『沈黙』はダミーカート[模擬弾]~楽園31~

志賀雅基

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第56話・ターゲットKILL……だが

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 強風と寒さの中、彫像のようにハイファは動かない。
 動く訳にはいかないのだ。
 銃口角度の六十分の一のぶれが百メートルで二十九ミリのずれになる。一キロメートルで約三十センチ、二キロで約六十センチもの致命的なずれだ。
 それだけ外せば敵に逃げられるだけでなく、無辜の第三者をってしまいかねない。

 刻々と時間が過ぎる。気圧と風速・風向の変化をシドはまたハイファに報告した。ハイファもまた一挙動でスコープのダイアル調整して伏射姿勢に戻る。そんなハイファと一緒にトリガを引くつもりで、シドも心音に合わせて呼吸を繰り返した。

 一度も訪れないかも知れぬチャンスを待ち、それぞれがスコープ越しの世界に集中していた。極限まで神経を研ぎ澄まし、『これから人間を撃ち殺す』という事実すら心から追い出したかの如く、クリアな視線でじっと見つめ続ける。

 だが実際には思考の奥底の澱の中で、それぞれがまた心を泳がせていた。
 シドの視界に入る人影は殆どが小さく、つまりは子供ばかりだった。与党幹事長ジョアンナ=ルーサーがパーティーに招いたという親のない子供たちだろう。

 それを淡々と眺めていたシドの視界にグレイの髪をした中年女性が映った。瞳の色までは不明だ。だが頭に叩き込んであったポラと昨日のニュース映像が甦る。特徴は完全に合致。
 けれどシドは口を開かない。沈黙を保ったまま静かな呼吸を繰り返す。

 子供たちの前でビッグマザーが血と脳漿をぶちまけることも避けたかったが、何よりハイファに謝らせたくなかったのだ。
 重い半分を背負わせて『ごめんね、シド』と。

 このシチュエーションでハイファにトリガを引かせることはできない。実弾を発射させて『ビッグマザー』の凄惨な死を子供たちの記憶に刷り込むような真似は断じてさせられない。

 昨日自分の胸に吸わせた熱い涙をもう流させたくはない。
 ハイファが自らの判断でトリガを引かないことだけを強く願う。

 スポッタたる自分の指示がないことだけが、果たして別室員ハイファス=ファサルートの抑止力になりえるだろうか。もしトリガを引いても不発ミスファイアなら……そんな可能性にまでシドは賭けたかった。

 葛藤はたった数秒だったが、シドにはハイファと自分、二人の人生をも決め得る長い長い時間だった。
 そして誰もが何のリアクションも起こさないうちに、その人影は見えなくなる。シドはハイファとフォードに悟られないよう、細く長い溜息をそっと洩らした。

 同時にもう僅かな後悔が湧き上がる。自分は千載一遇のチャンスをふいにしたのだ。
 スナイパーが誰より信頼するのはスポッタだ。

(その信頼を、俺は裏切った――)

 自分は模擬弾ダミーカートを詰めた弾倉マガジンをハイファに手渡したも同然の嘘を吐いたのである、沈黙することによって。

 だが後悔と同じくらい、シドの心は大きな安堵を得ていた。

 それでもハイファに聞こえてバレるんじゃねぇかと思うほど、シドは自分の胸の鼓動を強く意識する。そうしているうちにも二十一時半となり、あっさりパーティーは終焉を迎えてしまった。
 しかしまだ微動だにしないハイファは目に見えないほどの銃口角度調節をし、最上階から一階下のルーサー幹事長の部屋を狙い始めたらしい。

 左、二から五番目の窓をシドも今度こそはと見つめ続ける。
 更に三十分が経過し、視界の中でチラリと動いたのは紛れもなく大人の人影だ。

「二枚目の窓の傍、カーテン越しに人影が二。留意せよ」
「ラジャー」

 素っ気ない遮光ブラインドでないカーテンが開けられた。そこには男女が二人。

「向かって左、二枚目の窓に標的が現れた」

 間髪入れずにハイファが摘むようにトリガを引く。轟音がしてミリアットが盛大に火炎を吐いた。空気がビリビリと震えているうちにシドは成果を報告する。

「ヒット、ヘッドショット。ターゲットKILL」
「任務完了、撤収する」

 感情のない声でハイファが宣言し、まだ熱いミリアットを素早くソフトケースに仕舞って、床に置かれていたテミスコピーを身に帯びた。硝煙が濃く匂う中で三者がそれぞれに深く溜息をつく。
 けれどシドはまだスコープのアイピースを覗いていた。距離があったとはいえ対物ライフルの一射を食らったのだ、『ビッグマザー』はずたずた、直視に耐える状態ではなかった。

 だが憎くない、悪でもない相手を殺した自分を忘れないために、シドはその光景を目に、心に刻み込んで焼き付ける――。

 そのとき無惨な『ビッグマザー』の傍で呆然としていた男が顔を上げた。豆粒ほどのその男が非常に均整の取れた体つきをし、美麗な顔立ちをしていることにまで気付く。何故そこまで見えたのかはシドにも分からない。
 しかし向こうの動きでようやくシドは呪縛が解けたように身を起こす。そしてスコープのアイピースから目を離そうとした瞬間、その若い男の青い瞳と目が合った。

 この距離で目が合うなどとは錯覚に過ぎない、そんな分かり切ったことを思い出して頭を振った刹那、こちら側の窓が全て白く濁る。

「伏せろ、フォード!」

 反射的にハイファに覆い被さった一瞬後、爆発的な音がして窓という窓がこなごなに割れ、内側に吹き飛んできた。対衝撃ジャケットの背に勢いよく破片が降り注ぐ。
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