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第36話

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「それはそうと、ここが長いのを見込んで訊きたいんだが、こいつ」

 と、シドはハイファを指差した。

「これで採掘場に行っても大丈夫ですかね?」

 訊かれてマルチェロ医師はまじまじとハイファを眺める。

「うーん、どうだかな……王族か」
「目の色は偽装させたし髪の色は元から違うんですが、やっぱり分かりますか?」
「俺たちはメディアで見慣れてるから分かるが、採掘場の人間たちはTVなんて常日頃から視ている訳じゃねえ。だから気付く奴がいるかどうかは俺にもちょっとな」

 そう、無精ヒゲを一本引き抜きながら答えた。

「しかしそんな博打を打つ必要があるのかい?」
「ええ、まあ、本人はその気みたいで」
「ふーん。それじゃあ珍しい客人にヒマな俺も同行するとしますかねえ。これでも一応、ここらで唯一の医者なんで、ちょいとした顔なんだ」

 善を気取りたくないという風な言い方にシドとハイファは軽く頭を下げた。

「ところでお前さんたち、飯は食ったのか?」
「ええと、四時間くらい前ですね」
「あの秘書殿が起きてくるまで何もやるこたないんだろうが。なら俺は食堂行くんだが付き合うかい?」
「あ、出かける前の腹ごしらえに是非」

 大概、食い物を勧められて断らないシドが気軽に言ったのは良かったが、高度文明圏の申し子二人はここでカルチャーショックを受けるとは思ってもみなかった。

「あのう、マルチェロ先生。この、お皿から逃げだそうとしている殻付きの物体は、もしかして蝸牛かぎゅう……平たく言えばカタツムリってヤツじゃないでしょうか?」
「それとこの、やっぱり逃げだそうとしているイモムシはテラ本星でおかずに分類してる奴がいたら俺は違法と見做して逮捕か、病院にぶち込むと思うんですがね」

 結局、シドたちはパンに一部の火の通ったおかずを挟んで食べ――それでもかなり根性が要ったが――動くモノはマルチェロ医師の腹に全て収まった。

 八年もいれば慣れるのか、慣れたから八年もいるのか、はたまたこれが止められなくてこうしているのかは分からないが、とにかくここに長居すると要らぬダイエットができそうな予感がして、早々に用を済ませて帰りたくなった二人であった。

 食後の煙草を屋上で吸いながら、シドは周囲を見渡した。

 この施設の周囲は鬱蒼とした森になっている。テラ本星赤道付近の如きこの星の酸素供給を一手に賄うような地平線まで続く緑の絨毯だった。
 何処にも民家や採掘場は見えない。BELでも視察はかなり掛かるだろう。
 ただ、緑したたる光景を眺めながら湿気の多い地での煙草は旨かった。生ぬるい風が長めの黒髪を乱す。さすがに帽子は宙艦に置いてきた。
 ここの陽射しは穏やかだ。

「お前さ、いったい何しに来たんだよ」

 背後に立ったバディにシドは紫煙を吐き出しながら訊く。

「どうしてもこの目で確かめたいことがあってね」
「ふうん。それっていつから思ってたんだ?」
「もしかしてって思ったのは別室命令を読んだ時。まさかと思ってたことを本気で確かめたくなったのはお通夜の日。確信したのは別室資料でセフェロを学習したとき」

 聴いてシドは何となく納得した。

「そんなに前から、ずっと独りで考え込んでたんだな」
「うん、黙っててごめん……一本くれる?」
「別に構わねぇが、お前が吸いたがるとは珍しいな。……そうか、お前、ずっとウダウダ悩んでたもんな。どんな目が出るにしろ、お前の疑問がここで解ければいいな」

 シドは本当に訊きたいのを我慢している訳ではなかった。自分はもうハイファと共にあると納得している。あとはハイファが納得できればいい、それだけだった。

「僕の悩み、訊いてくれないの?」
「訊いて欲しけりゃとっくに言ってるだろ。それに一緒にいれば解かる。訊かなくたってタネあかしはあと少しだ」
「……貴方も悩ませて苦しめてるのに?」
「悩んでも苦しんでもいねぇよ。何も迷ってねぇもん」
「そっか、そうだったね。僕を自由にさせてくれて……ううん、火ぃ貰うね」

 オイルライターで火を点ける前にハイファはシドの煙草から貰い火をする。
 スパイ稼業で過去に喫煙者を演じたこともあったというハイファの吸い方は、見慣れない違和感があるものの意外に堂々としていた。
 それでもシドは苦笑いだ。

「お前ハイファ、煙草似合わねぇな」
「知ってるよ。でもいいじゃない、たまにはサ」
「そういう気分なら、煙草よりこっちがいいだろ」

 点けたばかりでまだ長い煙草を取り上げ、自分の分も吸い殻パックに突っ込んで対衝撃ジャケットのポケットに収めたシドはハイファに口づける。
 片手でハイファの後頭部を、片手で細い腰を引き寄せた。最初は優しく、軽く開いた歯列から奧までを徐々に激しく舐め回し、舌を絡めて翻弄する。

「んんぅ……んっ……ぅうん!」

 甘いハイファの鼻に掛かった喘ぎを聞きつつ緩やかに唇を滑らせ、頬を伝い耳許まで舌を這わせた。柔らかな耳朶を甘噛みし首筋についばむようなキスを降らせる。

 片手でドレスシャツのボタンをふたつ外し、ペンダントの鎖が載った鎖骨の上に唇を押し当て、強く吸い上げた。シドは白く滑らかな肌に自分の証しをひとつ、ふたつと、くっきり赤く刻み込む。甘い痛みにハイファの声がトーンを上げた。

「んっ……はぁん、だめ……ああん!」
「――っと、悪いがここまでだ、社長さん。あとは帰ってから、な」

 愛し人の肩にしがみついて頽れそうな我が身を支えていたハイファは屋上に上がってくる人の気配を厭わしく思う。自由にさせてくれるシドに壊されたい気分だった。

 一方のシドはボタンを留めてやりながら、これから見に行く何かがハイファの想像通りでなければいいと願っていた。『どんな目が出るにしろ』答えを得たら着地点も見つかるだろうと暗に伝えながらも、それを知ることがハイファにとってどれだけつらいのかシドも既に悟っている。

 あんなに、体調を崩すほど怖がっていたのだ。

 頼むからハイファがここで何かを見つけてしまわぬように。
 何も見つからず納得できれば……と、それでは任務がいつまで経っても終わらず二人の着地点も見つからないまま、二人にとって無為に時ばかりが過ぎてゆくだけなのに、そんな矛盾を抱えたまま祈るような思いでいた。
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