C-PTSD~Barter.3~

志賀雅基

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第39話

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「これ、どうしても剥がれないんだけど、何とかならないかしら?」
「わあ、せっかくのダイヤモンドコーティング・七千九百八十円のフライパンが!」

 惨事はそれだけで済まなかった。

 鍋では味噌を一パック入れたドロリとした液体が沈殿し、炊飯器の中のライスは焦げた上に歯が立たないほど固かった。

 それでも自分の分だけでなく三人分の朝食を作ろうとしていた沙織を二人は責めなかった。

 ひたすら黙って後悔しつつお嬢様には丁重にリビングへと退場願う。全てを片付けてライスに味噌汁、塩鮭の切り身にベーコンエッグ、野菜サラダというブランチを作り上げるまで約一時間を要した。

 飢えた三人はキッチンでテーブルを囲み、礼儀正しく手を合わせて食し始める。

 箸で甘塩の焼き鮭を裂いて口に入れ、咀嚼して呑み込むと沙織はしみじみ言った。

「美味しいわ。こういう質素で庶民的な朝ご飯ってわたし、憧れだったのよね」
「質素で悪かったな、これが庶民の精一杯だ」
「所詮は赤字会社で負債を抱えていても百二十億ですからね」
「あら、ごめんなさい。悪気があって言った訳じゃないのよ」
「悪気があった方がまだマシに思えるのは私だけか?」
「悪気なんてないわよ、信じて欲しいわ。だってわたし、寝室がひとつしかない家に泊まるのも初めてでカルチャーショックだったもの。霧島カンパニーの会長御曹司がまさかここまで困窮しているなんて思わなくて……」

 食しつつ霧島は眉間に刻んだシワを深くしてゆく。左手で難儀して箸を操る京哉はギスギスとして消化不良になりそうな空気を強引に回避しようと試みた。

「あとでまた食材を買いに出ないと冷蔵庫が空っぽですね」
「粉砕骨折患者には蛋白質とカルシウムを積極的に摂って貰わんとな。少々リスキーではあるが、敵もまさかスーパーカガミヤなどという庶民の食料品店にターゲットが現れるとは思ってもいまい」
「忍さんって本当にネチこい性格してますよね」

 皆がおかわりして綺麗に食べてしまうと霧島を手伝って京哉も片手ながら後片付けに参加し、電気ポットの湯で沙織が三人分のインスタントコーヒーを淹れた。幸い会社で慣れているのかコーヒーは普通の味だった。飲みながら京哉は煙草タイムだ。

 そうして皆が満足するとスーパーが混み合う前に買い物に繰り出す。スーパーカガミヤまでは歩いて十分くらいの距離だ。
 ゆっくり歩いて辿り着いたスーパーにお嬢さまで社長さまにとって目新しいものばかり並んでいて、あれもこれもと買い込んでいるうちに荷物は大量になってしまう。

「支払いはわたしがするわ、奢られるのは癪だもの」

 そう主張した沙織は京哉を従者として夜遊びしていた時と同じく率先してカードで支払いを済ませた。だが大量の荷物を片手の京哉と自分の二人だけで持ち帰るのだと知り不服そうな顔をする。そこで仕方なく京哉が事実を告げた。

「貴女が望んだことだからお分かりでしょうが忍さんは貴女のガードです。一人きりで貴女を護らなければならない以上、どちらの手も塞ぐ訳にはいかないんですよ」

 さすがに京哉の言葉でも沙織は反応する。不思議そうに霧島と京哉を見比べた。

「えっ、一人きりって、どういう意味なの?」
「どうもこうもありません。今朝、僕らは貴女のガード任務を解かれたんです」
「ガード任務を解かれた……?」

 オウム返しに訊く沙織に京哉は噛んで含めるように説明する。

「言葉通りですよ。僕たちにはもう貴女を護る義務なんか何処にもないんです。それでも忍さんは県警本部長命令を無視してまで、厚意で貴女をガードすると言って聞かないんですよ。貴女から忍さんを解雇して貰えませんかね?」

 声を失った沙織の目が霧島と京哉をせわしなく行き来した。

「大体、貴女の軽率な行動がガードを解かれた原因なんです。貴女が僕を脅していたのが上にもバレた。敵は海棠組一派の残党だけじゃなくなった。こうなれば出てくるのはプロ、プロを相手に忍さんはたった一人で貴女を護ろうと――」
「――京哉、もういい。私は私の都合で沙織をガードする。それでいい」
「だめですよ、言わせて下さい。分からず屋のお嬢さまにはこの際はっきり言わないと響かないんですから。僕も怪我さえしてなきゃ忍さんとガードに就いてましたよ」

 落ち着きなく目を泳がせていた沙織が口ごもりながらも反論する。

「だって……わたしは会社を潰す訳には……」
「出勤したのは自分のためじゃない、それくらい分かっています。でも僕の怪我を度外視しても、何度も警告した意味を考えようとせず、まるで無視して『秘密を握った優越感』を振り撒いて歩いた。その愚行のお蔭で敵が増えたのは事実です」
「京哉。私が勝手にやるだけだ。もういいから帰るぞ」

 じっと霧島を見上げていた沙織は黙って深々と頭を下げた。

 人目を惹いていた三人はそそくさとスーパーカガミヤを出る。何事もなくマンションの部屋に帰り着くと三人揃って早々と夕食の仕込みに取り掛かった。
 メニューは鶏の骨付きモモ肉のロースト・野菜のグラッセ添えとエビフライ、コーンスープとサラダにロールパンという三人分のリクエストを全て詰め込んだものである。

 鶏とエビの下ごしらえをしてしまうと一旦休憩、京哉と霧島がコーヒーを飲みつつTVニュースを見る傍らで沙織はボストンバッグからタブレットを出して仕事だ。

 時間を見計らいオーブンで鶏を焼き始めながら三人は交代でバスルームを使う。皆が上がった頃に鶏もいい具合に火が通っていた。エビフライもカリッと揚がる。

「じゃあ明日のために早く寝た方がいいですから、食べますか」

 霧島はウィスキー、京哉は水割り、沙織はサイダーのグラスで乾杯して食事に取り掛かった。だがその間も明日を思ってか沙織は頬に硬さを残したままだった。
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