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しおりを挟む中野さんを自宅近くまで送り届けたあと、帰り道をゆっくり歩いた。中野さんが別れ際にもうひとつくれた飴を、口の中で転がす。右に、左に、ころころ立ち位置を変えては甘い愛想を振りまき、誰かのために自分を差し出すほどに小さくなって、やがて消えてなくなる。僕もこのままいつか、そうなるのではないか、と不安になる。
自宅に着き、玄関に入ると、いつもはない黒の革靴があった。心の中で舌打ちした。今日は嫌なことばかり続く。肩を落としながら自室に行き、娘へと身なりを整えた。もこもこの部屋着の肌なじみのよさが返って気持ち悪く感じる。
リビングのドアノブに手をかけ、ひとつ深呼吸をして、いつもどおりに、と自分に言い聞かせて、扉を開けた。
「ただいまー」
「おかえり、詩。今日は遅かったのね。パパと先にごはん食べちゃったわよ」
「ママ、ごめんね。友達としゃべってたら、つい盛り上がっちゃって……ていうかパパいたの? めずらしーね」
できるだけ、明るく、軽薄に演じた。父がいたことなんてとっくにわかっていたけど、存在を否定したくてわざと気づかなかったふりをした。父は黙ったまま、ソファでスマホをいじっている。
「最近、帰りが遅いわよね……お友達ってどんな子?」
どきり、とした。いつもはそんなこと聞いてこないのに、母は茶碗に白米をよそいながら、伏し目がちに尋ねてきた。
「……航だよ。たまたま公園に寄って、話してたらいつの間にかこんな時間になっちゃった」
航、ごめん、と心の中で謝った。
「……なんだあ、航くんかあ、最初からそういってよ。詩は可愛いから、すぐ誰か寄ってきちゃうもの。心配したわ」
背筋が凍った。中野さんとのことは、母に絶対にバレてはいけない。バレてしまったら、どうなってしまうだろう……。
「パパも珍しいわよね。いつも出張なのに」
ソファに座って背を向ける父の、スマホの画面をのぞき見た。内容まではわからないけど、特定の関係じゃなければ到底送り合わないような絵文字がたくさん並んでいた。親の性的な一面を垣間見るのは、いつだって吐き気がする。
「詩、食べちゃって。ママはお風呂入ってくるから」
母は食卓に僕の分の夕飯を並べると、そそくさとリビングを出ていった。こんなときばかりは、いなくなってほしくないのに。父と二人きりになると、大抵ろくなことにならない。僕は、喉を通らないごはんを無理やり押し込んで飲み込んだ。
視界の端で、父のスマホが暗転したのが見えた。
「詩……ちょっといいか」
僕は答えず、黙々と食べ続ける。父が向かいの席に、腰掛けた。
「お前、しんどいだろ。高二にもなってそんな格好させられて」
慰めてるように見せかけて、他人事みたいな言い方だった。長年、自分の妻をいさめられなかったお前の責任でもあるだろ。言い返したい気持ちを、味噌汁で押し流した。それでも父は、勝手に続ける。
「まあ、高校を出るまでの辛抱だ。大学に行って、一人暮らしでもすればいいさ。物理的に離れてしまえば、どうってことはないだろ。ただ、くれぐれもご近所さんには、見られるなよ」
ずっと逃げてきたくせに。
煮魚が乾いた喉に引っかかって、うまく飲み込めなかった。
たまに顔を出したかと思えばその言い分はなんだ。母の欲望を、息子の僕が受けて耐えている。親の庇護下にある未成年ができるのは、適応だけだ。そう思わなければ、僕はやっていけない。
「父さんにとっては、しょせん他人事だろうけどさ。あと一、二年を生きなきゃいけないのは、僕なんだよ」
僕は箸をぎゅうっと握りしめて怒鳴った。手のひらに爪が食い込んで痛い。もう、なにも言ってくれるな。誰も助けてくれないんだって、明確に突きつけられたみたいな気持ちになってしまう。
「…………一人暮らしの件は、時期がくれば俺からも口添えするから。それまでは、母さんに黙っておくように。知られたら面倒になる。母さんが荒れると、お前も困るだろ」
僕は勢いよく立ち上がり、リビングを飛び出した。これ以上は、なにも聞きたくない。自室の扉を大きな音を立てて閉めて、ベッドに飛び込む。
ふと、手に固いものが触れた。僕のスマホだった。スマホをブレザーのポケットに入れたままだった気がしたけれど、そんなことはどうでもいいくらいに腹が立っていた。
むかむかして、鼓動が速い。
心を落ち着けるために、震える指でスマホを開いた。中野さんからメッセージが届いていた。
《週末のデート、楽しみだなあ。池袋でウィンドウショッピングなんて、どうかな?》
中野さんの感情を表すように、ポップな絵文字がたくさん並べられていた。胃がキリキリと痛くなった。
どこに行っても、僕の居場所はない。
真っ暗な部屋の中で、スマホの光がやけに眩しかった。
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