forget me not~Barter.19~

志賀雅基

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第37話

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 雪明かりのタブリズの街は綺麗だった。
 高層ビルも数多くあったが表通りに面しているのは殆どがせいぜい五、六階建てくらいの中層ビルで、そのどれもが低層階にバルコニーを持っている。外壁は煉瓦作りでヨーロッパの古都を思わせる落ち着いた佇まいだ。

 更には一階の殆どにテナントとして店舗が入り、ショーウィンドウはセピア色の明かりでライトアップされていて、まるで影絵の中の世界を見ているように美しい。

 目抜き通りは広く片側四車線もあった。オレンジ色の外灯で照らし出された先には大きな尖塔を持った建物があり、尖塔の天辺近くには鐘のシルエットが見える。京哉は抜群の視力で観察し、決められた時間に鐘の音が響くようになっているのだろうかと想像した。

 タクシーが路肩に一番近い車線に移動して減速し、まもなく停止する。
 カードで霧島が料金を支払い降車した。降りた所はアーケードがあり雪に濡れずに済んだ。傍のホテルを三人で見上げる。外観は周囲に合わせてセピア色だが中は意外と新しそうだ。明かりも雰囲気より機能重視で煌々と灯されている。

「ノートルダムホテル、どういう意味なんですか?」
「『私たちの貴婦人』だ。宗教の聖母を指しているらしいな」
「結構良さそうな所だね」

 自動ドアから入ると左側がフロントで右側がソファや観葉植物の並んだロビー、向こうはカフェテリアになっていた。客がコーヒータイムを愉しんでいるのが見える。

「で、どうしましょうか。トリプルルームは却って瑞樹に失礼ですか?」

 訊いた京哉に瑞樹は首を横に振った。

「失礼なんて……でもそれじゃ、僕の方が失礼だ。シングルで充分だよ」
「って、セキュリティ上の問題なんですけど」

 セキュリティと言えど単なる泥棒とは考えていない。狙いは機密メモリだ。泥棒どころか強盗、相手は国家である。このチャンスに仕掛けてくる可能性があった。

「瑞樹、一晩くらい我慢できるだろう?」
「霧島さんもそう言うなら……」
「ならばトリプルで決まりだ」

 フロントで訊くと幸い喫煙可の広めのツインが空いていて、エキストラベッドを入れて貰えることになった。幾らも待たずに準備ができ、霧島が代表してカードキィを貰うと、エレベーターで上階に上がる。部屋は十二階建ての十階、一〇二五号室だ。

 臙脂のカーベットを踏んで辿り着いた一〇二五号室のドアを開けると、そこは爽やかな雰囲気の空間だった。毛足の短い絨毯は紺と空色の織り模様で壁はペールブルー。
 調度は木目と瑠璃色、花弁を模した天井のシーリングライトも充分明るい。エキストラベッドが入ってもフリースペースは意外と残っていて、三人でも息が詰まることはなさそうだ。

「気恥ずかしくなるくらい、晴天という感じの部屋だな」
「雪の多い土地柄だから、青空に憧れでもあるんじゃないですかね」

 ソファもロウテーブルを挟んで三つある。それに霧島と瑞樹が沈み込むように座った。京哉は電気ポットを洗って湯を沸かすとサーヴィスに置いてあったインスタントコーヒーをカップ三つに淹れて皆に配給する。

「ちょっと忘れられないくらい美味しいな、これ」

 ネ〇カフェのインスタントコーヒーをそう評した瑞樹に二人も笑った。

「飲んだら瑞樹、シャワー先にいいですよ」
「そう? じゃあ有難く頂こうかな」

 紙コップ一杯のコーヒーを飲み干すと、無駄に譲り合って時間をロスすることもなく、瑞樹は礼を言って霧島にジャケットを返し、ショルダーバッグを抱えてバスルームへと消える。
 それを見送って溜息をついた京哉は二人になるのを待っていた訳で、素早く霧島の額に手を伸ばした。触れた熱さに顔を曇らせる。

「忍さん、貴方はどうしてそうやっていつも黙ってるんですかっ!」
「いきなり何なんだ?」
「そんなに熱が高くて、自分で気付いてないなんて言わせませんからね」
「お前、瑞樹には……」
「分かってます、黙っていますよ」

 体調の悪い霧島からジャケットを借りていたことを知れば瑞樹は罪悪感を抱き、過剰に心配もするだろう。京哉もそれは望まない。二杯目は熱い紅茶にし紙コップを霧島の方へと押しやった。年下の恋人の勘気が怖いので霧島も紅茶を押し頂く。
 それでも再び溜息をつきたくなって京哉は数時間ぶりの煙草を咥えた。

「ところで忍さん、空港の車両システムエラーと停電は偶然だと思いますか?」
「お前はそう思っていないのだろう?」
「だって幾ら何でもあり得ないですもん。フェイルセーフも全てやられるなんてことコンマ以下ゼロが二桁並ぶくらい確率は低い筈ですよ。それも車両と電源のダブルなんて」

「確かに作為的な臭いがするな」
「問題は某国のエージェントがやったのなら、相当なウィザードだってことですね」
「あのアール島の第三出張所にいた金髪の催眠術野郎の他にもか?」

「それは分かりません。例えば車両に関しては整備関係者を一律に催眠術に嵌める。そして電源はそれに合わせインフラの管理コンピュータを弄る……どうですかね?」
「コンピュータまでもが催眠術に嵌められたということか?」

 二人は暫し黙り込んだ。ここまで大掛かりな作戦を打ってきた以上、敵の某国は金髪の催眠術野郎だけでなく、他にもエージェントを動かしていると考えた方が自然である。
 それは見えない敵を相手にしなければならない可能性を示唆していた。
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