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第14話
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カウンター席に二人は腰掛けた。カウンター内の蝶タイを締めた男に注文する。
「ホットコーヒーひとつ」
「僕はクリームソーダにしようかな」
それで秋人の脳内に警告灯がひとつ点灯した。自分で意識しているのかどうかは知らないが紫堂は躁状態、つまり精神が昂揚するときに甘いものを摂取したがる傾向にある。同じ双極性障害でも症状は色々だそうなので紫堂特有のパターンだろう。
双極性障害の躁期は気分が昂揚し、眠りもせずに五月蠅いほど喋ったり歌い出したりするくらいは可愛いもので、自分本位となって容易に怒り出したり、酷くなると人によっては性的逸脱行為に及ぶこともあるという。
更には浪費に走って借金だらけになったり、株で大穴を開けたり、街頭演説まで始めたりといったエピソードも聞かれる話だ。
だが本人は病識がなく大概は非常に気分良く行動しているつもりなので、異常に気付いた家族が病院につれて行っても処方された薬を飲まないなど周囲は大変らしい。
しかしいつまでも爽快気分ではいられない。
躁状態でテンションが上がれば上がっただけ、反動でやってくる鬱状態もつらく厳しいものになる。無気力となり食事も摂れず、悲観して自殺を考えることも珍しくはない。
天国から地獄に真っ逆さまという訳だ。大抵この鬱の段階で病院に行くため、単極性の鬱と診断されてしまうことも少なくない。
そんな双極性障害には?型と?型があり、?型の方が躁が激しいらしいが紫堂の場合は『?型じゃないかな』とのことで症状もマシだと聞いていた。事実として街頭演説など始めたことはなく、第三者に異常を指摘されたこともない。お蔭で秋人も助かっていた。
けれど冷静に病識を持ち、抑制が利いていると見えて、じつは誰より高いプライドで自分を抑えつけているだけだ。いつそれが暴発するか分からない怖さがあった。
大体、自分では止められないニヤニヤ笑いも症状のひとつだろう。
今まで秋人は紫堂の躁に二回、鬱に二回付き合ったことがある。
躁のときでも他人に触れられるのを嫌うために性的逸脱などはなく、ある程度の抑えが利いて表面的には普段通りの生活をしていたが、秋人と殆ど同じものを食している筈の紫堂が見る間に痩せていくのを見て気付いたのだった。
精神病薬を飲めば代謝が落ちて却って太りやすくなるらしいが、紫堂は通院もしていない。それで食っても殆ど寝ないで活動し続けているのだから当然だ。最初は食っているふりをしてシャブでも始めたのかと疑った。
そうして心配になりアパートの窓を開けてみると、ロクに眠れず赤い目をした紫堂が音に反応していつでも顔を出すのである。
そのまま朝まで世間話に付き合うくらいはご愛敬だったが、いつぞやはイヤフォンを耳に突っ込み最大音量で音楽を聴きながら、暗い窓辺で身じろぎもせずに微笑みを浮かべていてギョッとさせられたこともあった。
これでも『マシな?型』なのかと秋人は紫堂の自己判断を疑っている。
とにかくそういった状態が十日以上続いても、デカ部屋では普段と変わらない自分を演じ続けるのだ。
秋人は紫堂が疲れすぎて突然死でもするのではないかと懸念したが、それでも周囲に勘付かせることなく躁期を乗り切り保たせたのは、デスクワークを最小限にして殆ど外回りに出ていたからである。
秋人と組む前はさぞかし大変だっただろうと思われた。
だがやっと躁状態が落ち着いて安堵したら、やってきたのは鬱だった。
本人から頼まれてスペアキィを渡され、ベッドから這い出すのも困難な紫堂を引きずり起こし、着替えさせて一緒に通勤した。
当直で二十四時間勤務が避けられないときは仮眠をなるべく多く取らせ、ときにどうしようもなくなると、秋人は自分の部屋に紫堂を寝かせて『張り込み中』で誤魔化すこともあった。
そこまでつらい思いをしながらも、デカ部屋に出勤するといつもの微笑み仮面を保つのだ。並大抵ではない精神力に感心しつつも秋人には不思議だった。
無論精神疾患を抱えての転職は難しいだろう。しかしサツカンにそこまで固執する意味が分からない。病院に行けば症状も楽になるだろうに何故刑事なのか。
ともあれ甘そうなメロンソーダにもっと甘そうなアイスクリームの載ったグラスとコーヒーが出された。柄の長いスプーンでアイスクリームをすくい、紫堂は秋人に差し出す。
「ほら、溶けるから早く」
「ん、ああ、サンキュ」
ひとくち食わせて貰うと思ったより悪くはない。だが男同士で「あーん」もどうかと考え、コーヒーを飲みながら秋人は店内を観察し始めた。
四人掛けテーブル席が四つ、カウンターのスツールが八つある。広い店ではないのでフリースペースは殆どない。目に付くのは漫画雑誌の収まったカラーボックスくらいで、当然ながらその中に昔々のテロ指南書の『腹腹時計』が並んでいる訳もない。
爆弾作りに使う工具の置き忘れもなく、二組の客から左翼らしき雰囲気も嗅ぎ取れず、あとは十九時半に何があるのか訪れてみるしかなかった。
カウンター内の蝶タイ男に灰皿を要求する。すぐ茶色いガラスの灰皿が出てきて、早速秋人は一本咥えるとオイルライターで火を点けた。紫煙を吐くのを待っていたように紫堂も煙草を咥え、ライターを使わずにわざわざ秋人の煙草から貰い火をする。
秋人は近づいた紫堂の赤い唇を眺めて、昨夜のあれも躁の一端だったのかも知れないと思った。虐待していた両親とは縁を切ったという紫堂だが本人曰く『依存体質』と言う通り、秋人は自分が頼られていることを承知している。
お蔭で付き合う女という女は紫堂を見ると秋人から離れてゆくが、どう勘違いされようと秋人は紫堂が重荷ではなかった。いや、重たい荷物ではあるのだが、落として壊さないよう大事に抱えて運んで行きたい荷物である。
どうしてなのかは自分でも分からない。単に相性の問題かも知れない。バディは命が懸かったときにも背を預け合う相手だ。そんな相手として精神病患者を選んだのは正気の沙汰ではなかったが、秋人はごく自然に紫堂をその病気ごと受け入れていた。
色々と考えに耽っている間に、紫堂は腹の立つ原因もないのにニヤニヤし始めていた。こいつはまた覚悟が要るぞと秋人は腹を括る。幸い篠宮署のデカ部屋には出なくていい。
「ホットコーヒーひとつ」
「僕はクリームソーダにしようかな」
それで秋人の脳内に警告灯がひとつ点灯した。自分で意識しているのかどうかは知らないが紫堂は躁状態、つまり精神が昂揚するときに甘いものを摂取したがる傾向にある。同じ双極性障害でも症状は色々だそうなので紫堂特有のパターンだろう。
双極性障害の躁期は気分が昂揚し、眠りもせずに五月蠅いほど喋ったり歌い出したりするくらいは可愛いもので、自分本位となって容易に怒り出したり、酷くなると人によっては性的逸脱行為に及ぶこともあるという。
更には浪費に走って借金だらけになったり、株で大穴を開けたり、街頭演説まで始めたりといったエピソードも聞かれる話だ。
だが本人は病識がなく大概は非常に気分良く行動しているつもりなので、異常に気付いた家族が病院につれて行っても処方された薬を飲まないなど周囲は大変らしい。
しかしいつまでも爽快気分ではいられない。
躁状態でテンションが上がれば上がっただけ、反動でやってくる鬱状態もつらく厳しいものになる。無気力となり食事も摂れず、悲観して自殺を考えることも珍しくはない。
天国から地獄に真っ逆さまという訳だ。大抵この鬱の段階で病院に行くため、単極性の鬱と診断されてしまうことも少なくない。
そんな双極性障害には?型と?型があり、?型の方が躁が激しいらしいが紫堂の場合は『?型じゃないかな』とのことで症状もマシだと聞いていた。事実として街頭演説など始めたことはなく、第三者に異常を指摘されたこともない。お蔭で秋人も助かっていた。
けれど冷静に病識を持ち、抑制が利いていると見えて、じつは誰より高いプライドで自分を抑えつけているだけだ。いつそれが暴発するか分からない怖さがあった。
大体、自分では止められないニヤニヤ笑いも症状のひとつだろう。
今まで秋人は紫堂の躁に二回、鬱に二回付き合ったことがある。
躁のときでも他人に触れられるのを嫌うために性的逸脱などはなく、ある程度の抑えが利いて表面的には普段通りの生活をしていたが、秋人と殆ど同じものを食している筈の紫堂が見る間に痩せていくのを見て気付いたのだった。
精神病薬を飲めば代謝が落ちて却って太りやすくなるらしいが、紫堂は通院もしていない。それで食っても殆ど寝ないで活動し続けているのだから当然だ。最初は食っているふりをしてシャブでも始めたのかと疑った。
そうして心配になりアパートの窓を開けてみると、ロクに眠れず赤い目をした紫堂が音に反応していつでも顔を出すのである。
そのまま朝まで世間話に付き合うくらいはご愛敬だったが、いつぞやはイヤフォンを耳に突っ込み最大音量で音楽を聴きながら、暗い窓辺で身じろぎもせずに微笑みを浮かべていてギョッとさせられたこともあった。
これでも『マシな?型』なのかと秋人は紫堂の自己判断を疑っている。
とにかくそういった状態が十日以上続いても、デカ部屋では普段と変わらない自分を演じ続けるのだ。
秋人は紫堂が疲れすぎて突然死でもするのではないかと懸念したが、それでも周囲に勘付かせることなく躁期を乗り切り保たせたのは、デスクワークを最小限にして殆ど外回りに出ていたからである。
秋人と組む前はさぞかし大変だっただろうと思われた。
だがやっと躁状態が落ち着いて安堵したら、やってきたのは鬱だった。
本人から頼まれてスペアキィを渡され、ベッドから這い出すのも困難な紫堂を引きずり起こし、着替えさせて一緒に通勤した。
当直で二十四時間勤務が避けられないときは仮眠をなるべく多く取らせ、ときにどうしようもなくなると、秋人は自分の部屋に紫堂を寝かせて『張り込み中』で誤魔化すこともあった。
そこまでつらい思いをしながらも、デカ部屋に出勤するといつもの微笑み仮面を保つのだ。並大抵ではない精神力に感心しつつも秋人には不思議だった。
無論精神疾患を抱えての転職は難しいだろう。しかしサツカンにそこまで固執する意味が分からない。病院に行けば症状も楽になるだろうに何故刑事なのか。
ともあれ甘そうなメロンソーダにもっと甘そうなアイスクリームの載ったグラスとコーヒーが出された。柄の長いスプーンでアイスクリームをすくい、紫堂は秋人に差し出す。
「ほら、溶けるから早く」
「ん、ああ、サンキュ」
ひとくち食わせて貰うと思ったより悪くはない。だが男同士で「あーん」もどうかと考え、コーヒーを飲みながら秋人は店内を観察し始めた。
四人掛けテーブル席が四つ、カウンターのスツールが八つある。広い店ではないのでフリースペースは殆どない。目に付くのは漫画雑誌の収まったカラーボックスくらいで、当然ながらその中に昔々のテロ指南書の『腹腹時計』が並んでいる訳もない。
爆弾作りに使う工具の置き忘れもなく、二組の客から左翼らしき雰囲気も嗅ぎ取れず、あとは十九時半に何があるのか訪れてみるしかなかった。
カウンター内の蝶タイ男に灰皿を要求する。すぐ茶色いガラスの灰皿が出てきて、早速秋人は一本咥えるとオイルライターで火を点けた。紫煙を吐くのを待っていたように紫堂も煙草を咥え、ライターを使わずにわざわざ秋人の煙草から貰い火をする。
秋人は近づいた紫堂の赤い唇を眺めて、昨夜のあれも躁の一端だったのかも知れないと思った。虐待していた両親とは縁を切ったという紫堂だが本人曰く『依存体質』と言う通り、秋人は自分が頼られていることを承知している。
お蔭で付き合う女という女は紫堂を見ると秋人から離れてゆくが、どう勘違いされようと秋人は紫堂が重荷ではなかった。いや、重たい荷物ではあるのだが、落として壊さないよう大事に抱えて運んで行きたい荷物である。
どうしてなのかは自分でも分からない。単に相性の問題かも知れない。バディは命が懸かったときにも背を預け合う相手だ。そんな相手として精神病患者を選んだのは正気の沙汰ではなかったが、秋人はごく自然に紫堂をその病気ごと受け入れていた。
色々と考えに耽っている間に、紫堂は腹の立つ原因もないのにニヤニヤし始めていた。こいつはまた覚悟が要るぞと秋人は腹を括る。幸い篠宮署のデカ部屋には出なくていい。
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