あなたがここにいてほしい~Barter.7~

志賀雅基

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第1話

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 席を立った京哉きょうやは右側に並んだ上司二人のデスクの背後に回り込んだ。窓外の雨はまだ止んでいない。

 晩秋にずれ込んだ秋雨前線はここ暫く断続的に冷たい雨を降らせている。銃を持ち歩く生活をしているため、もしものことを考えると手を塞いで視界も遮る傘など差す訳にもいかず、事ある毎に濡れるのは少々億劫でもあった。

 だからといってどうしようもない。それより目前の仕事だ。振り向くとデスクに就いた上司たちに鋭い目を向ける。上司その一の隊長はノートパソコンに向かってはいたが、画面上の文書ファイルはブラウザのオンライン麻雀(チンイツ二向聴リャンシャンテン)とダウンロード中らしい『一週間の献立レシピ集』に埋もれていた。

霧島きりしま警視、いい加減に仕事をして下さいっ!」

 その大声で上司その二の副隊長が驚いて目を覚まし、驚きすぎて跳ねた拍子に膝をデスクにぶつけ、デスク上に置いてあった飲みかけの茶を引っ繰り返す。それを冷たい目で見つつ腕組みして京哉は言い渡した。

「手伝いませんからね、小田切おだぎり警部。ご自分で処理して下さい」
「うわ、びちょびちょだよ。京哉くん、そう言わずに手伝ってくれよ」

 情けない声を出した小田切を横から眺めて霧島が鼻を鳴らす。

「ふん。鳴海なるみ巡査部長は貴様の世話係ではない」
「サボってたのは同じだろ、いきなり上司ぶらないでくれるかい」
「同じではない、少なくとも私は建設的作業に励んでいた」
「五十歩百歩だと思うけどなあ。あ、倍の違いなんて科白は古いぜ?」
「甘いですね。そういうのは『目クソ、鼻クソを嗤う』と言うんです。それよりお二人とも関係各所からの書類催促メールが八通という修羅場に遊んでないで、仕事仕事仕事! あああ、もう、僕は秘書であって代書屋じゃないんですからね!」

 放っておくと遊んでいるか寝ているかの上司たちを急き立て、京哉は自分のデスクに戻って妙に野暮ったく似合っていないメタルフレームの眼鏡を押し上げると、超速でノーパソのキィを叩き始めた。

 大体、今やっているのも上司たちに任せておいては到底間に合わない報告書類の代書である。秘書として上司をフォローせねばならない立場ではあるが、毎度これは頭が痛かった。
 巡査部長如きの自分が両方キャリアである警視や警部のふりして書類を作成・提出する罪悪感など、とっくに麻痺している。

 督促メールを寄越した先方も帳尻さえ合えばいいのか文句を言われたことはない。

 でも帳尻を合わせようと必死なのが自分だけなのは、おかしくないか?

 疑問と苛立ちに腹立ちを抱え、却って感情を抑えに抑えた挙げ句、ちょっと近寄り難いほどキリキリとした京哉の精神状態を察して、目クソ扱いされた上司もやっと仕事に取り掛かる。鼻クソ上司はしおしおと給湯室に雑巾を取りに立った。

 ここは首都圏下の県警本部庁舎二階にある機動捜査隊・通称機捜の詰め所だ。

 機捜隊員は普通の刑事と違い二十四時間交代という過酷な勤務体制で、通常は覆面パトカーで密行警邏し、殺しや強盗タタキに放火その他の凶悪事件が起こった際にいち早く駆けつけて初動捜査に従事するのが職務だ。ここでは三班に分かれローテーションで動いている。案件によっては呼集を掛けて二班体制に繰り上げることもあった。

 だが機捜隊長と副隊長に秘書の三人に限っては基本的に内勤が主で定時出勤・退庁する毎日だ。大事件でも起こらない限り土日祝日も休みである。そして本日は金曜日だ。週末だ。大事件も今のところ入らず、このままなら今晩から連休だ!

 などと京哉は騒ぐたちではない。プライヴェートタイムを削られたくないばかりに上司たちを急かしているのではなく、督促メールを送ってきた関係各所の担当者に悪いと思っているだけである。

 そんな律儀な鳴海京哉は二十四歳、非常勤のSATサット狙撃班員でもあった。スペシャル・アサルト・チームの狙撃班員になったのは県警本部長の指示であり、理由は京哉が元々スナイパーだったからだ。無論合法ではない。陥れられていたのである。

 警察学校で抜きんでた射撃の腕に目を付けられ、政府与党と重鎮と警察庁サッチョウ上層部の一部に、国内外にあまたの支社を持つ巨大総合商社の霧島カンパニーが結託し秘密裏に組織した暗殺肯定派なる輩たちに嵌められ、五年もの間、政敵や産業スパイを暗殺させられていたのだ。

 結局はスナイパー引退宣言をして京哉自身も殺されそうになり、そこに霧島が部下を率いて飛び込んできてくれて命を存えた。

 そのあと鳴海京哉が現役警察官にして暗殺スナイパーだった事実は警察の総力を以て隠蔽され、上層部の様々な秘密を知った京哉は同じく『知りすぎた男』である霧島が隊長を張る機捜に異動となり、現在に至っている。

 それでもあれから平穏な毎日を過ごせた訳ではなく、ある意味上層部とパイプのできた京哉は霧島とセットで様々な特別任務を下され、ここ数ヶ月間は怒涛の日々だった。
 それに強要されてやった暗殺とはいえ違法なスナイパーだった自分が撃ち砕いた人々の凄惨な顔を忘れはしない。一生背負ってゆく覚悟はできている。

 意識していなくても霧島曰く、京哉の心には彼らの墓標が立ち並んでいるのだそうだ。通常の人間ならあり得ないそれらが割り込むように立ったお蔭で京哉の心は少々壊れてしまっている。京哉自身も時折自覚する壊れ具合ではあるが、日常生活に支障をきたすほどではない。

 おそらく踏み止まっていられるのは、ひとえに霧島の存在だと思う。相棒バディであり、一生涯のパートナーである霧島が共に背負うと言ってくれたお蔭だ。
 ノーパソに向かいながらそんなことを思い出し、京哉は自分の左薬指に嵌ったプラチナの輝きを眺めて微笑んだ。そうしてお揃いのリングを嵌めた霧島を見上げる。

 視線に気付いた霧島が顔を上げ、灰色の目で京哉を見返した。

「どうした、鳴海。私の顔に何かついているのか?」
「あ、いえ。何でもありません」

 生みの母がハーフで印象的な瞳の持ち主である霧島しのぶは二十八歳だ。

 その若さで機捜隊長を拝命し、警視の階級にあるのは最難関の国家公務員総合職試験を突破したキャリアだからである。更には霧島カンパニー会長御曹司でもあった。
 あの一件で霧島カンパニーはメディアに叩かれ、株価が大暴落して一時は窮地に立たされた。だが何とか踏み止まって現在は株価も回復し却って上昇傾向にある。

 それ故に霧島は警察を辞めた日には本社社長の椅子が待っている将来有望な男なのだ。しかし本人は霧島カンパニーに戻る気がない。

 警察内でも本来キャリアが進むべき内務で出世一直線という道に興味を示さず、現場を強く希望して望みが叶った以上、その現場のノンキャリア組を背負うことを至上として警察を辞める気は欠片もなかった。

 そもそも目的のためなら手段を選ばない実父の霧島光緒みつお会長を毛嫌いしていて、裏での悪事の証拠さえ挙がれば逮捕も辞さないと明言して憚らない。今では京哉の方が霧島会長を御前と呼んで親しんでいる。
 霧島会長も息子の悪態はさておき、二人を見守ってくれていた。

 ともあれ霧島は中身の出来も良ければ見た目も見事で、切れ長の目が涼しく怜悧さすら感じさせる非常に端正な顔立ちをしていた。更には百九十センチ近い長身で鍛えられた躰は伊達ではなく、あらゆる武道の全国大会で何度も優勝を飾っている猛者でもある。
 眉目秀麗・文武両道を地でゆく、他人から見れば極めて恵まれた男だった。

 父親の霧島会長から無理難題を押し付けられ、急遽パーティーなどに出席せねばならないこともあるため、普段からオーダーメイドスーツに身を包んだ颯爽とした姿は当然ながら異性受けする。

 これ以上は望み得ない背景も手伝って『県警本部版・抱かれたい男ランキング』ではここ数期連続でトップを独走していた。
 京哉を助けた一件で機捜を勝手に動かしたことを咎められ、当時の県警本部長から懲戒処分まで食らったのだが、却って更なる有名人になってしまったほどだ。

 本来なら懲戒を食らうと以降の昇任の道が断たれるのために誰もが依願退職するものだが、霧島はその先まで見越して辞めなかった。
 本部長の交代や残る暗殺関係者の検挙など色々あった。だがそれはともかく停職中に京哉と密会しているのを某週刊誌にスクープされてしまい、全国的にも有名人になってしまったのである。

 しかし本人は何処吹く風の涼しい顔を変えない。本人を良く知る者は奇人・変人の類だと知っている。けれど婦警たちが寄ってくるのは仕方ない。極上物件だ。

 だがじつは霧島は女性がだめで、それ故に京哉はある程度安心していられるのだ。

 でもそれとは別に最近は違う意味で暢気にしていられなくなってきた。一ヶ月半ほど前に異動してきた小田切の存在を無視できないからである。

 その小田切は給湯室に雑巾を返しに行った帰り際、真っ直ぐ自分のデスクには戻らずに京哉の背後に立った。気配を察知し身構えた途端、京哉は小田切に眼鏡を外され奪われる。
 
 相手にするだけ無駄と知りつつも小田切の方から飽かず構ってくるのだ。
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