Even[イーヴン]~楽園10~

志賀雅基

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第15話

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 五十八階建てのホテルの屋上はBELの停機場になっていた。
 風よけドームがあったが透明な素材で出来ており、思った通りの景色を拝むことができた。目も眩むほどの高さからは、そう遠くない所に果てしなく広がる碧い海が望めたのだ。

 ポケットから吸い殻パックを出すと煙草を咥えて火を点ける。BELが離発着するたびに風よけドームが開き、強い風が渦巻いては黒髪を乱して紫煙を攫った。

 ここの強風が嘘のように海は穏やかで波頭が恒星パライバの光を拾い眩く輝いている。くっきりとした水平線の丸みが美しい。幾隻かの船も見られた。
 反重力装置は水の直上だとパワーの大部分をロスするので、船に限ってはバッテリ式のモーターか化石燃料を燃やす内燃機関が動力源だ。

 六歳まで民間交易宙艦で過ごしたのちに家族全員を事故で亡くしたシドは、本星の田舎の施設で育ったために本物の海を間近で見たことがなかった。それでハイファがプランニングして数ヶ月前にここアジュルにプライヴェート旅行をしたのだ。

 プライヴェートで、七分署で、別室任務で、ハイファとの『初めて』と『経験』を日々積み重ねてゆく。それはハイファが言った通り、背を預けられる一生のバディを得られた喜びでもあり、同時にいつ失ってしまうかも知れない恐怖でもあった。

 宥められて『弱さ』については一応のところ納得した気はしていた。

 けれどやはり『本当の弱さ』を克服できた訳ではないとたびたび思い知らされる。

 自分と一緒にいれば必ず災厄が降りかかると分かっていて、この世で一番大切なものを渦中に巻き込むのを望む人間がいるだろうか。それが怖くて誰にも執着することをしなかった。強く意識していた訳ではないが本能的に避けていたといってもいい。

 それなのに手にしてしまった、その過去すら誰にも譲り渡したくない存在を。

 チェーンスモーク三本目を吸いながら海を眺めてシドは声を投げた。

「眠ってなかったのか?」
「探すのに苦労したよ。MCS支援でトレーサーシステム、使っちゃった」

 長い髪を拭き乱されながらハイファが肩を並べる。

「海を見てセンチメンタリズムに浸るのは、ちょっと遅すぎない?」
「まだ二十三の俺を捕まえて、失敬な」
「でも本当にどうしちゃったのサ。らしくないよ?」
「部屋、今日ばかりはツインにするべきだったぜ。お前の傍で寝るのがつらい」
「好きにすればいいじゃない」
「昨日の今日だぞ。本当にお前を壊しちまう」
「僕は簡単に壊れないって言ったでしょ。これでもミテクレよりはタフなつもりなんだけどね」
「そうかも知れねぇが……俺は苦しい」
「僕といるのが嫌なの?」

 訊かれてシドは曖昧に首を振る。

「いや、何処までもいつまでも一緒にいたい。けど俺は何でだかお前を目茶苦茶にしたくなる。で、時々思うんだ。いっそお前が単なるバディか躰だけの付き合いだったらこんな思いはせずに済んだ筈だってな。お前と愉しむだけだったダグラス=カーターがいっそ羨まし……痛っ!」

 咥えていた煙草が飛んで数秒が経ち、やっとシドは自分がハイファに平手で頬を張られたのだと気付いた。見上げるとハイファは蒼白な顔をしていた。

「手、見せてみろ。火傷しただろ」

 反射的にハイファが引っ込ませた右手を掴む。人差し指の第二関節付近に灰が付着し、皮膚が赤くなっていた。強引に引き寄せ、口づけて舐める。

「……離してよ」
「大事なトリガフィンガーだ」
「シド……貴方優しいけど時々すごく残酷だよね。自分以外の人間にも想いがあるって、その想いを護る力もあるんだって、考えたことないでしょ?」

 いつにない強さで若草色の瞳に宿る光に気圧されてシドは怯んだ。

「それは……すまん」
「また『すまん』って、それだけ? 許さないからね」

 そう言いながらもハイファは視線を和らげる。失くす怖さをさっさと超えてしまおうとするかの如く、自ら壊してしまいそうな予感に怯えて途方に暮れているバディをそっと抱き締めた。ハイファは本当にシドが己の何を以て『弱い』と言ったのか理解していた。

「残酷だけど、優しい。まだ自他未分化のクセして自己完結した子供みたい」
「そんなにくっつくなって。実際子供じゃねぇから困ってるんだからさ」
「許さないって言った筈。貴方を選んだ僕を最低の言い方で侮辱したんだからね」
「悪かった。目が覚めた」
「何処までも対等だって思い出した?」
「ああ、そうだったな。でも俺はまた同じ処に嵌るかも知れねぇぞ?」
「いいよ、そのたびに分からせてあげるから。じゃあ、部屋に戻ろ? こんな吹きっ晒しの所にずっといたら風邪引くよ」

 別室任務で他星系を飛び回っていたハイファは体に免疫チップを埋めているので風邪を引かない。だがシドはそうもいかず、条件反射のようにクシャミをする。

「ハ、ハックシュン! 鼻が……ずびび」
「全く、あーたは本当に大人なんですか? よく単独時代を生き抜いたよね」

 ハンカチを手渡しながらハイファは柳眉をひそめた。

「酒呑んで一晩寝れば大概……ックシュン!」

 頭を振ってハイファはシドの腕を掴みエレベーターに連れて行く。部屋に戻るとローブに着替えさせて煙草は取り上げ、ベッドに強制連行だ。自分も着替えると隣に潜り込んで愛し人を抱き締める。シドはもぞもぞと身動きした。

「……だからさ」
「言った筈。許さない、罰だよ。大人しく寝ること。お酒よりも暖かいでしょ」

 暖かすぎて色々と血の巡りが良くなりすぎているのにハイファも気付いてはいたが、表面上はともかくシリアスに腹を立てていたので黙殺した。

 お蔭で数時間のうちにシドは冷や汗か脂汗か分からない汁をびっしょりとかき、風邪は大事に至らず治ったが、目は真っ赤という状態でチェックアウトをするハメになった。
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