まった。彼の右手は、サルビアの花を握っている。

「ただ、生きるのに不便な町に育っただけだぜ! それが、大人が作った掟の型に嵌められてよ! あいつらに心まで操られてよ! 俺はこれでも、本気で音楽やりたくて、今、教則本買って、ギターを一から学び直して、空き時間にはな、飯も風呂も忘れてよ、スライダースとか、レッズとか、ARBとか、コード押さえる指から血が出るまで練習してんだよ! それはな、佐藤、いや、ラムドリー! てめえとどうしても組みてえからなんだよ!」

 松村の握りしめたサルビアが、彼の引き肘とともに、ぶちり、と引きちぎられた。後ろへ振られ、緩んだ掌から、赤い花弁がはらはらと落ちた。それを見た求は、ますます、りえが涙とともに流した赤、を思い出さずにはいられなかった。

「てめえは今も、俺のこの話を、右から左へ流してんだろうけどよ! いつもいつも、さも聞いてるふりばっかしやがってよ!」

 言葉の節目ごとに、数えて八つほど並ぶサルビアが引きちぎられ、煉瓦の花壇に叩きつけられた。

「てめえなんかには一生分かりやしねんだよ! ただ、あんな土地から出て、あんな家に育った俺の気持ちはよ! てめえみてえな、お気楽な知恵遅れにはよ! 生きづれえ土地で、その日ごとの命を繋がなきゃならなかった人間の気持ちなんかよ! それでも、抜け出せはしねえんだよ! てめえの名を、それこそ頂上のレベルまで上げねえ限りは! この街から!」

 求に向き直って吠え、肩を震わせる松村の頬には、溜まり、溢れた涙が滴っていた。

「分かってたまるかよ! 今の俺の気持ちが、てめえなんかに分かるかよ!」声を低く唸り潰して歩を詰めた松村の拳が、また求の頬骨に突き刺さった。求は足をもつれさせて、土に掌を着いた。グラウンドの土にまた崩れた求を、松村は見下ろした。

「いいか。明日の四時までに三万作って、時計台、来い。ビキマンした商品捌くとか、カツアゲが無理なら、親の財布か、銀行印持って、口座から抜いてこい。でなきゃ、てめえ、代わりにやってもらうぞ。能勢さんのリンチはな、これなら殺されるほうがましだってぐれえに半端じゃねえんだかんな。明日の四時だぜ。てめえ、ぜってえ忘れんなよ」

 いつもよりも弱い声の調子で残し、握った両拳を振りながら、正門の方向へ去っていく松村の肩は、寂寥を立ち昇らせ、撫でていた。

 自分にも分かっていた。求は、校庭に落ちたサルビアの茎に語りかけるように、心で呟いた。どうやら自分は、彼に機会を与えたようだ、という、いささか楽観的な思いを覚えていた。頬、体の痛みは、まだ引いてはいなかった。

 彼だけではない。自分も、この春の夜に、よく分かったことがある。

 涙が溢れ出し、この日に作られた頬の傷に沁みた。鉄の味が満ちた口を閉じ、項を垂れて、涙を顎下から滴らせる求の上界に広がる空は、温かな雨を降らせた。その雨に、髪、Gジャンとともに洗われるうちに、土の上のサルビアも濡れ始めた。

 やがて、だいぶのミリ数を持つ雨が、彼の体を、これまでの浅はかさまで流し去るように洗浄した。

 土の横突に溜まった雨に浮いて流れる赤い花弁を、いつもの執着のように見つめながら、求は決めた。

 近々、リーベへ行き、言葉は拙いなりに、尚子に気持ちを伝えよう、と。
 

 十代という前代に、おそらくは非行の道を歩んでいたと思われるタクシードライバー、初めに因縁をつけ、蹴りを入れた実業持ち風の若者から受けた、お前は死ぬぞ、という警告、また、リーベの一葉に写る骸骨の警告が、少しだけ逸れたと思えていた。

 雨の水は、這って項を折ったままの求のGジャン、ジーンズ、靴の中、下着までも浸した。

 



 

 

 
 




 








 





 

 




 
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