朝の霧にほどける

春日あお

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 日曜日の午前十一時。駅前で中野さんと待ち合わせた。中野さんは、ふわふわのニットにミニスカートという、デートにふさわしい可憐な姿で現れた。

「詩くん、おまたせ」

「全然待ってないよ。今日、すごくかわいいね」

 僕がそういうと、中野さんは花が咲いたみたいな笑顔を見せてくれる。今日は、僕がちゃんと男として振る舞えるかどうかの試験日ともいえる。さながら高校受験のときのような心持ちだ。

 電車に乗ると、上り方面に向かう人たちで混雑していた。自然と、いつもより距離が近くなって、頭ひとつ分低い彼女の髪を、僕の呼吸が揺らしていた。気づくと、僕はさらに一歩前に出て距離を詰めていた。身体がほとんど密着すると、中野さんはチークに染まった頬を一層赤くする。うれしいはずなのに、彼女の体温を感じるほど、身体の芯から冷えていくようだった。

 横に並んで歩いたとき、初めて指を絡めて手を繋いだ。人混みで手が離れそうになったら、ぎゅっと握って彼女を引き寄せた。はにかむ彼女の手の甲を、親指でなでてやった。

 デパートで、手をつなぎながら、思いの向くままに歩いた。中野さんが女性らしい清楚なデザインを取り揃えたブランドで立ち止まった。レースを上品にあしらった黒のワンピースを飾ったマネキンに、釘付けになっていた。きれいだね、でも、高校生には高くて買えないね、と笑い合って通り過ぎた。

 散々歩いて、遅めの昼食で入ったお店はビュッフェタイプだった。

「ここのビュッフェ美味しいね。品数がありすぎて、全制覇するの厳しいかも」

 中野さんがお腹をさすりながら言った。

「じゃあ、これはいらない?」

 僕は皿いっぱいに並べたケーキ類をテーブルに置いた。

「いる!」

 中野さんが目を輝かせて、マカロンに手を伸ばした。
 僕はふっ、と笑う。

「……どうしたの?」

「いや、中野さんだったら、マカロンを選ぶだろうなぁって思いながら取ったから、つい」

 そういうと、中野さんは手で顔をあおいだ。

 ——あれ? 距離の詰め方も、手のつなぎ方も、気遣いの癖も……僕は、さっきから誰を模倣してるんだ。

 おそるおそる、思い当たる人の名前を口の中でつぶやいた。
 その名前に、やりようのない感情が込み上げてきて、額に手を当てた。

 ……なんで、ここで航なんだ。

「……詩くん、大丈夫?」

「え?」

「顔、真っ赤だよ。体調悪くなっちゃった?」

「……ううん、大丈夫だよ。気にしないで」

 脳裏に浮かんだ、航の笑顔をかき消すように、話題を変えた。
 それでも僕は、鼓動が静かに加速していくのを、確かに感じていた。

 レストランを出ると、中野さんが僕を気遣って、帰ろうと言ってくれた。もしよかったら、うちでお茶していって、と恥じらいながら付け足した。

 中野さんの自宅に入ると、なんだか悪いことをしているみたいな気持ちになって、誰もいないことを知っているのにこっそりと家の中を進んだ。中野さんの部屋は、ピンクを基調に温もりのあるインテリアでまとめられた、女の子らしい空間だった。ほのかに甘い香りがした。促されて、僕は小さいベッドの上に腰掛けた。コンビニで買った、ジュースのパックや菓子類が入った袋のカサカサ音が響いて、耳の中で反響した。

 僕と中野さんはくっついて座って、指を絡めた。
 沈黙が、心臓の音を際立たせる。

「詩くん、今日はありがとう。すごく楽しかった」

 中野さんがぽつりと言った。

「僕も、楽しかったよ」

 中野さんはにこりと笑って、すぐに表情を曇らせた。

「……ねぇ、詩くん。私のこと、ほんとうに好き?」

「好きだよ」

 ほとんど条件反射で答えた。

「ごめんね、責めたいわけじゃないの……でも詩くんって、あんまり愛情表現してくれないよね。なんだか​私ばっかり​好きみたい」​

 中野さんが、絡めた指の力をぎゅっと強めた。

「そんな​ことないよ、​好きだよ」​

​「嘘」​

​「嘘じゃない」

 迷うみたいにうつむいて、中野さんは続ける。僕の手の甲を、もう片方の手で包みこんでくる。

「朝霧くんと​いる​ときの​詩くん、​全然​違うもん。​私と​いる​ときの​詩くんは​……​苦しそう」

「……​やめて。​航は​関係ない」

​「関係​あるよ。​私、​見てる​もん」​

 一拍。僕は返す言葉を失った。中野さんの心からの叫びに、正解がわからなくなってくる。​

「私、もっと​詩くんに、​好きに​なって​もらいたい。​どこが​悪い?  努力するから​教えて?」​

​「中野さんは、​悪くない。​悪いのは、​僕だ」

​「彼女なのに、​名前で​呼んでもくれないじゃん」​

 中野さんが、声を荒らげた。目尻が濡れている。

​「……ゆりか、​ごめん……ちゃんと、​好きだよ」

​「不安なの……​詩くん、​安心させて​よ……」

 言いながら、僕の膝の上で頭を垂れる。​

​「……​どう​したら、​安心できる?」​

 中野さんがゆっくりと身を起こし、僕にすがりついた。

​「キスして、​抱きしめて……​詩くんに、​愛されたい」

 耳元で囁かれて、冷や汗が止まらなくなった。

「……言葉じゃ、​足りない?」​

 中野さんは、​震えながら​小さく​頷く。
 僕は息を整えるように呼吸をして、覚悟を必死にかき集めた。​

​「……じゃ​あ……​こっち向いて」

 中野さんの頬に指を添えて、口づけた。
 手順どおりに、手を、口を、動かした。背中に触れた中野さんの指が氷みたいに冷たく感じた。彼女の大事な部分を、少しずつ汚して、小さい傷をつけていった。それでも、触れるたび、彼女は甘ったるい声をしきりに漏らしていた。心の中でごめんなさい、と何度も叫んだ。

 残す手順はあとひとつだけ。
 なのに、僕の下半身は少しも熱を帯びていなかった。

 拒絶と恐怖と、罪悪感が身体を冷やしていた。もしかしたら、今がカンカン照りの真夏で窓を全開にしていたとしても、結果は同じだったかもしれない。身体が硬直して、一歩も動けなくなった。

「……詩くん?」

 中野さんが、僕を呼んでいる。うまく返事ができない。次の瞬間には、彼女の顔から血の気が引いていくのがわかった。

「ごめん……」

 それしか言えなかった。

「謝らないで、私……私、なにかした?」

 何もしてない。何もしてないから、何も言えない。

「…………もう、やめよう」

 中野さんが、静かに言った。その一言で、部屋の空気が変わった。

「……終わりにしよ……もう、これ以上、詩くんを苦しめたくない」

 僕は結局、ごめん、としか言えなかった。
 中野さんはいつでも正しい。正しいほど、僕は苦しい。自分で選択したはずなのに、中野さんを傷つけたのは自分なのに、被害者みたいな顔をする自分が腹立たしい。
 僕は男になりきれなかった。ずっと答案に正解をもらってたつもりだったけど、そもそも一問目から不正解だった。ぐうっと胃液が上がってきて、喉がきつい炭酸をのんだあとみたいに焦げて痛くなった。

 頭の中がまっしろのまま歩いた。中野さんと最後にどんな言葉を交わして家を出たのかも覚えていない。

 自宅の扉を開けると、玄関で待ち構えていたかのように、母が立っていた。目がらんらんと輝いている。

「詩、おかえり。ねぇ、見て欲しいものがあるの!」

 母の言葉を聞き流して、そういえば、自分の今の姿が男のままであると、ぼんやり思った。母の前でこの姿を見せるのはいつ以来だろうか。
 ぼうっとしている間に、母が僕の目の前に何かを広げた。

「じゃーん! みて! このワンピース、かわいいでしょ!」

 それを認識して、僕は震えた。
 そのワンピースは、昼に見た。レースを上品にあしらった黒のワンピースだった。
 言葉を失った。母は、全部知っていたんだ。何もかも。

「詩、なにをぼーっと立ってるの! 早く上がって、試着しましょ!」

 母は僕の手を引っ張って、僕の部屋へと連れて行く。

 行きたくない。

 なのに身体にはもう、抵抗する力が残ってなかった。
 母が鼻歌を歌っている。
 背後で閉められた部屋の扉が、ひどく残酷に聞こえた。




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