交換条件~Barter.1~

志賀雅基

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第6話

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 ウィークリーマンションには、まだ新しそうな白い外壁に看板が貼られていて、流し読むと一日単位で借りられるらしい。一階にコンビニとコインランドリーの入居した五階建ての建築物と霧島の顔を交互に見上げた。

 だが体調は刻々と悪化し、的確な質問が繰り出せないまま引きずられるように建物のエントランスに足を踏み入れる。自動ドアの内側は瀟洒な造りのロビーになっていて、左側には一般的なホテルと変わらないフロントがあった。
 フロントマンに霧島が空室の有無を訊き、カードキィを手に入れるのをぼんやりと眺める。

 三分後には果たして自力で移動したのかも定かでない状態で五階の角部屋の前に立っていた。ボーッとしたまま霧島に腕を掴まれて室内につれ込まれる。

 するとまず目に入ったのはダブルベッドだった。この部屋しか空いていなかったのだろうかと思い霧島を振り返ると、もうスーツのジャケットを脱ぎ始めていた。

 ここに至っても論理的な言葉を思いつかず、京哉はズルズルと移動して独り掛けソファに座り込んだ。幸い目前のロウテーブルに灰皿があったので、煙草を出すと霧島に振って示す。頷かれるのを待ってから一本咥えて使い捨てライターで火を点けた。

 深々と吸い込むと数時間ぶりの依存物質で僅かながら脳ミソが固まった気がした。一本を吸い終える頃には、やや思考力を取り戻す。

 伊達眼鏡を外してタイを緩めた。今はこれが精一杯のリラックスだ。

 一方で霧島は特殊警棒や手錠ホルダーを着けた腰の帯革の他、ショルダーホルスタごと銃も外している。更にシワになるのを嫌ってかタイを解き、ドレスシャツとスラックスまで脱いでクローゼットのハンガーに掛けていた。京哉は素直に感心する。

 自分がスナイプで緊張していたなら、それを隠れ見ていた霧島はもっと緊張していた筈だ。そして結果は管内での殺人犯と二人きりという状況である。それでも現逮したホシに逃げる気も体力もないのを見抜いた途端、切り替えも早く超リラックスモードだ。

 ここまで自らをコントロールし得るのも、できる男の特技に違いなかった。

 そうして何気なく目に映した霧島の躰は見事に引き締まり、分厚い胸板は相当鍛えているのが窺える。ためらいもなく晒した肌は滑らかで体毛も薄く、単純にスリムなのではなく着痩せするタイプだという事実まで知るハメになった。

 備え付けのバスローブをまとった霧島は電気ポットを洗ってセットし、一旦バスルームに消えて出てくると全ての窓に掛かったブラインドを上げ……と、無駄のない動きで立ち働いたのちに宣言する。

「では、鳴海巡査部長。いや、この際だから京哉と呼ばせて貰う。私のことは忍でいい。まずはきみが眠れる状態になるまで一風呂浴びよう。背中を流してやる」
「まさか、貴方も一緒に入るんですか?」

 予測し得ない提案に京哉はドン引いたが、霧島は笑みを浮かべて更に付け加えた。
「今なら風呂のあとに私の添い寝と腕枕の特典も付くぞ」

「そちらこそふざけないで下さい、霧島警視! んなもの要る訳ないでしょう!」
「忍と呼べと言っている。それに遠慮は無用だ」
「遠慮じゃありません。僕は官舎に帰ります」
「その顔色と熱でタクシーに乗るのか?」

 溜息をついて京哉はポケットから出した薄く軽い財布を振る。

「バスに決まっているでしょう」
「それで真城市内まで一時間以上もバスに乗るのは無謀だろう。行き倒れて119番通報されること請け合いだぞ」

 多分にその恐れはあったが、ここで変な人と一緒に過ごし何が起こるか身構えているより、救急車の方が近い将来が読めるだけマシだ。京哉は立ち上がる。

「どうせ寝たら治るんです。寝るならウチが一番ですから失礼しま……あ、あれ?」

 勢い一歩を踏み出したら部屋がぐるりと回転した。気持ちの悪い眩暈に酔い、京哉はふらふらと倒れかかって霧島の腕に救われる。そのままベッドに寝かされたまでは良かったが、次には両腕を押さえつけられ上半身の自由を奪われた。

 そして灰色の目が近づいたと思うと唇までも奪われている。

 有無を言わさず仕掛けられたのは真城署警務課での『接触』など、ものの数にも入らないほど濃厚なキスだった。
 捩るようにして唇を開かされ、意地でも割らないつもりだった歯列を舌先で巧みにこじ開けられる。侵入してきた舌は京哉自身の熱のせいか少し冷たく感じた。

 それを噛み切ってやろうとは思い至らないくらい霧島のテクニックは絶妙で、元々ぼんやりしていた京哉の思考に霞が掛かり始める。

「んんぅ……んっ、んんっ……あっ、はあっ!」

 酸欠の一歩手前で解放された。気付くと京哉は目まで瞑っていて、自分が男のキスに酔い痴れるとは信じがたくも気恥ずかしい思いで恐る恐るまぶたを引き上げる。
 すると約三十センチの超至近距離に余裕の笑みを浮かべた霧島の顔があった。

「どうだ、悪くはなかっただろう、京哉?」
「貴方に倣って『ごちそうさまでした』とでも言って欲しいんですか?」

 そう返した途端に腹の底から口惜しさが湧き上がってきて、京哉は自由な下半身で暴れに暴れる。けれど小柄で武道もパッとしない、射撃だけが特技の京哉が全力で抵抗しても霧島の余裕の笑みは変わらなかった。

 そこで京哉は戦法を変えた。相手の涼しい笑顔を見据えたまま、のしかかった男の脚の間に自らの大腿部を思い切り押しつけたのだ。

「うわっ、やめ、それは卑怯だ……潰れる潰れる!」

 さすがに霧島も参ったらしく溜息ひとつで京哉の上から退いた。京哉は憤然としながらも這うようにして元のソファに戻る。その間に霧島が部屋にサーヴィスで置かれていたインスタントコーヒーをカップふたつに淹れていた。

 コーヒーカップを手にロウテーブルを挟んで二人は向かい合う。京哉は再び煙草を咥えて火を点けると霧島を睨みつけて紫煙と共に文句を吐き出した。

「病人を襲うなんて最低じゃないですか、誰が抱かれたい男トップですって?」

 睨みつけた相手はすました顔ながら、素直に謝った。 

「すまん。私も既成事実を作ろうと焦っていたんだ」
「警務課のあれで充分でしょう。いったい僕に何をさせたいんですか?」
「もう分かっていると思うが、私は女性を全く受け付けないタイプでな」

「はあ、全然分かっていませんでしたけど、そうなんですね」
「そうなんだ。こういうものは生まれつきなのかも知れんが……考えられる後天的要因その一、物心ついた頃には既にレディファーストの精神を叩き込まれていた。その二、元々私は米国籍の女性の私生児だ。その三、義母の機嫌を窺い四六時中ビクついて育った。以下続く」

 なるほど、確かにそういう男が社会に出ると現実の逞しい女性を恋愛対象として見られなくなるかも知れない。壊れ物の如く丁重に扱うよう教わった筈の女性は強く、そしてしたたかだ。

「ふうん。でも国籍は最初から日本だったんですよね?」
「まあ、そうだな。ハーフだった生みの母はシングルマザーの覚悟で私を生んだらしいが、すぐ父に探し当てられて私は認知された。お蔭で喩え帰化しても外国人は採用しない不文律のある日本の警察にも入庁できた。実父に感謝しているのは唯一それだけだ」
「本当に幸いでしたね、日本の警察にとっても」

「ヨイショしても添い寝と腕枕以外、何も出んぞ?」
「分かってます、今から叩き落としますからご心配なく」
「そうか、では傾聴しよう」
「どうやら貴方はカミングアウトを派手に飾りたいらしい、それは何となく読めました。でも何だって僕が貴方の犠牲にされるんですか。迷惑防止条例違反でそれこそ現逮ものですよ?」

 本気の不機嫌を眉間に浮かべ煙草を捻り消すと、霧島は長身を折って頭を下げた。

「本当にすまない。正直、そこにいれば誰でも良かったんだ」
「うっわ、誰でもって……偶然の産物にしては酷すぎます。本っ当にやってくれましたよね。それで相手を選ばないほど焦る必要があるんですか?」
「ある。それはだな――」

 聞けば霧島カンパニー会長御曹司・霧島忍に見合い話が舞い込んだのだという。


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