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プロローグ~湊に来た男
プロローグ~湊に来た男
しおりを挟む世界の自転は停まっていた。太陽の光は、空低く垂れ込めた、薄紫色の厚い雲をフィルターにし、弱々しく下界を照らしている。
照らされる、骨組だけの高階層建造物、立ち並ぶ、ベニヤ、塗炭のバラック家屋、薄ぼんやりと遠くに灯る提灯。そのバラック街に、一人の青年が現れた。やがて彼は、開店する三色のサインポールが立ち、「理髪」という看板を掲げる店に、憚りの足取りで、その姿を吸い込ませた。
客はおらず、タイルとモルタルの内装の店には、眼の付き方が一般離れした中年の店主が、カットシザーを手に待っていた。頭髪のない、ずんぐりした躰をした、身長のあまりない男だった。
「脇、と、後ろ、前髪、は、よく、眼が、見えるように、お願い」
促されてチェアに座った、上背があるが、美しく、愛らしいと言えるまでに整然とした顔形をしたその若者は、表情固く、口振り重く、言葉を噛み加減にオーダーし、グレーの雑簔と、紅い長袋に包まれた、その袋越しにも反りの分かる棒状の道具を棚に置いた。
板目の壁に囲まれた部屋だった。四畳に満たないその部屋で、一人の若者が、畳に三本の指を立て、頭から足爪先まで、躰を上下させていた。
その若者を見下ろすものは、大きな号数の額縁に入った、三枚の肖像画だった。うち一枚は、黒縁眼鏡を掛け、ネクタイスーツ姿の、髪を綺麗に分けた壮年男が、光のきらめくバルコニーで笑顔で指を差し、背景に鳩がはためいているもの、もう二つは、濃灰色の党服を着た、もじゃついた髪をした、同じく眼鏡の中年男の笑顔の絵と、髪を刈り上げた、同じ党服姿をした肥満体の男の全身像だった。
滴る汗の礫が畳に落ち、鼻と口から忍んだ気合が漏れ、その挙動ごとに、肩の僧帽筋が盛り上がり、鰭を思わせる上腕三頭筋が収縮を繰り返す。
9ミリのスポーツ刈りの髪に、頬骨が大きく張り出した顔形、頭面の平らな鼻、扁平な輪郭という顔をし、齢の頃は、十年を三度と少し生きたというところか。その顔にある眼の付き方は、常世にある全ての非情を悟り、肚に呑み下した人間の鋭さを持つ。
汗は滂沱、呼吸は鞴、その指立て伏せの回数は相当のものと思われる。
指立て伏せを終え、股割りのストレッチを始めた時、足元の短波フォンが鳴った。これはインターネット回線が死滅した今、彼のような立場の者には連絡手段として不可欠なものだが、東日本の工場で簡易に製造され、糧というところで比較的恵まれた者の間に出回っている代物だ。なお、その使用電波、電話番号を管理する者達も、暗い暴威の群れに保護料を収め、背後に着けることを余儀なくされている。
若者は、荒い息を切りながら、見るからに性能の保証のない、粗悪品然とした外観のフォンを手に取った。
「商会が弾いてきました」通話口向こうの男は、引っ切り無しに混じる雑音に沈めた声を載せ、報告した。このトランシーバーめいた雑音のため、通話には相当の集中が必要となる。
「うちの島内に棲む親子が殺られまして、奴らの仕業だって証拠も残ってます」「分かった。今、行く。どこだ」「橋の脇の岸です」
通り名、賢と書き、ヒョンと呼ばれる若者は、ガーゼ片で汗を拭った躰にカーキ色の戦闘服をまとい、絶望、または昏い無を象徴するような黒地に白く「篠」の一文字が刺繍された腕章を右腕に着け、腰のホルスターに9ミリ口径の自動拳銃を差した。
木製ドアを開け、施錠し、自分のねぐらである通称「スイート」を振り返り眺めた。自分がこの住居を得る資格を持つまでに通った道は、所属するカルテルで命を張り、実績を作る道だった。その実績のため、カルテルの長からの信頼を得、言わば代貸の地位まで上り詰めた。
「この北西部旧市は、二つの組織が縄張を張っています。黒手です。最近、その二組織の縄張を、アジア系が狙い始めているようです。旅団、と呼ばれる連中です。もっとも、ここを根城にする二団体にも、黒人もいるし、半島人もいます」
短い時間で、ただ一人の客の散髪を終えた主人は、客の若者から銅貨を受け取りざま、述べた。
この銅貨の発行、製造元は不明だが、生存者から、デストラクションと呼び継がれる大災禍を経たこの国の関東甲信越地方に、いつの間にか出回り始めたもので、時計の彫り込まれたものが一万円に相当し、次に鍋、金槌、鍵、釘、ペンシルと続く。硬貨のみで、紙幣はない。
「お客様のその長得物は、用心刀であるようですが、房総の黒手にも、長い物、短い物を遣う人間がたくさんおりますので、どうぞ、お気をつけなさって下さい。かく言う私もね」
主人が理容師白衣の袖をたくし上げると、焔の輪を潜り走るペガサスの絵柄が現れた。
「今でこそ、この生業で慎ましく食っておりますが、以前は、県外で手を濡らしておりました」
美しい貌をしていながら、表情付きを見ただけで、基本は緘黙、と分かる若者は、店主のその打ち明けに言葉で応えることはなかった。彼はやがて、広い背中をポンチョに包んだ躰を反転させ、店玄関へ向かって歩き出した。
「くれぐれもお気をつけなさって」銘じるような迫力の含まれた店主の声掛けが、若者の背中を追った。
「大丈夫。僕、ここで、仕事、もう、決まってるから」ポンチョの若者は、長棒を差した雑簔を担いだ肩から残し、薄紫の光が照らすバラックの家並に姿を遠ざけた。店主は、床の髪を掃くブルームを持つ手を止め、遠ざかる若者に情の視線を送り遣った。
かつて漁、海産物の加工、卸売りを経済的基盤としていた地方都市であった、北西部の市。十五年前、人の力では抗い得ぬ自然の巨大なものに掻きさらわれ、その上、人為で数千度の熱に焼かれ、秒速数百メートルの爆風が吹き抜けた跡地には、板目、正目と塗炭の家が寂しく並ぶばかりだ。
湾へと繋がる運河の舗装岸だった。父親は袈裟懸け、子供は、断ち落とされた頭部が、柑橘の実のように転がっていた。どちらも滅茶苦茶なギャング裂きではなく、綺麗な一太刀で命を摘まれている。そのため、永の無へ落ちる際の苦痛が一瞬であったと思われることが幸いか。
息絶えた父親の額には、稚拙な図柄の蜘蛛が筋彫りされていた。賢は、男児の小さな東部を拾い、その顔部を返し見た。子供の額にも、同じく蜘蛛が彫られている。
賢は、この父親と、浅からぬ面識を持っていた。父親の打ち明けによると、生きていくための糧のあるオアシス的な場所を求めて、一人の子供の手を引いて、東へ移動してきた。その妻、子供の母親は、夫と子供の目の前で、家に押し込んできた賊徒に凌辱され、その際、父親は躰を縛りつけられ、妻が輪姦される様を見せつけられた上、自分は陰茎を切断され、不具の身にされたとのことだった。
賢が第二長を張る篠総業は、各種メディシンの製造の仕切り、卸売りを鎬としている。賢はこの父親に、割値でヘロインを提供していた。その父親が、しばしば襲ってくる陰部の痛みを緩和させるために、ヘロインを、ロキソニン代わりに必要としていたのだ。
「かち入り、掛けますか」先に駆けつけていた二人のうち一人が賢に言い、彼は思案の顔になった。
「それか、商会の野郎、一匹か二匹ぶっ殺して、奴らの目に付くとこに、真っ裸の逆さで吊るしときますか。そうすりゃ、奴らがいつ来ても、こっちもやるぞって意思表示に」「いや」賢は子供の首を置き、小さくかぶりを振った。
「これは、あいつらのやり口じゃねえ」賢は言って、二体の屍を見た。
「でなきゃ、旅団ですか」「その線も考えられるな」賢は呟いた。
旅団は、機動力を駆って、集落を荒らす。獲物とされた人間は、四肢を切断され、性器を引き切られ、その死体が鎖で数珠繋ぎにされる。
「組裁が明座と談判出来るようにセットする。旅団を狩り込む共同戦線締結の話だ。とりあえず、この饅頭、処理しとけ」
賢は二人に命じ、戦闘服の懐から、備蓄品流れのマールボロをまさぐり出し、ジッポライターで点火した。肺臓深くまで吸い込んだ煙を吐き出しながら、前代、と呼ばれる時代のことを思った。
「ダブル・デストラクション」以前は、彼は民族学校に在学する少年だった。日本人の友達もいた。だが、国際情勢の流れで、日本にもカルト偏右政権が発足したことにより、過激な政治的思想を持つ民間団体からのヘイト排除と迫害が始まり、それからさらにあの未曾有の大災害と、それを機とした主要都市、軍事拠点への核攻撃により、無政府となったこの国で、齢稚くして、「侵し、奪う側」の道へ進んだ。
それはただ、己の命を繋ぐためのみであった。
命ある者達が死者を羨む、この極東の暴力列島で。
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