朝の霧にほどける

春日あお

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 誰もいない廊下を走った。
 心臓がばくばく鳴っている。三浦先生に、誰にも言えない秘密を、無理矢理握らされた。上手に握っていなければ、すり抜けていく。すり抜けて、中野さんの耳に入ったら、みんなにバレたら、僕は普通でいられなくなる。
 階段を勢いよく駆け上がって、踊り場に出ると、人とぶつかりそうになった。

「詩?」

 航だった。今いちばん会いたくない相手なのに、神様どうして。そのまま何も言わずに、航の横を通り過ぎようとした。でも、航が僕の腕を掴んで引き留める。

「待てって」

「っ…離して」

「葉山から聞いた」

 思いもよらぬところから刺されて、身体が固まった。とっさに航の顔を見る。航は、笑っているようで、笑っていなかった。目は冷たいのに、口元は弧を描いている。僕の腕を掴む指がさらに食い込んで、痛い。

「……なにを?」

「詩がどこにいて、誰といるか」

「なんで葉山先生がそんなこというの」

「知らない。職員室前で呼び止められて……君の連れだろって言われた」

 そう言って、僕の頬をなでた。

「顔が熱い。あいつとなにかあった?」

 あいつって、三浦先生のことだ。言いたい。握ったものを今すぐ明け渡したいと思った。でも、航に言ったら、きっと三浦先生のところに行く。行ったあとに今の航がなにをするのか、想像するだけで怖い。

「なにもないよ。ただ、回収したノートを渡しただけ」

「ほんとうに?」

 航が一歩踏み込んでくる。距離が詰まって、僕も一歩下がった。背中に冷たくて固い壁の感触が当たった。航が僕の頬をまたなでる。その指で嘘を剥がされそうで怖い。

「ほんとう」

「……ふうん」

 不満げにいうと、僕に触れた手を離した。深いため息をひとつ吐いて、うつむく。次の瞬間、航がふっと笑って顔をあげて、明るい表情になった。口元だけが笑っていた。僕が嘘をついているとちゃんと見抜いて、そっちを選ぶんだ、と失望したみたいだった。

「あんまり心配かけさせるなよな。三浦と葉山の噂をきいたあとだったから、詩があいつに目ぇ付けられたら、って思っちゃったじゃん……もう三浦と二人きりになるなよ」

 航はそれ以上、踏み込んで来なかった。代わりに、僕を心配してくれた。胸がきゅっとした。航を蔑ろにしている自分に腹が立った。それでも、航を守るために、言わない。

「心配してくれて、ありがとう。中野さん待たせてるから、もう行くね」

「……ああ、気いつけてな」

 最後に航がどんな表情をしていたかは、あえて見なかった。見てしまったら、中野さんとの約束を破ってしまう気がしたから。
 航に触れられたところが、ひりひりして痛かった。



 日がすっかり沈んで、点灯した街灯の光が目にしみる。公園で僕と中野さんだけが、ベンチに腰掛けていた。足元には銀杏の黄色が、僕らのまわりを飾るように落ちている。
 中野さんが寒そうに、スカートから露出した膝をこすり合わせた。日が落ちるとぐっと気温が下がる時間帯。僕はなにかをしてやるでもなく、ただ声をかけた。

「寒いよね、大丈夫? そろそろ帰ろうか」

「大丈夫だよ。まだもう少しこうしてたい。それより、詩くんのほうが心配だよ」

「……なんで?」

 中野さんが鞄から小さな飴を取り出した。苺のイラストが描かれた包装紙。それをひとつ、僕の手のひらにちょこんと置いてくれた。

「詩くん、ずっと上の空だし、疲れた顔してる。こんなことしかできないけど、甘いものでも食べて、元気出して」

 中野さんの気遣いが、ひどくあたたかい。彼女はいつも正しい。正しいほど、逃げ出したくなる。優しくされるたびに、僕の歪んだ選択が浮き彫りになって、彼女のために別れたほうがいいと思うのに、男として見てもらえている安心にしがみついてしまう自分がいる。

「ありがとう」

 僕はもらった飴をすぐに口に放り込んだ。甘みがじわりと広がっていく。三浦先生から受けた屈辱も、航に掴まれた腕の痛みも、ゆっくりと遠ざかるようだった。

「詩くん、週末ってあいてる? もしよかったら、デートしたいな」

 中野さんが恥ずかしそうに、カーディガンの袖を指先でいじって言う。

「うん、あいてるよ。僕も、デートしたい」

 僕は、嘘に嘘を塗り重ねている。彼女から投げられた問いに対して、彼氏だからこうする、彼氏だったらこういう、という答えを投げ返す連続にすぎない。中野さんが笑顔を見せてくれると、それが正解になって蓄積されていく。

「……それでね……その日うちの親、仕事で帰ってくるの遅いんだ」

 その問いが、こんなに早い段階で出てくるとは思わなかった。胸に不安が広がった。
 僕にできる?
 彼女にどこまで触れられる?

「……わかった」

 自分でもなにが、わかった、なのか理解できないけど、中野さんが照れたように笑ったので、正解だった。そして、中野さんは身を乗り出して、目を閉じ、口を尖らせる。僕はいつもこの瞬間冷や汗をかく。こんな気持ちで彼女の大事な部分に触れることは、ナイフで傷つけるみたいでためらってしまう。
 僕は、中野さんの唇に、自分の唇を軽く触れさせた。
 彼女は、花が咲いたみたいに顔をほころばせる。
 胸が、圧搾機にかけられたみたいに締め付けられる。ごめんなさい、と何度も叫びたくなる。心がどんどん潰れていく。滲み出た液体が、きゅっと縮んだ胃から込み上げてきて、酸っぱい唾液が喉に溜まった。

 こんなときに、また航の顔が浮かぶ。壁に押し付けるみたいに詰め寄ってきて、掴んでくる手は火傷しそうなほど熱い。航はいないのに、まだ掴まれてるみたいな感触が手首に残っている。




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