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第46話
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「さあ、入って頂戴。少し遅いけれどお茶にしましょう」
ソファに腰掛けた京哉は戸惑った。他のガードは何処かに消えてしまい、自分一人だけ残されたと思えば、花梨が案内したのはベッドまである私室だったのだ。
更にソファで寛ぐよう促された次にはティータイムである。想定外にしても方向性が違い過ぎた。
「わたし、紅茶を淹れるのは得意なのよ」
「って、僕はお嬢様のガードなんですけど……」
「ねえ、お願い。貴方はお嬢様なんて呼ばないで。それとも命令されたい?」
薄い色の瞳に淋しさがよぎり、気付いた京哉は反射的に柔らかく微笑みかけた。
「あ、じゃあ花梨、お茶をご馳走して貰えますか?」
途端に花梨はパッと顔を明るくして、サイドボードから茶器を取り出し始める。
ソファに囲まれたロウテーブルに並べられる茶器類は本人がこだわるだけあって本格的なものだった。水牛の蹄を削った茶さじに銀のストレーナー、ウェッジウッドのポットとカップに手作りらしいティーコゼー。
御前と呼んで親しんでいる霧島カンパニー会長にして霧島の実父から色々と教わったので、一見して京哉にも立派な品だと分かった。
「午後二時から三時間はいつも家庭教師が来るの。それ以外は自由だから」
「学校はまだ夏休み?」
「ううん。高校生だけど、わたし登校拒否してるから」
「そっか……」
「ヤクザの娘だし仕方ないわ。でも来年には大学だから、ちょっと愉しみ」
さも同情しているように頷きながらも、もしや家庭教師が来る三時間以外ずっと付き合うハメになるのかと思って京哉は内心げんなりした。この年頃の女性のご機嫌を取るのは簡単だが、ご機嫌を維持し続けるのは難儀だよなあと考える。
だが始めた以上は投げ出せない。表面的な微笑みは絶やさなかった。
「鳴海さん、学校は?」
「京哉でいいですよ。学校は普通に行ったけれど、高校までですね」
高校二年の冬に犯罪被害者として母を亡くし、天涯孤独の身となり警察学校を受験したのだ。あの頃は確かに淋しかったし、経済的に大学受験も諦めるしかなかった。
しかし今になってみると当時ほど自分が自由だった時期はなかったように思う。誰からも何にも干渉されず自分で勝手に決めた通りに生きていた。のちに母の事件で知り合った刑事たちに憧れて警察官への道に進んだ訳だが、お蔭で首輪をつけられ暗殺者になってしまった。
その延長線上でかけがえのないパートナーまで得てしまい、今度は自ら愛情に縛られたいばかりに日々足掻く不自由さだ。
絶対に失くしたくない者を得ると同時に弱点も抱えた気がした頃もあった。けれど絶対に失くさないと決めたからこそ強くなれたと実感していた今日この頃である。
五年間の暗殺強要で壊れかけた心も霧島の傍で癒されてきた。そこまで寄り添ってくれる霧島の背を預かり命をも預かって護る。
だから強くなれたのだと……。
ところが最近は絶対に失くしたくないばかりに縋りつき、振り回されてばかりの気がした。それこそ機嫌を窺って余計なことばかり言ってしまっている気もする。
だが再び選択権を与えられても自分は必ず同じ道を往く。霧島に出会うために。
思いに耽っていると花梨の高い声で現実に引き戻された。
「ごめんなさい。ガードの京哉さんにこんなこと訊くのは良くないのよね、確か」
上の空だとは露とも思わせない態度で京哉は微笑んだまま花梨に接する。
「少しくらいは構わないですよ。じゃないと話題にも困っちゃいますし」
「そんな風に言って貰えると嬉しいわ。でも貴方たちって変わってるわね」
「僕と……御坂さんも?」
「ええ。今までのガードの人たちと雰囲気が違うわ。何を言っても『お嬢様』だったし。たぶんお父さまが怖いのね。その点、貴方は合格よ」
「嬉しいですけど組長さんには内緒ですよ?」
「大丈夫よ、怖くなんかないから。わたしには滅多にお父さまは口出ししないもの。わたしのことで怒ったりなんかしないわ」
朗らかに笑っていたかと思うと花梨はふいに声を落とした。
「けど御坂さんは……少し怖いかも」
「あんなところを見たからじゃないですか?」
「そうかも知れない。でもあの人、全然笑わないんだもの。御坂さんと京哉さんは男の人でも吃驚するくらい綺麗でしょう? だからかしら、余計に冷たく見えて」
ロウテーブル上、京哉の前に紅茶のカップをソーサー付きで配置する花梨は霧島の仏頂面が余程お気に召さないようだ。紅茶を振る舞ってくれた花梨に微笑んだまま会釈して、京哉はカップを持ち上げると香りを愉しむ。
嗅覚が異常に鋭いため困ることすらある京哉だが、爽やかなブレンドティーの香気にホッとした。
「あ、美味しい紅茶ですね。御坂さんも笑いますよ。きっと驚きます、素敵だから」
「茶葉、とっておきを使っちゃった。仲がいいのね、京哉さんと御坂さんって」
「まだ出会って七、八ヶ月ですけどね」
「羨ましいわ、京哉さんと半年以上も一緒にいるなんて」
「僕らはバディシステムって呼ぶんですけどツーマンセル、二人一組で――」
このくらいは構わないだろうと思い、言いかけた京哉は自分たち二人のバディシステムが今は存在しない事実に気付いて慄然とする。
喧嘩した事実を失念するほど間抜けていないが、花梨の想定外の行動に対処しているうちに、灰色の目の冷たい視線とダメ押しされた衝撃も、ある程度は薄まるくらいの諍いに思えていたのだ。
あのときの霧島の怒りは怖かったが、霧島忍という男が怖いのではなく、あくまで京哉は失くすのが怖い。
『一生、一緒に同じものを見てゆく』と誓い合った。『重たい荷物は半分背負ってやる』と言ってくれた。自らの言葉を霧島は違えたりしない。
それは京哉の中で信じるか否かという次元ではなく、生きるために意識せず呼吸しているのと同じくらいの大前提で、互いの愛情と信頼が絶対的なものとして存在している。
振り回されていると感じるのも、鳴海京哉という人間の構成要素から霧島忍の存在を外せなくなっているからこそだと思っていた。
逆に霧島忍の中でも京哉は外せない存在になっていて、きっと霧島も京哉に振り回されていると感じていることだろう。そこまで意識するほど二人は繋がっている。
故に京哉は『信じるな』などと霧島から命令口調で言われても、喧嘩の勢いで出た言葉に意味なんかなく、何があっても互いに信じ合っていることを疑わなかった。
大体、四六時中ずっと一緒にいるのだから、これまでだって喧嘩や見解の相違から諍いくらい数えきれないほど起こしてきたのだ。
その度に二人で乗り越えてきて経験値も上がったつもりでいた。
それが初めてこうして物理的に引き離され相手の状況すら掴めない状態に陥ってみて、不安と恐怖が入り交じり息苦しいくらい増大して京哉の心を侵食しつつある。
何故なら今の霧島には背を護る自分というバディがいないのだ。単独で一番危険な位置にいる。こんな事態に陥ったのは自分の不用意な発言のせいだった。
背を護り合うバディとして二人一緒に潜入する。そう言い張った霧島は京哉のバディとして己を貫きバックアップ役を返上したのに、いったい自分は何をやっているのかと頭を抱えたくなる。結果として互いに『勝手にする』と言い放ち、霧島は『誰と寝ようが』と嫌味まで付け加える始末だ。
元々京哉の目論見では本部長計画通りに霧島はバックアップで、こんな所にいる筈ではなかった。霧島は何をしようが何処にいようがド真ん中に立つタイプに嵌っているのは重々承知だが、これで霧島の身に何か降り掛かったら後悔してもしきれない。
最初に小田切案件に首を突っ込む提案をしたのは京哉自身だが、どうしてこうなったのか。自分はただこの案件をさっさと過去にしてしまいたかっただけなのに。
バラ園で霧島に言いかけたのはそれだった。京哉が小田切の案件に首を突っ込んだのは、今頃になって浮上した霧島の過去の人でもある結城友則という存在を本当に過去にしてしまいたかった、ただそれだけのことだったのだ。
何れにせよ既に潜入してしまった以上は今更仕方ない。だが霧島の身を案じていると、信じて疑わなかった筈のものにすら不安と恐怖がまとわりつく。
あのとき霧島の言った『勝手にする、好きにしろ』はこの任務が終わるまでという解釈でいいのだろうか。それともバディシステムは崩壊してしまったのか?
ならパートナーとしての二人の関係はいったい……?
ソファに腰掛けた京哉は戸惑った。他のガードは何処かに消えてしまい、自分一人だけ残されたと思えば、花梨が案内したのはベッドまである私室だったのだ。
更にソファで寛ぐよう促された次にはティータイムである。想定外にしても方向性が違い過ぎた。
「わたし、紅茶を淹れるのは得意なのよ」
「って、僕はお嬢様のガードなんですけど……」
「ねえ、お願い。貴方はお嬢様なんて呼ばないで。それとも命令されたい?」
薄い色の瞳に淋しさがよぎり、気付いた京哉は反射的に柔らかく微笑みかけた。
「あ、じゃあ花梨、お茶をご馳走して貰えますか?」
途端に花梨はパッと顔を明るくして、サイドボードから茶器を取り出し始める。
ソファに囲まれたロウテーブルに並べられる茶器類は本人がこだわるだけあって本格的なものだった。水牛の蹄を削った茶さじに銀のストレーナー、ウェッジウッドのポットとカップに手作りらしいティーコゼー。
御前と呼んで親しんでいる霧島カンパニー会長にして霧島の実父から色々と教わったので、一見して京哉にも立派な品だと分かった。
「午後二時から三時間はいつも家庭教師が来るの。それ以外は自由だから」
「学校はまだ夏休み?」
「ううん。高校生だけど、わたし登校拒否してるから」
「そっか……」
「ヤクザの娘だし仕方ないわ。でも来年には大学だから、ちょっと愉しみ」
さも同情しているように頷きながらも、もしや家庭教師が来る三時間以外ずっと付き合うハメになるのかと思って京哉は内心げんなりした。この年頃の女性のご機嫌を取るのは簡単だが、ご機嫌を維持し続けるのは難儀だよなあと考える。
だが始めた以上は投げ出せない。表面的な微笑みは絶やさなかった。
「鳴海さん、学校は?」
「京哉でいいですよ。学校は普通に行ったけれど、高校までですね」
高校二年の冬に犯罪被害者として母を亡くし、天涯孤独の身となり警察学校を受験したのだ。あの頃は確かに淋しかったし、経済的に大学受験も諦めるしかなかった。
しかし今になってみると当時ほど自分が自由だった時期はなかったように思う。誰からも何にも干渉されず自分で勝手に決めた通りに生きていた。のちに母の事件で知り合った刑事たちに憧れて警察官への道に進んだ訳だが、お蔭で首輪をつけられ暗殺者になってしまった。
その延長線上でかけがえのないパートナーまで得てしまい、今度は自ら愛情に縛られたいばかりに日々足掻く不自由さだ。
絶対に失くしたくない者を得ると同時に弱点も抱えた気がした頃もあった。けれど絶対に失くさないと決めたからこそ強くなれたと実感していた今日この頃である。
五年間の暗殺強要で壊れかけた心も霧島の傍で癒されてきた。そこまで寄り添ってくれる霧島の背を預かり命をも預かって護る。
だから強くなれたのだと……。
ところが最近は絶対に失くしたくないばかりに縋りつき、振り回されてばかりの気がした。それこそ機嫌を窺って余計なことばかり言ってしまっている気もする。
だが再び選択権を与えられても自分は必ず同じ道を往く。霧島に出会うために。
思いに耽っていると花梨の高い声で現実に引き戻された。
「ごめんなさい。ガードの京哉さんにこんなこと訊くのは良くないのよね、確か」
上の空だとは露とも思わせない態度で京哉は微笑んだまま花梨に接する。
「少しくらいは構わないですよ。じゃないと話題にも困っちゃいますし」
「そんな風に言って貰えると嬉しいわ。でも貴方たちって変わってるわね」
「僕と……御坂さんも?」
「ええ。今までのガードの人たちと雰囲気が違うわ。何を言っても『お嬢様』だったし。たぶんお父さまが怖いのね。その点、貴方は合格よ」
「嬉しいですけど組長さんには内緒ですよ?」
「大丈夫よ、怖くなんかないから。わたしには滅多にお父さまは口出ししないもの。わたしのことで怒ったりなんかしないわ」
朗らかに笑っていたかと思うと花梨はふいに声を落とした。
「けど御坂さんは……少し怖いかも」
「あんなところを見たからじゃないですか?」
「そうかも知れない。でもあの人、全然笑わないんだもの。御坂さんと京哉さんは男の人でも吃驚するくらい綺麗でしょう? だからかしら、余計に冷たく見えて」
ロウテーブル上、京哉の前に紅茶のカップをソーサー付きで配置する花梨は霧島の仏頂面が余程お気に召さないようだ。紅茶を振る舞ってくれた花梨に微笑んだまま会釈して、京哉はカップを持ち上げると香りを愉しむ。
嗅覚が異常に鋭いため困ることすらある京哉だが、爽やかなブレンドティーの香気にホッとした。
「あ、美味しい紅茶ですね。御坂さんも笑いますよ。きっと驚きます、素敵だから」
「茶葉、とっておきを使っちゃった。仲がいいのね、京哉さんと御坂さんって」
「まだ出会って七、八ヶ月ですけどね」
「羨ましいわ、京哉さんと半年以上も一緒にいるなんて」
「僕らはバディシステムって呼ぶんですけどツーマンセル、二人一組で――」
このくらいは構わないだろうと思い、言いかけた京哉は自分たち二人のバディシステムが今は存在しない事実に気付いて慄然とする。
喧嘩した事実を失念するほど間抜けていないが、花梨の想定外の行動に対処しているうちに、灰色の目の冷たい視線とダメ押しされた衝撃も、ある程度は薄まるくらいの諍いに思えていたのだ。
あのときの霧島の怒りは怖かったが、霧島忍という男が怖いのではなく、あくまで京哉は失くすのが怖い。
『一生、一緒に同じものを見てゆく』と誓い合った。『重たい荷物は半分背負ってやる』と言ってくれた。自らの言葉を霧島は違えたりしない。
それは京哉の中で信じるか否かという次元ではなく、生きるために意識せず呼吸しているのと同じくらいの大前提で、互いの愛情と信頼が絶対的なものとして存在している。
振り回されていると感じるのも、鳴海京哉という人間の構成要素から霧島忍の存在を外せなくなっているからこそだと思っていた。
逆に霧島忍の中でも京哉は外せない存在になっていて、きっと霧島も京哉に振り回されていると感じていることだろう。そこまで意識するほど二人は繋がっている。
故に京哉は『信じるな』などと霧島から命令口調で言われても、喧嘩の勢いで出た言葉に意味なんかなく、何があっても互いに信じ合っていることを疑わなかった。
大体、四六時中ずっと一緒にいるのだから、これまでだって喧嘩や見解の相違から諍いくらい数えきれないほど起こしてきたのだ。
その度に二人で乗り越えてきて経験値も上がったつもりでいた。
それが初めてこうして物理的に引き離され相手の状況すら掴めない状態に陥ってみて、不安と恐怖が入り交じり息苦しいくらい増大して京哉の心を侵食しつつある。
何故なら今の霧島には背を護る自分というバディがいないのだ。単独で一番危険な位置にいる。こんな事態に陥ったのは自分の不用意な発言のせいだった。
背を護り合うバディとして二人一緒に潜入する。そう言い張った霧島は京哉のバディとして己を貫きバックアップ役を返上したのに、いったい自分は何をやっているのかと頭を抱えたくなる。結果として互いに『勝手にする』と言い放ち、霧島は『誰と寝ようが』と嫌味まで付け加える始末だ。
元々京哉の目論見では本部長計画通りに霧島はバックアップで、こんな所にいる筈ではなかった。霧島は何をしようが何処にいようがド真ん中に立つタイプに嵌っているのは重々承知だが、これで霧島の身に何か降り掛かったら後悔してもしきれない。
最初に小田切案件に首を突っ込む提案をしたのは京哉自身だが、どうしてこうなったのか。自分はただこの案件をさっさと過去にしてしまいたかっただけなのに。
バラ園で霧島に言いかけたのはそれだった。京哉が小田切の案件に首を突っ込んだのは、今頃になって浮上した霧島の過去の人でもある結城友則という存在を本当に過去にしてしまいたかった、ただそれだけのことだったのだ。
何れにせよ既に潜入してしまった以上は今更仕方ない。だが霧島の身を案じていると、信じて疑わなかった筈のものにすら不安と恐怖がまとわりつく。
あのとき霧島の言った『勝手にする、好きにしろ』はこの任務が終わるまでという解釈でいいのだろうか。それともバディシステムは崩壊してしまったのか?
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