あなたがここにいてほしい~Barter.7~

志賀雅基

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第35話

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 どうしても霧島にも止められないまま、日が暮れるまでに京哉は更に二回注射されていた。
 濃度の高い溶液を短いインターバルで静注して、果たして本当に命の危険はないのかと霧島は自分も冷や汗を滲ませる。
 堪らない不安に呼吸すら速くなった。

 そして男らが都合五回目の注射に来ると、京哉は目覚めて自ら捲った腕を差し出す。

「素直になってきたじゃねぇか」
「お嬢さん、あとで目一杯遊んでやるからよ」

 そう言って坂下たちが嗤いながら出て行き、相変わらずのヘロイン中毒男六人だけになったのを見計らい、今しかないと決断した霧島は京哉に鋭く囁いた。

「京哉、しっかりしてくれ。逃げるぞ」
「しの、ぶさん……無理……貴方だけ、逃げて」

 ヘロイン摂取の初期症状真っ最中で、あらゆる不調も最悪レヴェルの京哉はソファの下に力なく座り込んでしまっている。自力でソファに座ることすらできないのだ。その手を取ろうと立ち上がった霧島までが酷い吐き気と眩暈を起こした。

 イレギュラーな動きを見せた霧島に対して男の一人が反射的に発砲する。幸い外れたそれを合図に霧島も銃を抜いた。だが視界に幻惑斑がちらつく。部屋ごと回転しているかのような眩暈に苛まれながら、まともに照準できなくとも外しようがない窓に銃口を向けて連射した。

 速射で三発、九ミリパラがカーテンを引き裂き、窓を叩き割る。それらの何もかもがスローモーションの如く見えた。

「京哉、こっちだ……来い!」
「だめ……無理……貴方、だけでも……待ってる、から」
「お前を置いて行けるか!」

 銃口を男たちに向けながら祈る思いで左手を差し伸べたが、ソファの前のロウテーブルに遮られて京哉に届かない。そんな霧島も立っているのが精一杯の状態だ。

 ふいに左耳がカッと熱くなった。遅れて銃声を聞く。更に左腕に角材でぶん殴られたような衝撃を食らった。被弾したと知ったが血を噴き出させながら一歩も退かず耐える。
 しかし男たちは完全にヘロインで出来上がっていた。ここでこれ以上の抵抗をしてもられるだけと悟る。

 けれど京哉を置いていけば、間違いなくその身はヘロインに汚染された上で男たちに食らい尽くされるだろう。それでも打開策はたったひとつしかない。

「いい、から……お願い、です……忍さん、待ってる」

 弱々しい囁き声に霧島は心がちぎれるような思いで歯軋りしつつも行動に移った。

「京哉、待っていろ……すまん!」

 窓に体当たりするように霧島は窓外に飛び出した。躰を丸めて段差を越え、跳ね起きるなり地を蹴る。背後の銃声に振り向きざま、勘に頼ってダブルタップを放った。

 ヘロインの作用で視界が引き歪み滲んだまま、夜の芝生を全速で走る。

 急に足が宙を蹴って息を呑んだ。次には水中に投げ出される。プールだと思い至って立てば水位は胸の辺りだった。視界の異常は続いていたがプールのお蔭で位置関係が掴めた。手探りでプールサイドを探り当て、響く撃発音を聞きつつ思い切って水から上がる。

 右に二十メートルも行けば道路に出る筈だが、そんな所に突っ立っている訳にはいかない。今は身を低くして屋敷の敷地を囲む木々の生け垣を目指した。あの茂みに入ってしまえば殆ど明かりがない。敵がきても勘の勝負に持ち込める。

 複数の銃声が交差していたが銃弾は飛んでこない。ふと音で気付いた。あんな状態の京哉が撃って援護しているのだ。霧島は歯を食い縛って茂みに転がり込む――。

◇◇◇◇

 一方、霧島の気配が消えて誤射の心配がなくなったのを知った京哉は、座り込んだまま銃を引き抜くなり発砲していた。弾丸が何処に飛んだかなど分からない。
 ただ男たちを混乱させて霧島が逃げきれるよう祈りながらトリガを引き続けた。

 やがて室内での撃発音が途絶えると座り込んだままの頭上から声が降ってきた。

「おいおい、物騒なお嬢さんだな。それに何だ、そのハジキはよ?」

 笑いながら坂下が京哉から十六発全弾撃ち尽くしてホールドオープンした銃を取り上げる。そしてまた京哉の腕を捲って本木が注射した。
 だが今に限って気分の悪さは訪れず、安堵しているうちにふいに躰が軽くなる。妙に心が温かく、柔らかな幸せに包まれた。

「へえ、もうこいつに慣れたみたいだな。えらく早くねぇか?」
「盛大にぶち込んだし、体質かもな。まあ、こちら側の世界にようこそって訳だ」

 心は不思議な幸せに浸っていたが、元刑事課の京哉にはヘロインの作用だと分かっている。男たちの言うように躰が慣れるのが異様に早かったのは想定外で臍を噛む思いだった。やはり濃度やインターバルの問題か、自分の体質か。

 何れにせよ柔らかな多幸感で済んでいる間はまだマシで、次にやってくるのは激しく制御不能なまでの歓喜である。それを伴って弄ばれたらと思うと心が硬直した。
 ともあれ窓が割れて煙も薄らいだ室内に霧島の姿がなく安心半分、まるで焦りを見せない男たちの様子に霧島が捕まったのかという不安が半分でストレートに訊く。

「忍さん……忍さんは?」
「さあなあ。けどまあ、こっちにはあんたがいる。三億持って来させるさ」

 立たされ支えられたまま、引きずられるようにしてサロンを出た。さほど照度も高くない廊下の明かりが目に痛い。肩で息をしながら中央の大階段を上らされる。まだ絶不調の残滓を引きずっていて、躰は軋み疲れ切っていた。

 つれ込まれたのは二階の元は執務室だったと思しき部屋だ。重厚なデスクが鎮座しているが埃だらけである。辛うじて埃の払われた三人掛けソファに座らされ正直ホッとした。両側に腰掛けた坂下と本木がガラスパイプでヘロインを吸い始めてもだ。

 坂下が自分のパイプを京哉に突きつける。無言で押しつけられた煙草ほどの大きさのそれを京哉は吸うしかない。他に五人もの男たちがいて下卑た嗤いを浮かべながら京哉に銃口を向けているのだ。こんな所で穴だらけの血塗れになりたくはない。

 待ってると言った以上は何があろうと待つ。

 そう思いながらも京哉自身が何もかも、どうでもいいような気がし始めていた。吸っていたパイプを取り上げられて坂下に口づけられる。舌を思い切り吸われた。

「んんっ……んっ、あっ、はぁん」
「おおっ、効いてるな。そこらの女より色っぽいぜ」

 同調して男たちが嗤う。一瞬、撃ち殺してやりたい思いに駆られたがロウテーブル上の銃は全弾撃ち尽くしていた。無茶はできない、待ってると言ったのだから――。
 たびたび思い出しては夢の中で考えているような感覚で、次には目覚めたように忘れている。繰り返す間に京哉の思考と躰はヘロインへのハードルを下げてゆく。

 戻されたパイプを吸っていると男たちが酒とコンビニで買ってきたと思しき食事をロウテーブルに並べ始めた。吸い終えたパイプを灰皿に置くと、坂下にブランデーを口移しで流し込まれる。完全に気分の悪さは治まり食事も抵抗なく口に運んだ。

 気が付くとパイプを吸っている自分がいたがそれがどうしたという気分だった。

 だが食事が終わって腕を捲られ注射されると、いい加減に過剰摂取で死なないものかと冷静に思う。しかしそんなまともな思考は長く続かない。

 自分でも危惧していた、先程とは桁違いの強烈な多幸感が押し寄せたのだ。
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