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第2話

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「何笑ってんだよ?」
「ううん、何でもないよ」
「ふん、このスパイが」
「そこでスパイは関係ないでしょ、八つ当たりしないでよね」

 シドは三人分の紙コップを始末するハイファを見つめた。
 このバディの本名はハイファス=ファサルートという。

 背は低くないものの躰はごく細く薄い。上品なドレスシャツとソフトスーツを身に着けている。タイは締めていない。明るい金髪にシャギーを入れ、後ろ髪だけ伸ばしてうなじの辺りで束ね、銀の留め金でしっぽにしていた。しっぽの先は腰近くまで届いている。瞳は優しげな若草色だ。

 だが女性と見紛うほどなよやかな外見にそぐわず、現役テラ連邦軍人でもあった。約一年半前から惑星警察に刑事として出向中の身の上なのだ。軍での所属は中央情報局第二部別室という一般人には名称すら殆ど知られていない部署である。

 中央情報局第二部別室、その存在を知る者は単に別室と呼ぶ。

 AD世紀から三千年という宇宙時代の現在、テラ人は汎銀河中で暮らしていた。それらテラ系星系を統括しているのがテラ連邦議会で、別室はテラ連邦議会を裏から支える陰の存在だった。
 曰く、『巨大テラ連邦の利のために』を合い言葉に、目的を達するためなら喩え非合法イリーガルな手段であってもためらいなく執る超法規的スパイの実働部隊である。

 そんなところでハイファが何をしていたかといえば、やはりスパイだった。
 宇宙を駆け巡るスパイだったハイファは、ノンバイナリー寄りのメンタルとバイである身、それにミテクレとをフルに利用し敵をタラしては情報を分捕るという、なかなかにえげつない手法ながらも、まさに躰を張って任務をこなしていたのだ。

 煙草を消して立ち上がったシドがリモータを見る。現在時、十時十八分。

「そろそろ下に戻るか。行くぞ、スパイ野郎」
「だから大声で言わないでってば」

 自分の軍籍は極秘事項だ。長机に沈没している男たちの耳目を気にしてハイファがシドを睨む。睨まれてもシドは何処吹く風で立ち上がりオートドアから廊下に出た。
 ここは捜一、捜査一課のある五階だ。捜査チームが詰めていたのは小会議室、略取誘拐という事件の特殊性故に帳場と呼ばれる捜査本部は立てられず、隠密捜査のチームを立ち上げてから六日目の今日にして、やっと組み込まれた捜査員は解放されたのである。

 エレベーターは使わずシドは階段を降りてゆく。
 肩を並べたハイファが小声で文句を垂れた。

「いちいちスパイ呼ばわりはやめてよね」
「スパイはスパイだろうが」
「スパイはもう辞めたもんね、今は貴方のバディです。貴方だって僕がスパイよりバディの方がいいでしょ、それともまた単独に戻りたいの?」
「いや――」

 中級課程でスキップし、僅か十六歳にして広域惑星警察大学校・通称ポリスアカデミーに入校したシドは、四年修めれば箔と階級が洩れなく付いてくるのを蹴飛ばして二年で任官した。その主な理由が、日々ストライクするイヴェント群に辟易し、『警察を呼ぶより自分が警官になった方が早い』というモノである。

 だが任官しても道は平坦ではなかった。AD世紀からの倣いである『刑事は二人で一組』というバディシステムの恩恵にすら与れず、ずっと単独捜査を余儀なくされたのである。
 勿論、最初は何度もバディがついた。しかしあまりにクリティカルなシドの日常に誰もが一週間と保たず、五体満足では還ってこられなかったのだ。

 病院送りになった彼らも現代医療のお蔭で生還・完全再生はした。だがそんな有様を見てなおシドと組みたがる命まで張る博打好きも、気合いの入ったマゾもいなかった。

 そこで約一年半前にやってきたのが元々親友のハイファだったのである。

「お前が気合いの入ったマゾ、いや、ミテクレよりタフな奴で助かったぜ」
「本当にそう思ってるんですか、あーたは」
「思ってるって。でもあんな目に遭って戻ってくるとは思わなかったからな」
「まあ、僕もこうなるとは思ってなかったからねえ」
「だよなあ――」

 スパイだったハイファにとっても転機が訪れたのは、やはり約一年半前だった。
 別室任務で、とある事件を追うためにハイファは刑事のフリをして、七年来の親友であり想い人でもあったシドと初めて組んだのだ。

 捜査の甲斐ありホシは当局が拘束した。だがそれで終わりにはならなかった。ホシの雇った暗殺者に二人は狙われたのだ。暗殺者の手にしたビームライフルの照準はシドに合わされていた。しかしビームの一撃を食らったのはハイファだった。シドを庇ったのだ。

 かくしてシドのバディは一週間と保たないというジンクス通りにハイファは一旦死体同様になった。だが奇跡的に助かり病院のベッドで目覚めたハイファを待ち受けていたのが、シドの一世一代の告白という嬉しいサプライズだったのである。
 失くしそうになってみて、シドは初めて失いたくない存在に気付いたのだ。そして言ったのだった、

『この俺をやる』と。

 一生片想いを覚悟していたハイファは天にも昇る気持ちだった。
 だがその影響が思わぬ処にまで波及したのだ。
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